第5話

 転機は前触れもなく訪れた。

 朝から雨が降り続く肌寒い6月半ばの学校帰りに、マリカの家で中世を舞台にしたファンタジーな内容のアメリカ映画を一緒に観た。彼女の子どもたちが長男の母親のところに泊まっている時は、ハウスキーパーは午前中だけ来るらしく、俺が着いた時には家にマリカひとりだった。

 スピーカーが室内数か所に接続された大画面のテレビで映画を観終わって、ミルクティーを飲みながら、マリカが大好きだというどっかの有名店のマカロンを食べた。俺たちはリビングのソファに並んで座って話していた。スピーカーからはほとんど聞こえないくらいの音量で、チェロの演奏が流れていた。いつもみたいにマリカが映画のあらすじを説明してから、ふたりで俳優やストーリーについて感想をひと通り話した。俺はだいぶ英語が聞き慣れてきて、あんまり複雑な内容のものでなければ、映画でも英語字幕を追いながらそこそこ理解ができるようになってきていた。そもそもマリカは俺のために複雑な単語が多いい内容のものを選ばなかったし。

 でも俺が映画鑑賞が好きな本当の理由は、マリカと2時間近く隣に座って同じものを共有できるからだった。べつにその時の俺たちの関係から進展を求めていたわけじゃない。進展より継続が俺にとっては最重要だったから。とにかく彼女と会え続けられれば俺は満足だった。

 マリカは会話が途切れた合間に電話をチェックしながら、その週の土曜日に叔母のマンションの掃除に行かなきゃいけないのだと嘆いた。彼女の叔母は、母親の年の離れた妹で、20年以上ロンドンに住んでいた。その叔母はリロケーションサービスを兼ねる不動産関係の仕事をしていて、基本的にイギリスに行く日本人が客のほとんどだったけど、たまにイギリスから日本に来るイギリス人のサポートもしているらしく、マリカは東京でのサポート役として無理やり仕事を押し付けられるのだと文句を言っていた。

「ほら、私って、なんていうか……一般常識に欠けてるの。専門的に勉強したのは音楽だけだし。いくら博士号持ってるといっても音大なんて専門学校みたいなものだもん。一度も会社勤めしたことないしね。だから私、リロケーションの仕事には役立たないって何度も断ったんだけど、叔母さんて……怖いし押しが強い人なの。欠点を自覚してるなら学習しなさいって……」

 マリカはそう言って苦笑まじりに続けた。

「叔母が広尾にある中古のマンションを購入して、リフォームしてから貸してるの。リフォームの時なんて、大変だったんだから……叔母が予めすべてを計画してから、10日間だけ帰国した間に全部段取りをつけてイギリスに帰ったの。その後で、工事の手配とか変更とか確認とか、私は後始末をすべて押しつけられたんだよね……結局、内装とか家具とか必需品は私が選ぶはめになったし。あの時はストレスで気が狂いそうな日々だったなぁ」

 マリカは当時のことを思い出したらしく、大きなため息を吐いた。

 マリカはなんでもそつなくこなして、楽器も弾けて絵も描ける多才な人で、いつもどこか現実感が薄い人間として俺の目に映っていた。でも、マリカが困ったような表情で苦手なことを話すのを聞いて彼女が少し身近に感じた。そして、かわいいな、と。

「でも今回はそんなに大変なことを頼まれてるわけじゃないの。前に入居してた人が出て行った3ヶ月前に一度、業者に頼んでクリーニングしてもらったの。でも、時間が経ってるし、私、細かい所はどうしても自分でやらないと気が済まない性格みたいなのよね。だから、次の人が入居する前に今週末ちゃんと掃除をしようと思って。いろいろと点検も兼ねてね。」

 俺はそれを聞くとすぐに、一緒に行って手伝いたい、と考える前に口にしていた。週末をマリカと過ごせるなら、掃除でも何でも喜んで手伝いたかった。

 俺の言葉を聞いて、マリカは驚いた表情を浮かべた。

「うーん……確かに陽太くんが来てくれると、私が届かない高い所とか手伝ってもらえそうだから、とても助かるだろうけど……でも、きっと丸1日かかるよ?子どもたちが大輝のお母さんと沖縄に旅行に行っていて、私は今週末ずっとひとりだからマンションの掃除を徹底的にしようと思ってたんだけど……」

 俺の顔色をうかがうように、マリカは確認するように俺の目をのぞいた。

「俺は別にいいよ。どうせ、予定なんて何もないし。週末、母親はずっと仕事だし。」

「ほんとにいいの?大輝なんてお願いしても、お小遣いで釣っても絶対に掃除なんて手伝ってくれないのに。陽太くんはほんとによい育てられ方したんだねぇ」

 感心した様子のマリカを見て、俺だって母親の掃除の手伝いなら進んでやろうとは思わないよ、と心の中で彼女の息子に同意しながら、苦笑するしかなかった。

 土曜の朝10時に、マリカは俺の住むマンションまで車で迎えに来た。到着する5分くらい前にメッセージが届いたので、いつもマリカが俺を送ってくる時に車を停車させる場所に向かった。雨は降っていなかったけど、気分まで重くなりそうなほどどんより曇っていて、外に立っていると薄寒かった。俺は白いTシャツの上に長そでのデニムのシャツを羽織って、ベージュのカーゴパンツと白いスニーカーを履いていた。

 俺が足を止めると同時に、マリカの赤いSUVが角を曲がってくるのが見えて、俺の立っている場所にゆっくりと止まった。

 車に近づき助手席のドアを開けると「おはよう」とマリカの声が聞こえた。

 俺も身をかがめて彼女の顔を見ながら「おはよう」と答えて助手席に乗り込んだ。

 朝の挨拶が新鮮に聞こえたから、考えてみると、マリカと午前中に会うのはカフェでバイトをしていた時以来だった。

 マリカは「陽太くん、今日はよろしくお願いします。」と誰にもまねできない笑顔を俺に向けてから、いつものようにゆっくりと車を走らせた。最近流行っている、高くてハスキーな声の女の子の英語の曲を聞きながらささやくように歌っているマリカを、俺は深く後ろに引いたシートに身を沈めて助手席から横目で眺めていた。

 彼女の髪は後ろで束ねられていて、耳には小さいけどがっちりとしたプラチナのフープピアスが見えた。ダークブルーのスウェット上下を着ていて、半分くらいまでファスナーが閉められたフーディの胸元からベビーピンクのTシャツが見えていた。こんなにスポーティな服装のマリカを見たのは初めてで、大学生と言われても信じそうなくらい若く見えた。スポーツクラブに行くみたいだなと思った。

 「マリカさんもそういう格好するんだね」と俺は声に出した。

 信号で停止しているマリカは、ハンドルを握ったまま自分の服装を確かめるように目をやり「私、家ではよくこんな格好してるんだけど……変かな?」と不安そうにつぶやいた。

 俺は首を振りながら「全然変じゃないよ。俺は初めて見たから、新鮮に感じただけ」と正直に言った。

 いつもとは違う意味で色っぽい、という感想を口にするのはやめておいた。

 マリカは運転席からホッとした表情で俺を見つめて「よかった。高校生にこういう服装を若作りとかコメントされたら、凹んじゃうところだったよ」と笑みを漏らした。

 「俺がマリカさんのこと、そんなふうに思うわけないじゃん。っていうか、マリカさんて子持ちにすら見えないし……大学生に見えるよ」

 俺は彼女を直視できずに、視線をまっすぐフロントグラスの先に向けたままだった。

 マリカは数秒間の沈黙の後で「ふーん、そうかなのな?私、自分では年相応に見えると思ってるけど。とくに若く見られたいとも思わないしね」と、ひとり言のようにつぶやいた。

 それからマリカはにっこりとして「陽太くんは、何を着てもカッコいいね」と青になった信号を合図に車を走らせた。

 マリカはよくそんなふうに、いとも簡単に俺のことを褒めた。でも俺はマリカのそういう言葉が気に食わなかった。俺がたまに勇気を振り絞って彼女を褒めるのは本心からなのに、彼女の褒め言葉は、俺をその他大勢のひとりにしてるみたいに客観的に響いて、彼女自身から俺一人に宛てられた言葉のようには聞こえなかった。

 俺たちは10時半には広尾のマンションに着いて、地下駐車場に置いた車から掃除道具を運び入れると、上着を脱いでゴム手袋をはめて、さっそく掃除にとりかかった。

 2LDKのマンションだったけど、ひと部屋の大きさが広くて、俺が住んでいる3LDKのマンションと同じくらいの広さがあるみたいだった。日数は経っていたけど、床や家具、バスルームとトイレは業者がもう掃除を済ませていたので、午前中だけで大まかなところはきれいになっていた。午後は、窓、カーテンレール、ドア、キッチンキャビネットの中、クローゼットの中などを次々に拭いていった。俺は高い場所を重点的に掃除して、マリカは屈みながらの作業を多くしていた。マリカの電話をつないだスピーカーからは、ロンドンのラジオ局が放送する英語のヒットソングが流れ続けていた。

 マリカの生活の中には、ジャンルを問わずいつも音楽が存在していた。俺もよく音楽は聴いていたけど、マリカと知り合ってから初めてクラッシックとかジャズとかボサノバとか、それまで全く興味がなかったジャンルも聞くようになった。

 お昼には、マリカが近所のパン屋で買ってきたサンドイッチと惣菜パンを食べて、30分くらい話しながら休憩をした。夕方6時近くになるとどこを掃除したらいいのか思いつかなくなるくらい、マンションの室内全体がきれいになっていた。自分のマンションでさえこんなに徹底的に掃除をしたことがないなと思った。

 バスルームで脱衣所の掃除を終えたマリカがリビングルームに戻ってきて、周囲を見渡しながら言った。

「陽太くんのおかげでもう全部終わっちゃったみたい。私ひとりだったら明日までかかってたのに」

 彼女は、キッチンカウンターに置いてあったミネラルウォーターをボトルから直接飲んだ。水が彼女の細い喉を通り過ぎていくのが見えた。

「ほんとに今日はとっても助かっちゃった。ありがとう、陽太くん」

 俺は何を言えばいいのかわからないまま、「今日はどうせ予定なくて暇だったし。家にいてもテレビ見て寝てただけだったから……」と言い訳するみたいにつぶやいた。

 マリカは細く微笑みながら、「陽太くん、お腹空いたでしょ?どこに行こうか?何が食べたい?」と明るい声を出した。

 でも次の瞬間マリカは、自分の服装を見下ろして「あ、ごめん……今日私、着替えもこんな感じの服装しか持って来てないんだ。この格好じゃ、行ける場所が限定されちゃうな……」と顔をしかめた。

「俺は……別に何でもいいよ」と言葉にしてから、頭の中で考えを巡らせて「適当にその辺で買ってきてここで食べようよ。弁当とかコンビニのものとかでも、俺は何でもいいんだけど」と提案した。

 俺の正直な気持ちは、このマンションでマリカとふたりだけで、できるだけ長い時間を過ごしたかった。何を食べるかなんて俺にはどうでもよかった。

 マリカはヘアクリップを外して、束ねていた髪を指ですきながらしばらく考えこんでいた。

 数分後いいことを思いついたように「うん、わかった。じゃ、お弁当にしよう!」と得意気に笑い、どこかに電話をかけた。知り合いの店にテイクアウトのオーダーをしているようだった。

 マリカは電話をテーブルに置くと「私、今から簡単にシャワーを浴びて、注文したものを取ってくるね。近くだから20分くらいで戻って来られると思う。陽太くんも、よかったらシャワーしたりして、待っててくれるかな?」と言って、足早にバスルームに入っていった。

 マリカが身支度を整えて出て行った後、俺もシャワーを浴びてから近くのコンビニに飲み物を買いに行った。

 俺がマンションに戻るとマリカはすでに帰ってきていた。

 俺はリビングルームに入りながら「コンビニでお茶とスパークリングウォーター買ってきた。マリカさん、早かったね」と、ダークブラウンの皮のソファの前でコーヒーテーブルに買ってきたものを広げている彼女に声をかけた。

 「陽太くん、出かけてたの?シャワーを浴びてるのかと思ってた」とマリカは驚いて俺に振り返って言った。

 「シャワーはもうさっき浴びたよ」と答えながら、マリカの後ろのテーブルに目をやると、ふたりじゃ食べきれない量の豪勢なクラブサンドイッチと巻きずしが並べられていた。どう見てもその辺で買ってきたお弁当っていう感じじゃなかった。

 俺は思わず「それ、どこで買ってきたの?」と聞いた。

 「ここから車で10分もかからないところに知り合いのお店があるの。何か簡単に準備できるものをって頼んだら、こんなに用意してもらっちゃった。ふたり分だって伝えておいたんだけどね。しかも、缶ビール2本おまけしてもらったの」

 マリカは「ごめんね、私だけ得しちゃった。でも陽太くんはデザートを全部食べていいからね」と嬉しそうに微笑んで、白い箱に入っている小さいフルーツタルトとブラウニーを俺に見せた。

 俺は嬉しそうにしているマリカの姿を見て微笑んだ。

「そんなもの見せられたら、お腹がすごい減ってきた。早く食べようよ」と俺はキッチンから、コップと食器を運んだ。

 このマンションは家具付きで賃貸しているので最低限の食器類も揃っていた。

 ふたりでソファに並んで座り、いつものように思いつくままの話題をとめどなく話をしながら、サンドイッチと巻きずしを食べた。マリカのカジュアルな服装のせいなのか、それとも彼女の家より狭い空間にいるからなのかわからないけど、いつもよりも彼女との距離が近くに感じていた。ふたり掛けのソファに並んで座っているせいだったのかもしれない。話をしている間に身体を動かすと、俺たちの肩や腕や脚が何回も自然に触れた。

 それに、マリカは滅多に飲まないお酒を飲んでいた。きっと、今日は俺をタクシーで送るつもりでいるのだろうなと思った。

 そういえばマリカは車で来ているんだった。

 「マリカさん、ビール飲んじゃったけど、車の運転どうするの?」と俺は心配になった。

 マリカは「大丈夫。私はもともと、今日1日で掃除が終わらなかったら、ここに泊まろうと思ってたから。シーツと毛布も車に入れてあるし」と楽しそうに笑っていた。

 お腹いっぱいになってふたりとも食べ物に伸ばす手が止まると、マリカが「あっ、そうだ!」と重要なことを思い出したように言った。

 ビールのせいで彼女の顔は少し赤くなっていたし、普段より声が少しだけ大きい気がした。いつもと違うマリカが見られて、俺はなんとなく楽しい気分になっていた。

 俺は「どうしたの?」と聞いた。

 「陽太くんに今日のバイト代を渡さなきゃ」

 俺は驚いてから興ざめして、「いらないよ」とぶっきらぼうに答えた。

 マリカは「ダメだよ。今日は朝から丸一日手伝ってくれたじゃん。私だってこれは、叔母さんから頼まれてる仕事の一環でやってるんだから。給料だってちゃんともらってるんだし」と言って、床に置いてあった彼女のベージュのトートバッグから白い封筒を取り出して俺に差し出した。

 俺は理由もわからずなんとなく不機嫌になった。封筒から顔を背けて「いらないって言ってるじゃん」と繰り返して、ソファの背もたれに身体を埋めた。

 朝からずっと一緒にマリカと過ごせて、それまで上機嫌になっていた俺の気分は、この封筒のせいで一気に急降下した。

 マリカはそんな俺の態度にもひるまず、俺の右手を取ると無理やり手のひらに封筒をのせた。

 俺にとっては楽しい土曜日だったのに、マリカにとってはお金で清算する時間だったんだ。

 俺は封筒を受け取らずに手を引こうとすると、彼女は両手でギュッと俺の手を挟んで動きを止めた。

「ダメだよ、陽太くん。ちゃんと受け取って。ね?」とマリカは俺の目をのぞき込んだ。

 衝動的だったのか、今までずっと考えてきたことを行動に移したのか、自分でもよくわからなかったけど、気がつくと俺は左手で彼女の右腕をつかんで、彼女の顔を俺に近づけてキスをしていた。彼女は驚いて俺の胸を押して離れようとしたけど、彼女が力を入れれば入れるほど、彼女の後頭部に回した俺の右手に力がこもり唇を離さないまま強く抱きしめていた。

 それまでずっと隠したりごまかしたりしきた俺の感情を、一気に彼女にぶつけてるみたいだった。

 5分くらいか、10分くらいなのか、とにかく彼女は長く抵抗し続けた。それでも俺は彼女を離さないで、強く抱きしたままキスを続けた。なんだか段々と、俺は懇願しているような気分になっていた。女の人にこんなに力を込めて触れるのは初めてだった。

 しばらくして、彼女はようやく諦めて俺を受け入れたように、体から力を抜いて俺の腕の中におとなしく包まれた。それでも俺がずっと唇を離さずにいると、少しずつ彼女の口が開いて、そのうちに今度はマリカが少しずつ俺を求めるように舌を動かした。

 そんな彼女の態度は俺の身体の中に炎につつまれた熱いものを流し込んできた。俺はかなり長い間むさぼるみたいなキスを続けてから、少しずつ目を空けると別世界に飛ばされていたような感覚がした。こんな気分にさせられるキスをしたのは初めてで、心が震えてる感覚を覚えた。

 マリカはそっと俺から口を離すと「これってさ……」と、俺の短い髪に右手の指を通しながら言った。

 「どう都合よく見ても、違法行為で、私が罪を犯してるんだけど……」と彼女は自嘲しているような、俺を脅しているような複雑な表情をした。

 俺は、彼女をつなぎとめようと必死になった。このままこの人との関係を終えるわけにはいかなかった。絶対に嫌だ。だめだ。

 「マリカさんて、スピード違反とか飲酒運転とかする?」

 彼女は、その質問の意図は何?とでも問うような口調で答えた。

「飲酒はしないよ。スピードは……一般的に許される程度かな。一度も捕まったことないけどね。私、ゴールド免許だし」

 返答を聞いて、俺は彼女の瞳を見つめた。

「マリカさん。俺となら……違法行為してもいいじゃん……誰にも迷惑かけないんだし」

 いつものように女の子の瞳の奥を見つめて、俺の思い通り流れを作るつもりだった。けど、マリカの瞳を見つめれば見つめるほど、こっちの中身を見抜かれている気持ちになった。だめだ、この人にはこの手は通じない。

 「迷惑をかけない……か。どうなのかな……」

 マリカは、子どもを諭すような口調になっていた。

 「あのね、おとなは子どもの人生に簡単に大きな消えないシミを残してしまうほど、影響してしまうものだと思うんだ。だから私と陽太くんは、こういうことをしてはいけないんだよ」

 マリカは俺の髪を触りながら、慎重に言葉を選んで考えながら言った。

「俺はそんなの平気だよ」と嘲るように言い放った。「っていうかさ、俺の一生に影響するような関係なんてありえないよ。たとえそれがマリカさんでもね」

 強がるわけでも、その場しのぎでもなく、それは俺の本心だった。どんなにいい女であろうと、たとえほかの誰とも違うマリカであろうと、俺にそこまで入ってくることなんてできるわけがない。

 挑戦的に見据える俺の目を、マリカは何も言わずに静かに見つめ続けた。気のせいかもしれないけど、俺を憐れんでいるような気さえした。

 俺は目の前にいるこの人にもっと近づきたかった。触りたかった。この人のすべてを見てみたかった。でも彼女にはいつもの俺の手段が通じないんだ、と悟った。俺はこれ以上どう言えば、どうすればいいのかわからなくなって、当惑していた。同時に、このチャンスを絶対に逃したくないと焦り始めていた。これを逃したらこの人は俺の前から消えてしまうかもしれない。

 次の瞬間気がつくと俺は、マリカを自分の腕の中に抱きしめていた。しかも俺の腕には、自分でも驚くほど強い力が込められていた。

 俺の腕の中にすっぽりと納まっているマリカの肩は細くて、でも離れがたいほど彼女の身体は柔らかかった。想像していたよりもだいぶ華奢な体つきをしていた。さっき、俺も同じシャンプーと石けんを使ったはずなのに、マリカからは胸が締め付けられるほどいい匂いがした。

「どうしてもマリカさんが欲しいんだけど……ダメ?」

 俺は彼女の首に顔を埋めて、自分でも情けなく思うほど弱々しい声を出していた。声がかすれていた。これはもはや懇願だ。

 しばらく俺の腕の中で身動きをしていなかったマリカは、大きなため息をひとつ吐いてから、身体を動かして俺の顔をのぞき込んだ。俺は腕の力を弱めて彼女の視線を受け止めた。

「陽太くんは、こういう場面で、普段の陽太くんからは想像できないほど甘え上手になるんだね」

 自分でも驚いていた。こんなふうに、女の子にすがったことなんて今まで一度もなかった。

 マリカは俺の髪に指を通しながら、何か考えてるみたいだった。

 「ねぇ、どうして私なの……?陽太くん、高校生の女の子にもてるでしょ?私なんて……必要ないでしょ?」

 俺は「マリカさんがいい……」とつぶやき、しがみつくように彼女の首に顔を埋め抱きしめる腕に力を込めた。

 高校生になってからふたりの女子とセックスしたことがあった。それまで通り何も考えないで行動をしていて、ひとり目とは途中から嫌気が差した。ふたり目は最初から、自分が何をしたいのかわからなくなって、途中でやめた。その子とたちとセックスしたいと思ってない自分がうまく理解できなかったし、女の子たちと遊ぶのがうっとうしくさえ感じる自分が不思議に思えた。

 でも今はそれがなんでだかわかる気がした。俺はずっとマリカが欲しかったんだ。ほかの人じゃダメなんだ。俺はマリカにそれを伝えるために必死になっていた。でも、その感情の正体がなんなのかよくわからなかったから、実際には伝えようもなかった。

 マリカは「ねえ陽太くん、……前から、こんなふうに私に対して……思ってたの?」と質問した。

 俺は彼女の首に顔を埋めたまま、うん、とうなるように頭を動かした。

 「ずっと思ってた。バイト先のカフェで、マリカさんに初めて会った日からずっと……」

 俺はなんでこんなに必死なんだろう、と自問したけど、答えを探している余裕はなかった。

 マリカはもう1度深いため息を吐いて、「私っていくつになっても考えが足りない人間なのね……陽太くんがそんなこと考えてるなんて、今の今までまったく想像もしてなかった」と自分に呆れたみたいに短く笑った。

 「でも、なんで……私なんだろうね?私は、こんな陽太くんを拒めないほどダメなおとななのに。かわいそうな陽太くん……」

 そうささやいて、マリカは腕を俺の背中に回し優しく数回撫でた。彼女の唇が俺のに重なると、俺は文字通り我を忘れた。俺の視界には彼女しか入らなくなった。彼女の指先、声、まぶた、口、息づかい……すべてに俺の身体は息苦しいほど強く反応した。乱暴にむさぼりつく俺をマリカは優しく包み込むように受け入れた。

 その日、俺は初めて女の人と一緒に夜を過ごした。何度彼女を求めても、マリカは俺を甘く受け入れた。3度目から俺は自分の快感よりも、マリカの反応が欲しくなっていった。そう思えば思うほど、刺激があらゆる方向から俺の身体を突き刺していった。それまで経験したセックスでは感じたことのないものだった。俺はその夜、おとなの女の人とのセックスはこんなに感動的なんだと、身震いをするほどの衝撃を受けた。

 マリカと初めて過ごしたその夜は、間違いなく俺の人生で一番幸せな時間だった。

 その日以降も、それまで通り俺たちは月に2、3回会い続けた。でも前とは違って、俺が彼女に会うのに、会いたいという気持ち以外にもう理由もいい訳も必要なかった。マリカの車で出かけることが多かったが、電車で出かけたり、彼女の家で会うこともあった。俺は会うたびに彼女を求めたし、彼女が俺を拒んだことは一度もなかった。だから俺は、マリカも俺と同じ気持ちなんだろうと思っていた。

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