第4話
初めてマリカと食事をした日から、俺は頻繁に彼女にメッセージを送った。朝学校に行く前から夜寝るまでの間、俺は暇さえあればずっと彼女のことを考えていた。マリカからの返信はいつもすぐに来るわけじゃなかったけど、でも一日に何回かは短くても返事を受け取った。メッセージをしていると、彼女とどこかでつながっていられるような気がしていた。
それから、月に1回か2回はご飯を一緒に食べるようになった。誘うのはだいたい俺だったけど、普段家でひとりでご飯を食べてる俺に彼女は同情しているみたいだった。実際は、毎日家事代行サービスかケータリングで、母親が俺のために食事に困ることがないように、いつも準備しておいてくれた。確かにひとりで食べることがほとんどだったけど、俺にとってはそれがずっと普通で同情される意味がわからなかった。とにかくどんな理由でも、マリカに会えるのはうれしかった。
マリカの夫はヨーロッパに出張することが多くて、ここ数年は1年の3分の2はイギリスかドイツで仕事をしているのだと話していた。
マリカの生活は、子どもたちを中心に回っているみたいだった。彼女自身も時間に不規則な仕事をしていたから、彼女の家にも毎日ハウスキーパーが通ってきていた。食事の準備や掃除洗濯、家事全般はウスキーパーがするので、マリカはほとんど家事をすることはないと話していた。それに、子どもたちは兄弟一緒に、月に2回、1度に2、3日は大輝の母親の家に泊まりに行くことになっていたので、マリカはけっこう自由に外出できる日があるみたいだった。
マリカは絵を描く仕事以外に、不定期にオーケストラでバイオリンを演奏していた。音大の大学院を出ていて、大学から大学院にかけてオーストリアに留学をしていた。本業はバイオリンで、イラストの仕事は数年前に始めたらしい。バイオリンは心の余裕を保って演奏したいとかで、張り詰めないスケジュールで仕事をしているのだと言っていた。
俺たちはだいたい夕方4時か5時くらいから会って、食事をして、たくさん話をした。俺は私服で行くことが多かったけど、着替える時間がなくて制服で会っていても彼女はまったく気にかける様子がなかった。人混みが苦手な彼女は車で外出するのが好きらしく、愛車の赤いランドローバーで俺を迎えにくることもあった。門限はないから時間は気にしなくていいと何度も言う俺を無視して、マリカは必ず夜9時までに俺を家に送り届けた。
彼女と過ごす時間は何をしていても楽しかった。マリカは母親でも姉でも友だちでもカノジョでもなかったけど、俺のことをほかの誰よりも理解してくれているみたいだった。というより、ほかの誰よりも、俺を俺として受け入れてくれる感じがした。
彼女の話を聞くのは何よりも楽しかったし、俺もなんでも彼女に話したくなった。俺の話を聞いて笑ったり、驚いたり、呆れたり、共感したりする、マリカの反応を見るのが楽しみだった。
その一方で俺は、マリカと出会った日からずっと、ひとりの女の人として彼女に惹かれていた。けど、マリカは俺にそんな気持ちを望んでいなかったし、俺の気持ちが彼女にとって迷惑なことはよくわかっていた。だから俺は彼女の前では、いつも自分の欲望をひたすらごまかしたり隠したりしていた。俺が最優先するのは、マリカに定期的に会う理由を見つけることだった。彼女を失いたくなかった。
マリカと4度目にご飯を食べに行ったのは11月の初めで、俺たちは赤坂のスペイン料理のレストランに行った。店の中はビーチリゾートのようなインテリアで、6種類のタパスとシーフードパエリアを食べ終えて、俺はコーラ、マリカはノンアルコールのサングリアを飲んでいた。会話がひと段落したところで、英語とドイツ語が話せるというマリカに、ドイツ語を教えてくれないかと頼んだ。定期的に自然に会える理由として、前もって考えていたことだった。俺は、マリカはいつものように優しい笑顔で、うん、いいよ、と簡単にオーケーしてくれるものだと思っていた。
けど予想に反して、俺の頼みごとは彼女を当惑させてしまった。
「ドイツ語って……教えるのは構わないけど……でも、陽太んくんて学校でドイツ語を勉強してるわけじゃないでしょ?そもそも、陽太くんは今、受験生だよね?ドイツ語は、テストとか受験のためじゃないよね?」
俺の通う学校は中高一貫の私立校で、一定基準を満たしてさえいれば高等部に進学できたし、俺の場合今までの成績から考えると進学には問題ないと説明した。
けれど、マリカは納得しなかった。
「そうなんだ……でも、高等部への進学通知は、まだ正式に受け取ってるわけじゃないんだよね?」
通知が送られてくるのは12月に入ってからだった。
しかも俺は、外部受験することも想定して、受験の準備を中学に入ってからずっとしてきてるから、今さら焦ったところで何も変わらない。
俺がそう説得しても、マリカは一貫して腑に落ちない表情を崩さなかった。
「あのね、人生には理不尽なことが起こるものなんだよ。絶対に大丈夫だと信じていても、そうじゃない結果に終わることなんて珍しくないし……」
マリカは慎重に言葉を選んで話しながら、彼女の前に置かれていたサングリアのグラスをゆっくりと持ち上げ唇に傾けた。
そういえば、マリカがアルコールを飲んでいるのを見たことがないな、とふと思った。俺の両親は、家でも外でも夕飯を食べる時は必ずビールとかワインとかを飲むので、おとなはみんなお酒を飲むものなのだと思っていた。マリカはもしかして俺の前で気を使っているのかもしれないと、少し寂しさのような感情を覚えた。
「じつはね、今日はもともと陽太くんに、進路が確定するまでしばらくの間会うのはやめようって言おうと思ってたの。だって、陽太くんにとって、今はとっても大切な時期で……それこそ人生が左右されちゃうような時に、私と頻繁に何時間も会ってるのはよくないと思うの。」
何言ってるんだ、この人……もう、俺と会いたくないってこと?
「それと、私は今月から年末にかけて、オーケストラの公演が何日も入ってて、集中的にバイオリンの演奏をしなきゃいけないし。当分の間、なかなか自由な時間を見つけられなくなると思う。」
俺は、マリカの言っていることがすぐに理解できなかった。
頭を殴られたみたいなショックを受けた。自分がどうしてこんな打撃を受けるのかも飲み込めずひたすら頭が混乱した。
俺はこれから今までよりもっと定期的に会えるようになると期待してたのに……
その時自分がどんな表情をしてたのか、全然わからない。ただ、俺の反応を見てマリカが動揺した様子で、俺を諭すように話した。
「違うの、陽太くん。もう会わないって言ってるんじゃないからね?陽太くんの進学先が決まって、私の仕事が落ち着いたら、またこうやってご飯食べに行こう、ね?」
俺は無意識のうちにうつむいて、コーラのグラスを取ろうとしていた手をそのままテーブルに置いてしまったようだった。
マリカは身体を少しテーブルに乗り出して、俺の右手を彼女の左手で上から包みこんだ。彼女の手はひんやりとして、柔らかくて、小さかった。俺のゴツゴツしてる手と比べると、彼女の手は子どもの手みたいに無垢に見えた。
俺は彼女の手をギュッと握りしめたい衝動に駆られた。
もっともっと、この人に触りたい。この手で俺を触って欲しい……
胸が締めつけられてうまく息ができなくなった。俺は身じろぎできず、硬直したまま、俺の手を包むマリカの手を見つめていた。
「ごめんなさい。陽太くんがこんなにショックを受けると思わなかったから……私の言い方がよくなかったよね」
マリカは俺の反応を見て焦っているみたいだった。彼女の指が動いて、俺の手の甲をなでた。彼女はその手から何かを俺に伝えようとしていたのかもしれないけど、俺には彼女の真意は少しも伝わらず、違う意味合いにしかとれなかった。
「私、小さい頃からピアノとバイオリンを練習してきたって話したでしょ。最初は大好きで始めた楽器も、嫌になるほど練習して……練習させられて。それでも先生に注意されて。色々なことを犠牲にして練習に時間を捧げても、コンクールになると些細なことが原因で思い通りに演奏できなかったり……自分よりも明らかに才能がある人の演奏を聞かされて落ち込んだり……だからなのかもしれないな。私、テストとか、不確定要素があるものには、この年になってもまだとっても神経質になっちゃうの。トラウマになってるのかもね」
マリカは最後の方はひとり言みたいに話し、自嘲するような表情をした。
「さっき私が言ったこと、訂正させてもらっていい?会うのをやめるんじゃなくて……次に会う時は、陽太くんの高校進学のお祝いをさせてくれるかな?陽太くんは進学の結果が出たら、何を食べに行きたいか考えておいてね。なんでもいいよ、ステーキとか焼肉とか。陽太くんが食べたいものを一緒に食べに行こう」
文句のつけようがない笑顔を添えてマリカが言った。
なんとなく、この人がどうやって彼女の子どもたちに接しているのかを、垣間見たような気分になった。
やっぱり、マリカにとっては俺は子どもでしかないんだ。俺が今、彼女のこの小さな手の下でどんなことを考えてるかなんて、きっとこの人には想像もできないんだろうな。
「それって、もしも俺が外部受験することになったら、3月までマリカさんに会えないってこと?」
俺がそうぶっきらぼうに質問すると、俺の手をギュッと握って「今は受験に集中して、がんばって」とマリカが真剣な顔で答えた。
俺に会えなくなることなんて、まったく気にしてなさそうなマリカに、仕返しをしたくなった。
「それなら俺は外部受験なんてしないよ。このまま高等部に進学するなら、来月中に結果がわかるし」
俺が投げやりに言うとマリカは「陽太くん……」と悲し気な顔をして、俺の右手から手を離した。
彼女の反応がかわいくて俺は笑い出さずにはいられなかった。
「あのさ、俺が小学校の時、今の学校入るのにどれだけがんばったか知ってる?放課後友だちと遊びにも行けないで、ほぼ毎日塾に通って、その上週末は家庭教師もいてさ。マリカさんも、知ってるでしょ?俺の学校、全国でも有名な進学校なんだよ。内部進学できるならわざわざ外部受験なんてしないよ」
マリカはホッとしたように胸に手を当てて息を吐いた。
「もう……驚かせないでよ。陽太くんて、こんなイジワルする人だったんだねぇ」
マリカは目を伏せ拗ねた表情をして、赤い半透明の液体が入ったグラスを口に運んだ。
今度は彼女を抱きしめたい強い衝動に駆られた。でも太腿の上で両手で拳を握って「ハハッ!マリカさんてかわいいね」と笑いとばしてごまかした。
結局俺は12月の半ばに附属高校への進学通知を受け取って、翌年の1月初めにマリカに進学祝いをしてもらった。
行きたい店を聞かれて、俺はきれいな夜景が見えるところに行きたいとわがままを言うと、マリカは「高校進学祝いにはふさわしい場所じゃないと思うんだけど……」としぶりながらも、新宿のホテルの最上階にあるステーキハウスに連れて行ってくれた。
彼女はクリコのシャンパン、俺はジンジャーエールで乾杯をした。足下に広がる夜の東京の光を眺めながらふたりともいつも以上に上機嫌で2時間以上とりとめのない話をした。
帰りに俺の家の前でタクシーから降りる時に、マリカは「おめでとう」と白いリボンのついた箱を手渡した。家で空けてみるとアルファベットで俺の名前が刻まれた銀色に光るカランダッシュのボールペンが1本入っていた。
高校に進学するちょっと前からマリカに英語を教えてもらうことになった。ドイツ語じゃない理由は、彼女曰く、まずは1つの外国語を習得してから2か国語目に挑戦するべき、ということらしい。
「私は語学の先生じゃないから会話中心で、テスト問題とかは教えられないからね。学校の勉強をおろそかにしないこと」とマリカは何度も念を押した。
俺は、親にも了解を得ているから授業料を払うと何回も言ったけど、教える勉強をしたことない素人だから受け取れないと、マリカは頑なに断り続けた。
最初の3ヶ月は文字の大きい200ページくらいの、たぶん小学生高学年向けの英語の本を読まされた。そのあとは、英語字幕付きでアメリカのドラマをひたすら見ることになった。本もドラマも慣れるまで俺の脳が音を拒絶してるみたいに意味がわからなかったけど、マリカの指示通り無理やり続けていると、いつの間にかストーリーに飲み込まれていった。
「最初は混乱すると思うけど、とにかくひたすら進んでみて。いっぱいわからない言葉があっても、気に留めないで続けて。わかるところだけ読み取ったり、聞き取ればいいからね。意味が分からない、どうしても気になるストーリー上重要な言葉だけメモして、後で辞書を引いて調べてね」というのが、マリカからの指示だった。
最初はほとんどドラマの内容がわかっていなかったけど、1話見終わるとマリカがあらすじを教えてくれた。1か月ちょっとくらい続けるうちに、半分くらいは想像しながら理解できるようになった気がした。それで俺はけっこう満足だったし、それまで苦手だった英語の授業もテストも少しやる気がでた。マリカのレッスンを受けるまで、英語は得意でも不得意でもなかったけど、将来的には話せるようにならなきゃいけないんだろうなと漠然とした感覚はあった。俺の得意科目は数学と化学で、完全に理系に傾いていた。
本を1冊読み終える毎にマリカが答え合わせをするかのように内容を教えてくれた。1冊目より2冊目、2冊目より3冊目、ドラマは第1話より2話、2話より3話と、どんどんと飲み込まれる速さが短くなっていくような気がした。質問がある時はメールで聞くと、いつもわかりやすい説明で返事をくれた。本を読み終えた後とかドラマを見た後にメールで報告をすると、大抵その日のうちに電話をかけてきてくれて、長い時は1時間くらい説明とか解説をしてくれた。俺が感想を言うと興味深そうに耳を傾けていて、彼女の見解も教えてくれた。
レッスンが始まっても、ふたりで机に向かって勉強するようなことはなかった。おかげで、月に2、3回会っても勉強のためじゃなくて、それまで通り一緒にご飯を食べたり、話したりするのが目的だった。たまにマリカの子どもたちの服の買い物に付き合ったり、彼女の車で遠出したりすることもあった。けど、俺が高校生になっても変わることはなく、やっぱり夜9時にはいつも家まで送り届けられた。
初めて食事をした日からいつもマリカが全て支払いをした。最初の日に俺が払おうとしたけど、マリカはきっぱりと「そういうことは必要ないから」と乾いた口調で言った。2度目に食事をした時に俺がお財布を出すと「私と一緒にいる時に、陽太くんがお財布を出す必要は絶対にないから」と有無を言わせない強い口調で言い放った。それで彼女が俺に支払いをさせることは絶対にないんだと理解した。それ以降マリカと会っている時に支払いを気にするのはやめた。
どんなお店でも彼女が金額を確かめたり気にしている姿を一度も目にしたことがなかった。彼女の住んでいる家や生活状況から考えても、金銭的にかなり余裕がある家なんだと容易に察しがついた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます