第一節 12月25日
黎明の、肺が凍るような気温はよほど冬らしくなっている。
ほう、と白い息を吐き出した12の少女は、朝靄の中に溶けてゆくその様子をまだ美しいと思えなかった。
「──おかえり、お母さん。」
暖房もストーブもないこの極寒の部屋は、軽く零度を下回るだろう。その中でこうも熟睡できるほど、母親と呼ばれた女は疲弊しているということが安易に想像出来る。
疲弊、憔悴、過労。その言葉が正しく合うように、女は目に見えて憔悴していた。
綺麗な顔が台無し、とはまさにこの事だろう。化粧を落とすことさえ億劫なようで、酷く赤いリップが目の下のクマを強調させる。
女と少女瓈蓏が親子関係であるのは、階級こそ違えど太腿の裏側に刻まれた痣が匂わせていた。
「──……起こさせないで。」
ゼニスとアビス。秀麗と醜悪。歪んだ親子愛。
普通なら崇められるべき立場にあるゼニスがなぜ濃い化粧を施して夜の街に出掛けるのか。
そして、人生の歯車を狂わせたこの無垢な少女を心から憎めないのか
それはこの世界にある言葉で言い表すには極めて難解だと言えるだろう。
確かにその親子の中に愛はあるのに、それは不確かに揺れていて、結果行動として顕るのは少女
「…ごめんなさい。」
いっそ、この娘を憎んでしまえれば、と女は微睡みに揉まれながら思う。
最高権威ゼニスの痣を多く輩出してきた
不運なのは、女は夫を愛していたということだ。
夫は他に愛したい別の女が存在していた。にも関わらず知らぬ女と婚約させられ、必然的に女を恨んでしまうのは当然のことである。
幾度か男と逢ううちに、女は愛されていないことに気付く。私はこんなに愛しているのに。私ばかり愛して辛い、苦しい、悲しい。
女はほとんど襲うような形で妊娠した。16の時である。
夫は婚約破棄する理由ができ、あっさりと書面を白紙に戻した。
一人娘であったが故に多方面から期待の眼差しを受けていた女を絶望に叩き落とすのは簡単なこと。女の両親ともに正義感が強かったことも相まって、女はたった18という若さでその子供共々屋敷を跨ぐことを禁じられた。
それでも、と女は思う。
それでも自分の娘なのだ。可愛く愛しい娘なのだ。憎めるはずがない。
だから苦しい。金銭的にも、精神的にも、肉体的にも。
女は限界だった。
「瓈蓏、出掛けましょう。」
それは、ケーキ屋のショーウィンドウが隠れてしまうほど人の並があった日のことだった。
女が、1週間ごとに違う男を連れて見せる笑顔と一緒な顔をして瓈蓏に言った。
「…どこに?」
「どこでもいいわ。好きなところに好きなだけ行って、好きなものを買いましょう」
「お、お母さん。」
「どうしたの。喜ぶところよ。ほら、喜んで。」
「──うん、嬉しい。ありがとう、お母さん。」
聡い少女は知っていた。
諭吉すらない女が、学校で流行っている可愛いキャラクターの鉛筆すら買えないことに。
アパートの郵便受けに水道代とガス代の請求書が溜まっていることに。
だから、好きなものを買えということは“品物を奪ってしまいなさい”とイコールであることに、気付いていた。
「瓈蓏はどこに行きたいの?」
「え、えっと…。」
ケーキ屋のショーウィンドウをちらりと見る。
漂ってくる香りから味を妄想するだけでなく、五感全てを使ってショートケーキを味わってみたいと思った。
「ケーキが食べたいの? でもダメね、人が多すぎる。」
「…私、ケーキが食べたい。」
「聞こえなかった? ケーキはダメなの。……おい、聞こえてんのか?」
鈍い痛みが頬を襲う。
はっとして顔を上げれば、女が血眼で瓈蓏を見ていることに気付いた。
「お、お母さん…。」
「ケーキはダメなの! なんで貴女はいつもいつも迷惑しかかけないの!? 学校に行かせてあげてるだけ感謝しろよ!」
ヒステリックに女は叫んだ。通行人が何があったとざわめき出す。向けられるカメラに、瓈蓏はただ俯くほかなかった。
「ちょっと。」
そして、出逢うのだ。
「小さな子に何してるんですか。警察呼びますよ。」
少し掠れたハスキーボイス。不健康そうな青白い肌。対照的にすらりと伸びた背。
「誰なのよアンタ! 瓈蓏に何する気?!」
「──…君、走って。」
初めて大人の背後を追い掛けた。
女はいつも、瓈蓏を追い掛けていたから。
この少し特別な日は、クリスマスという名称がついた魔法であると知った時、瓈蓏はひどく驚いた。
海に溺れる海月たち 弥生 あまね @Yayoi_Amane
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