受動と能動の狭間の知性

和泉茉樹

受動と能動の狭間の知性

      ◆


 トラックの助手席というのは落ち着かないものだ。

 運転席では運送屋のドライバーが退屈そうにタバコを吸っている。

 僕が乗っているトラックの前にもトラック、その前にもトラックと、長く長く隊列は続いている。

 ここは紛争地帯の検問から一キロほど離れた場所になる。検問が封鎖されており、支援物資を運び込むはずのトラックの群れはかれこれ、三時間はピクリとも進んでいなかった。トラックはエンジンを止めて待っている。

 フゥっとドライバーが煙を吐き、窓から外へタバコを弾き飛ばすと、「水はあるか?」と声を向けてきた。

「どうぞ」

 普段から腰に下げている水筒を外して差し出すと、悪いな、とドライバーは受け取り、わずかに傾げた。

「どこから来たって言ったかな、お前さんは」

 水筒を返しながらの言葉に、隣国の名前を告げる。フゥン、というのがドライバーの返答だった。強い風が吹き、舞い上がった砂ぼこりが車内に吹き込む。ドライバーが窓ガラスを閉める。

「あの国はまだマシだろう。何が嬉しくて巡航ミサイルが降り注ぐような場所へ行く? 法外な報酬でも手に入るのか?」

「法外ではないですが、報酬はもらえます。一応、報道機関職員です」

 着ているジャケットのポケットから報道関係者であることを示す腕章を取り出して見せる。その腕章には東方の国の放送局のロゴもある。もっとも、僕もそのロゴを見たのは最近だし、これから踏み込む場所では誰も何のロゴか理解できないだろう。

「報道ね。下手なところに首をつっこむとミサイルで消し飛ばされるより悲惨なことになるぞ」

 かもしれませんね、とだけ答えておく。

 今から向かおうとしている紛争地帯では、正規軍が武装組織を制圧している、というのが本来的な意味だが、もちろん、正々堂々の撃ち合いしかない、などということはない。

 例えば武装組織に斥候と勘違いされて拘束、拷問を受けるかもしれない。

 ドライバーはそんな展開について忠告してくれているのだ。生死に関わる助言だろう。

 ドライバーが「うんざりするな」と呟くが、返事が欲しいようではないので僕は黙っていた。

「俺からすれば仕事があるからありがたいが、もっとまともなところで働きたいものだ」

「あなたのご家族はどちらに?」

 それとなく訊ねると、ドライバーはにんまりと笑い、先進国の国名を挙げた。

 すぐには信じられなかったので彼の瞳を覗き込むと、愉快げな色がそこにある。

「これはここだけの話だが、うちの家族は丸ごとスパイの手先でね、それなりに働いたから保護してもらえたのさ。命を狙われている、とも言えるがね」

「そんな小説のようなことがあるのですか?」

「あることにはある。遠い国のお偉い連中でも、こんな辺境の市井に混ざり込むスパイはそうそう用意できない、ってことさ。それなら俺たちのような裏切り者を用意したほうが手っ取り早い。ついでに言えば、いくら死んでも遠い国の国民は少しも良心が痛まない」

 どうとも答えずにいるところで、運転席にある無線機が不意にノイズを発し、検問が開いたという情報が入ってきた。

「どうやら危険地帯には入れそうだが、せいぜい命には気をつけてくれ」

 ドライバーがトラックのエンジンをかける。

「ここまで乗せてもらえて、助かりました」

「帰り道の都合はついているか?」

 ドライバーが首を伸ばすようにして隊列の向こうを伺いながら言う。

「いいえ、何も決まっていませんが、うまくやります」

「都合してやろうか?」

 思わず僕は笑っていた。

「危険ですから、自分でなんとかします」

 そうかね、と答えたドライバーは少し不満そうだった。どうやら遠慮したことが気に入らないのだ。意外に人情深い人である。

「では、一応、連絡先を教えてもらえますか?」

 ギロリとドライバーがこちらを見て、口をへの字に曲げている。

「これから踏み込むあたりで電気や電話が都合できると思うか?」

「それは、難しいかもしれませんね」

「うちの会社のロゴがプリントされているトラックに声をかけろ。それで乗れるようにしてやる」

「え? でも、僕が僕だということを、他の方は知らないのでは?」

 深いことは気にするな、とドライバーは正面を向いてしまう。彼らには彼らなりのやり方があるのだろう。

「お前、名前は?」

 ドライバーの問いかけに、僕は即座に答えた。あるいはそれが僕を脱出させる鍵になるかもしれない、と思ったこともある。

「リーチです」

「リーチ。わかった。気をつけてな」

 前方でゆっくりとトラックが動き出す。

 ドライバーがシフトレバーにそっと片手を置いた。


       ◆


 世界有数の紛争地域となった場所は、瓦礫ばかりが目につく。

 この極めて狭い地域に、先進国から手に入れた武器を持つ軍隊が押し寄せている。と言ってもまだ地上軍の侵攻は始まっていない。

 しかしそれでこの悲惨さが無視できるわけでもなかった。

 崩壊した建物では生き埋めになった人々の救出が休むことなく続けられている。それもレスキュー隊が行っているわけではない。普通の市民が、埃だらけになり、重機もなく、素手で瓦礫をどかしている。

 怒声が飛び交い、時折、爆発的に声が膨らむのは生存者が救助された時だ。全身が粉塵にまみれて真っ白くなった子供が、泣くでもなく、喚くでもなく、暴れることもなく、もののようになって運ばれていく。

 そんな最中でも、不吉な音を引き連れて、巡航ミサイルが降ってくることもある。

 つい最近まで国際的な報道に接していた僕にはわかるが、正規軍が市街地に潜んでいる武装勢力を無力化している、という態度は全くの建前だった。実際に起こっているのは、一方的な殺戮、虐殺だった。

 巡航ミサイルは破壊する対象を選ばない。そこに誰がいるか、どんな人間がいるか、斟酌しない。

 激しい爆発が起こるたびに地面が震え、建物は揺れ、爆風が吹き寄せる。

 人々は悲鳴をあげ、次には生き残ったものを助けようと動き出す。すでに医療施設は怪我人でいっぱいで、しかも医療品は数が乏しくなっている。支援物資が届いているが、全く足りない。

 誰も彼もが泣いているようだった。

 誰も彼もが嘆き、絶望し、怒っていた。

 その光景を僕は携帯端末でつぶさに記録していった。

 腕には報道関係を示す腕章。来ている防弾ベストにもやはり報道関係者であることを示す文字がある。

 どけ! と誰かが叫んだかと思うと、僕を突き飛ばして目の前の瓦礫の山に飛びついていく。

 僕は少し離れて、その様子にレンズを向けた。

 僕が撮影する映像は綺麗に編集され、東方の国で配信される。それが社会にどんな影響を与えるかはわからないけれど、何かを変えていくことは確かだ。

 そうでなければ、僕がやっていることは全くの無駄になる。

 日が暮れるまで廃墟のようになっている街を駆け回り、それから複数の国の報道機関が協力して用意した建物へ引き返す。紛争地帯のはずれにあり、周囲には無事な建物も多いが、倒壊した建物もある。無事な建物も外壁のそこここが傷んでいる。

 建物は二階建てで、部屋の数は六室。それぞれが各国の報道関係の現地にいる記者の拠点である。広間があり、そこでは顔を合わせたもの同士が情報交換をすることも多かった。

 僕は建物に入り、広間にいた二人と手短に話しをした。停戦に関する協議についてが最近の重要な話題で、しかし紛争地域の外でやり取りされているため、現場ではそういった駆け引きは遠くの出来事に思える。

 停戦になる可能性もありそうだが、まだあやふやなようだ。この日も、各地に巡航ミサイルが降り注いでいたし、大勢の人が亡くなっていた。

 自分の部屋に戻り、データのバックアップを取ってから、タバコを買いに行った。自分では吸わないが取材する相手と近づくためには使える。タバコを受け取った途端に口を開くものは多い。

 タバコ屋、というより雑貨屋はすぐそばにあった。すでに日が暮れかかっているが、まだ開いていた。乏しい明かりの中で初老の男性が店番をしている。僕が店の前に立つと、彼がすっと顔を上げ、こちらを見た。

「いらっしゃい」

 僕はタバコの銘柄を三つほど挙げた。ここではカートンでタバコを買うことはできないし、大量に買うこともマナー違反だ。

 男性がすっとタバコを三種類を二箱ずつ、差し出してくる。僕は現地の紙幣で支払うのではなく、先進国の紙幣で支払った。その方が喜ばれる。

「外国の方には、こんな場所は嫌でしょうな」

 不意に男性がそんな声をかけてくる。

「仕事ですから」

 相手の真意がすぐには掴めなかったので、ぼんやりとした答えを返す。

 男性の目は乏しい光量の中で不思議と輝くようだ。

「あなたには、帰る場所があるのですね。羨ましいことです。私は、私たちは、どこへも行けない」

 帰る場所がある。

 どこへも行けない。

 僕はじっと男性の顔を見た。最初に見たときよりシワが深くなったような気がする。あるいは日が沈もうとしていて、暗くなったせいかもしれない。

「ご老人は、どうしてここに?」

「ここにいるのが、私に与えられた仕事ですからね」

 誰から与えられたのですか? とは聞かなかった。

 老人の正体が分かってしまい、その言葉が意味するところが歴然とわかったからだ。

 そっとタバコを手に取り、ポケットに突っ込んだ。

「お元気で」

 そう声をかけると老人は嬉しそうに笑い、「お気をつけて」と僕を送り出した。

 拠点の建物へ戻る途中で振り返ると、雑貨屋の明かりがゆらゆらと揺らめいて見えた。

 前に向き直り、そのまま僕は歩みを再開した。


       ◆


 新しい巡航ミサイルの爆心地は、見慣れた瓦礫の山と、怒号と悲鳴に支配された空気で構成されていた。埃っぽく、口の中がじゃりじゃりする。

 すぐそばに老婆が泣き崩れ、その娘らしい女性が肩を抱いてしきりに何か言い聞かせている。

 その様子に携帯端末のレンズを向け、シャッターを切ってから、改めて周囲を撮影した。

 少し離れたところに数人の男性が立ち尽くしているのに気付き、僕はそちらへ歩を進めた。彼らはぼんやりとこちらを見ている。

 ただ、茫然自失、とは少し違う。

「撮影させていただいていいですか。お話も聞きたいのですが」

 そう声をかけると、一人が頷いた。他の二人は無言のまま、僕を眺めている。

 少し距離をとって、背景を調整してそこに立っている男性たちを見る。汚れきった服を着ていて、髪の毛はボサボサだ。顔には埃が白く掃いたように付着していた。

 崩れかけた建物を背景に何枚か写真を撮ってから、男性たちに近づいてさらに数枚の写真を撮った。それから携帯端末で音声を録音しながら、彼らに歩み寄る。僕があれこれしている間も、彼らはその場に立っていた。

「失礼します。ご家族を亡くされた方ですか? 答えたくないのなら、そう言ってください」

 先ほど一人だけ頷いた男性が僕に反応し、わずかに目を瞬いた。

「私を使っていた家族は、そこにあった建物に住んでいました」

 男性がゆっくりと手を挙げ、人差し指で瓦礫の山を指差した。そこでは何人もの男性が協力して声を掛け合いながら瓦礫を掘り返していた。

「さぞ、不安でしょうね。心中、お察しします」

「私はこれから、どうしたらいいのでしょう」

 男性がぼんやりした声を口にする。僕は彼の顔を見たが、彼はこちらを見ていない。男性の視線は瓦礫の方を漂っている。

「もう私を必要とする人はいません。私は自由なのでしょうか」

 その言葉に、男性と一緒にいた数人が視線を交わし合う。しかし不思議と言葉は口にしない。

 僕は改めて男性を観察し、瓦礫の方へ少し視線を配った。

「あなたの家族を助けようとは思わないのですか?」

「そばに寄るなと、命じられました。優先順位はないも同然の第三者ですが、他に指示を受けていません」

 なるほど、などと答えながら僕はもう一度、瓦礫の方を見た。ひときわ大きな声が上がり、人々が集まって人間の背丈ほどもある大きなコンクリの塊をどかそうとしている。

「あなたたちの力が必要だと思いますが」

 改めて男性に訴えてみるが、彼は首を左右に振った。

「あなたの命令は聞けません」

 なら仕方がない。僕はそう割り切って、「取材を受けていただき、ありがとうございます」と礼を言って、用意していたタバコを取り出して差し出そうとしたが、男性が首を振るので引っ込めた。

 それから僕は爆心地の方へ近づき、救助作業の様子を映像に収めた。

 瓦礫の下から、十代だろう少女が引っ張り出されるのを目の当たりにした。血だらけ、埃まみれだが、生きている。

 その少女が収まっていた瓦礫の隙間に、もう一人、人間の姿が見えた。

 違う。

 人間に似ているが、人間ではない。

 瓦礫が直撃したのか、頭部の半分が砕けている。その奥にあるは人工物だ。

 生身のに人間ではなく。

 人間そっくりの、アンドロイド。

 救出された少女が背後を見た。

 視線の先ではすでアンドロイトは活動を停止している。

 僕はアンドロイドに助けられた少女と、少女を助けたアンドロイトを、一枚の写真に収めた。

 アンドロイドをぞんざいに瓦礫の間から引き抜かれ、胸の下あたりから引き千切れて片腕も喪失していた。

 アンドロイドの一部は離れたところに集められた瓦礫のそばに放り捨てられた。

 僕はその光景もまた写真に収めた。

 自分が何を、誰に訴えたいか、すぐにはわからなかった。

 ただセンセーショナルである、というだけではない気がしたが、本当のところはただセンセーショナルだろうというだけのことで撮影したのかもしれない。

 救助作業は続き、怒号の合間に悲鳴と歓声が上がり、生存者が運び出される。

 時折、アンドロイドがやはり発掘されるが、機能を維持しているものはいない。その廃品と言ってもいいアンドロイドは次々と積み重ねられていく。

 それは人間の遺体が積み重ねられるより、悲惨な光景に見える。

 物言わぬ、人にそっくりのそれは物体に過ぎないのだろうか。

 それとも、物体とは違う何かなのか。

 空のどこか遠くから低い音が響いてくる。

 またこの街は破壊され、人が死に、何もかもが粉砕される。

 人々が不安げに頭上を見上げた時、僕の視界に取材した男性たちが入った。

 彼らの視線は一箇所に向けられて、動かない。

 廃棄されたアンドロイドの山。

 彼らの視線に込められた感情は、なんだろう。

 感情と言えるのだろうか。

 いよいよ轟音は周囲を圧して響き渡り。

 爆発音とともに地面が激しく揺れた。


      ◆


 夜が来ても街に明かりが灯ることはほとんどない。

 灯火管制と言えば聞こえはいいが、実際には電力が不足しているのが大きい。

 そんな中でもいくつかの店は開いているので、そんな夜間も営業する食堂で食事をとることが多い。食堂といっても、屋台の前に天幕を張ったスペースを用意しているだけだ。テーブルは有り合わせで、椅子などはなくちょうどいい大きさの瓦礫に腰掛けることになる。

 提供される料理はどこから手に入れたのかわからない材料を煮詰めただけのスープで、誰も彼もが「残飯スープ」と呼んでいる。何度も食べているが具材はその度に違うし、当然、味も違う。

 値段は形ばかりのもので、店を営業しているものはそれで生計を立てるつもりなどないようだ。日々、崩壊していくこの土地で生きる人々を元気づけたいのかもしれない。

 僕もそんなスープにありついて、ゆっくりと匙で口に運んでいた。匙は金属製だけれど、傷だらけだ。これもまた瓦礫の中からかき集めたのだろう。

「兄さん、どこから来なすった?」

 横の瓦礫に腰掛けた男が声をかけてきた。薄暗い中にいるのは、現地民らしい髭を伸ばした男性で、しかしその髭も埃で色が変わっている。本来は褐色の肌なのだろうがくすんでいて、目の下には隠しようもないくまがあった。

 僕は隣国の名を挙げ、雇われ記者としてここに来たことを告げた。

 彼はガツガツと匙でスープを口に運びながら聞いて、聞き終わると、そうかい、とやっと言葉にした。

「こんな地獄みたいなところでも役に立つものだ」

「役に立つ?」

「そう、世界中の恵まれた裕福な国の、呑気な連中の同情を引く役には立つ、ということさ」

 そうでしょうか、と僕はやっと答えた。男は、そうさ、と笑っている。自虐的だが、瞳の奥には怒りがあった。

「俺たちの命には値段などない。俺たちの街にも価値がない。俺たちの命は消えるためにあり、俺たちの街は滅びるためにある。それでどこかの国の政治家が得意満面に演説することができる。ふざけているよな」

 かもしれない、と言いそうになって、僕はそれを自制した。

 この初めて会った男性が欲しいのは同情ではないし、同調でもないだろう。

 ただこのやりきれない場所の、やりきれない日々の鬱憤を晴らしたいのだ。

 僕は一度匙を置いてポケットからタバコの箱を取り出した。

「差し上げます」

 差し出すと、男性は少し驚いたようだった。

「気前がいいな。俺も記者になりたいが、そうも言ってられん。ここは俺の育った町で、俺の知り合いも大勢いる。その全てが危うい状況で、記者などはできないな」

「代わりに僕がやっている、とでも思ってください」

「兄さんは頼りないが、タバコ一箱で信用してやろう。ありがたくもらっておくよ」

 男性は素早く封を切ると一本を抜き取り、口にくわえる。

「火ももらえるかい」

 僕はライターを出して、火をつけてやった。どこにでもあるような安いライターだった。しかしこの地では珍しいものだろう。男性に贈ってもよかったが、やめておいた。タバコがなければライターの出番も少ない。

 紫煙を吸い込み、吐き出した男性は少しだけ疲れて見えた。しかし絶望には飲まれない、力強さがその口元には共存している。

「どうせもう、この土地から人はいなくなる」

 訥々と、男性が口にする。

「大勢が死んでいく。子どもも生まれては死んでいく。国を、土地を捨てるものも後を絶たない。当たり前だ。ミサイルが降り注ぎ、いつ市街戦が始まるかわからない土地に執着する奴なんて、滅多にいない」

 その言葉は、この天幕の下にいる大勢の心の声の代弁のように思えた。

「兄さんも、故障したアンドロイドの山を見ただろう」

 ええ、と答えると、男性が指に挟んでいたタバコを動かした。かすかな赤い光が尾を引いたように錯覚された。

「生活の担い手として、アンドロイドがどこからか送られる。人々はそれで生活を回す。産業などないが、日常はある。手間のかからない労働力という夢の技術だが、現れる光景は幻に過ぎない。この土地にはもう、人はいないのかもな」

 自分の冗談が可笑しかったのか、男性は笑っている。そのままタバコを口元に運び、咳き込みながら煙を吐いた。

 人がいない、か。

 見た目上は正常でも、内実は少しずつ本来的ではないものに置き換わっていく世界がここにあるのかもしれない。

「兄さんはタバコを吸わないのか?」

 男性がすっと箱をこちらに差し出してくる。

「いいえ、僕は喫煙はしないんです」

 断ると、バカなことを、と男性は笑っている。

「タバコを吸わない人間なんているものか。アンドロイドじゃあるまいし……」

 男性の言葉の続きは聞き取れなかった。

 最初はかすかな音だったものが急激に大きくなり、周囲の全ての音をかき消してしまったからだ。

 まずい、と思った。

 どう計算しても、巡航ミサイルはここの至近に着弾する。

 そうとわかってもできることなどほとんどない。

 僕は逃げ出そうとする隣の男性に飛びつき、その上に覆い被さった。

 男性が何か喚いて。

 爆発の衝撃波が全てを跳ね飛ばしていた。


     ◆


 気づくと、地面に寝かされていた。

 視界が明滅するが、視覚に影響があるのではなく、夜の闇の中で炎がゆらめているのだ。

 上体を起こそうとして失敗し、首をひねって周囲を確認する。

 どうやら巡航ミサイルの着弾地点から少し離れたところに寝かされているらしい。

 例の屋台と天幕は跡形もなく消し飛び、全てが炎を上げて燃えていた。嗅覚が回復し、焦げ臭い匂いの中に人体が燃える不快とされる匂いが混ざっている。

 しばらく横になりながら、自分の状態を確認した。右腕の感覚がない。両足は無事なようだ。腰にも不自然さがあるが問題ないようだ。立てるだろうか。

 体をひねるようにして、左肘を地面について支えにして起き上がる努力をするが、かなり苦労した。

 そんな僕に気づいた誰かが駆け寄ってきて、支えてくれる。

 見た目が激変しているので誰かわからなかったが、僕がタバコを贈った相手だった。

「大丈夫そうだな。立てそうか」

 そう言いながら、男性は僕の上体を抱え、そのまま立ち上がるのを助けてくれる。

「右腕はどこかにすっ飛んじまった。俺の命の代わりに、ってことかもしれないが」

「いいえ」

 声が少しおかしいのを調整して、本来の声に戻る。

「ご無事で何よりでした」

「大勢が死んだよ。俺は本当に、あんたのおかげだ。あんたの持ち主に悪いことをした」

 いいえ、と答える僕に、男性は微妙な顔つきをしていた。

 僕がアンドロイドで、それが自分の存在を投げ出して、たまたま会った相手を助けようとしたからだろう。

 アンドロイドが個々に形成する複雑な優先順位は、人間には単純に解釈されるものだ。大抵の人間は、アンドロイドはその所有者を何よりも優先する、と考えている。だが場合によってはアンドロイドは所有者を見捨てることさえありうる。

 それこそが知性だからだ。

「これからどうする。帰る場所があるのか?」

 問いかけに、僕は、ええ、とだけ答えた。

 いつか、老人に言われた言葉を思い出した。

 そう、僕には帰る場所がある。この土地に縛られて、ただ破壊され廃棄されるしか道のないアンドロイドとは違う。

 それが幸福なのだろう。

「どこかに案内するか? それとも一人で行けるか? 仲間がいるか?」

「報道関係者の拠点に戻ります。このままでは仕事の継続は不可能なので、一度、ここを離れます」

 そこまで細かく伝える必要もなかっただろうが、男性を安心させる必要はある。必要そうな顔つきなのだ。

 そうか、と男性は一度、頷いた。

「俺もやることがある。命の恩人に申し訳ないが、ここでお別れだ」

「ええ、親切にありがとうございます」

「アンドロイドにそう言われると妙な気分だよ。こちらこそ、タバコをありがとうよ」

 男性がズボンのポケットを叩いて、じゃああ、と手を振って離れていった。

 僕は真っ直ぐに立って、周囲の惨状を確認した。

 先ほどまでの穏やかな空気は、ありとあらゆるものと一緒くたに完全に破壊されていた。

 こんなことが許されるわけがない。衝動的にそう思った。

 どうしたら咎められるかを考えても、答えは出ない。

 腰のポーチに入ったままだった携帯端末を取り出すと、まだ機能した。

 写真に収め、その場を離れた。

 背後からはもう日常と化した怒号と悲鳴の嵐。

 僕は一歩一歩、確かめるように歩いて行った。雇い主に連絡しなくてはいけないことを考え、自分のボディのことを考えた。

 戦争は続く。

 僕がどうなろうと。

 誰が、街が、どうなろうと。


      ◆


 支援物資を運ぶトラックは次々と検問を抜け、物資を集積している広場へ入ってくる。

 その集積所のそばのトラック溜まりで、僕は来るときに乗せてもらった運送業者のロゴを探していた。トラックの数は多く、荷運びをしているもので周囲は混雑している。

 ロゴを探すのに手間取ったものの、発見することができた。ちょうど荷下しの最中で、ドライバーが自ら指揮していた。少し離れたところで、作業が終わるのを待ち、荷台を閉じたところのドライバーに声をかける。

 いきなり現れた僕に不審そうだったが、説明していくと例のドライバーに心当たりがあるようで、無線で連絡してくれるという。

 待つ時間は短くて済んだ。ドライバーが「乗りな」と声をかけてくれて、僕は助手席に片腕で苦労して乗り込んだ。トラックはすぐに走り出し、検問へ向かっていく。

 ドライバーは仕事を終えて安心しているのか、口笛を吹いていた。僕はまだ報道関係者を示す腕章をつけていたけれど、気にしていないようだ。

「タバコはあるかい」ドライバーが不意に声をかけてきた。「あ、いや、あんたは吸わないか。忘れてくれ」

 ありますよ、とポケットを漁り、やや潰れている新しい箱を一つ、取り出す。ドライバーはそれにニヤッと笑うと「気がきくね」と箱を受け取った。その箱を嬉しそうに眺め、封を切らずにポケットに入れる。

「吸わないのですか?」

 思わず問うと、貴重品だ、と返事があった。

「他では買えない銘柄さ。知らんのか?」

 まったく知らなかった。知性なんて、頼りないものだ。

「ま、あんたは吸わないだろうし、知らなくて当然だ」

 その言葉を聞きながら、僕は身を挺して守った男性のことを思った。

 何もない国にもタバコがあると彼は知っているだろうか。

 きっと知っているだろう。

 タバコなんて些細なものなのかもしれない。

 人命、家屋、土地と比べられないほど些細なもの。

 それでもタバコは、存在証明のようでもある。

 男性の意見を聞きたかった。 

 後方へ流れ過ぎつつある廃墟に生きる、名も知らぬ男性の思いを。



(了)

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