第十三章

ソングバード(1)

 次の日、僕はポケットに残っていた塊を持って家を出た。

 昨夜、大学から無理して帰宅していた父は、僕が起きたときにはもう家にはいなかった。階下へ降りると、母が焼き立てのブレッドと野菜プディングを用意して待っていた。

 僕に気づくと明るい声で「トビー! おはよう!」と言ってくれたよ。でもやっぱりどことなくぎこちなかった。

 それでも僕の体の隅々を確認して、熱もないしどこも痛いところがないのを確認すると、ようやくいつもの明るい声になり、「ジャンを食事に誘うこと!」と送り出してくれた。

 ハミィはいつもと何も変わらなかった。

「ジャンのところへ頼むよ」

 そう囁くと、待ってましたとばかりに一吠えして意気揚々と歩き出す。

 玄関を出てすぐに現れる第一の障害であるオリバーは、今日は天井の修理のために朝一番で僕の家へやってきて外には不在だし、ノア爺さんは昨日の今日で疲れたのか、散歩していないみたいだった。

 毎朝旦那さんの運転する車で農園に向かうメアリーも、今日はなぜか通り過ぎない。

 まあ、ハムおばさんのトラップにだけはハミィも執着してるみたいで、今日も相変わらず決まった場所で動かなくなっていたけれどね。

「ハミィ! 昨日おまえ、あんなに賢いって褒められただろ? どうしてここだけはいつまでだっても覚えないんだ?」

 不満そうにするハミィをひっぱって僕は歩くけど、それでもいつもと少しだけ違う町の様子に、むしろ安心感を覚えていた。


     †


 ジャンのギターの音色が聴こえてくるとハミィの足が優雅に早まる。小走りにならない程度に抑えつつ先を急ぐと、ロクデナシの声がするんだ。

「よう! 相棒! 今日もどっちの散歩かわかったもんじゃないな!」

 こんな風にね。

 なぜこいつはいつもこんなに自然体で憎まれ口を叩くのか。いつかジャンに、「参った!」と言わせてやりたいものだよ。

 ジャンの声を聞くとハミィは決まって走りだす。僕の手から離れ、慣れた感じで家の中へと入っていくハミィの足音を追って、僕はポーチへと続く階段を三段踏んで玄関を目指した。

 中へ入ると、ジャンが今日は蜂蜜入りのミルクを用意してくれた。ホットミルクだなんて小さい子を寝かしつけるみたいだったから何か言ってやろうかと思ったけど、なんとなく言いそびれた。本人はいつものように冷蔵庫をガチャガチャやってプシッと小気味好い音を立てていたけれどね。

「ジャン、昨日は来れなくてごめんね」

 僕は、ジャンがその理由を聞いてくれるとばかり思っていた。

 ――なんだろう? 忙しいのかな?

 何も言い出さないで忙しそうにしているジャンを待って、僕はソファに座った。ハミィは僕の足元で完全にリラックスして寝ている。

 サラは大丈夫だろうか。僕は、ジャンがすぐにでも「行くか?」と言ってくれるのを期待していたし、昨日森であった出来事を話すタイミングも完全に失っていた。

 僕はなんとなく落ち着かなくて、ポケットに手をやっていた。

「なんだよ? さっきからおまえもじもじして。変な奴だな。漏らすなよ?」

 急にジャンが変なことを言い出す。

 なんでこいつはこんなに空気が読めないんだ? 僕はジャンを待ってただけなのに、こいつの空気の読めなさ加減にちょっと苛立って我慢できなくなって言った。

「ねえ、ジャン、行かないの?」

「行くって? どこへだ?」

「どこって……サラのとこだよ」

 でも僕の期待はまた完全に裏切られた。ジャンは黙ったまま、動きを停めない。

 ――いったい何をやっているんだ?

 僕の苛立ちを察したのか、足元にいたハミィが起き上がり離れていった。

「……ねえ、ジャン?」

 僕は白杖を手に取り、ハミィにつられるようにして立ち上がる。

 さて、ジャンはどっちだ? 立ち上がったはいいけど、ハミィの動く音を頼りに耳を澄ませて立ちすくんでいたら、急に後ろから不意打ちのようにジャンがポケットに手を突っ込んできて僕はひどく驚いた。

「なんだおまえ、いいもの持ってるな?」

「うわぁ! やめろよ!」

 ジャンが大笑いする。右のポケットに後ろから手を突っ込んで、僕を羽交い絞めにするように冗談めかす。

「もう……。ほんと、やめてよ」

 僕がそう言うと、ジャンは「わりぃー、わりぃー」と語尾をわざとらしく伸ばしながら、ちゃっかり僕の右ポケットに入っていたものをつかんで腕を離した。

「ねえ、いいものって? ……ジャン、それが何か知ってるの?」

 雨でも降るんだろうか? 不意にどこかから湿った風が流れてきた気がした。ジャンの革ジャンの匂いがする。ジャンは、「そうだなあ」とひと言言ったきり、それ以上何も言わずに何かごそごそとしはじめた。

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