樹上のシャーマン(2)

「トビー⁉ トビー! どうした⁉ 大丈夫か⁉」

 ふと気づくと車の音がして、勢いよくドアが開く音がした。混乱して泣き喚いていた僕に男の声が走り寄る。オリバーだった。僕に手を伸ばした彼を、思わず跳ね除けてまた喚く。なんて喚いたのかは覚えていない。

 どうにもならないと判断したんだろう――オリバーは、「ト、トビー、大丈夫だから! 大丈夫だからここにいろ! すぐにおまえの母さんを連れてくるからな!」と何度も何度も叫びながら再び車に乗って離れていった。


 涙なのか、血なのか、肉なのか――何かが溢れ続けて腰が抜け、立てなかった。うずくまった僕はしばらく泣き喚いたあと、呼吸を整えて涙を拭った。

 そのときになって、ようやくずっとハミィが僕の顔と、ぬめっとした塊をつぶした僕の手を舐め続けていてくれたことに気づく。周りからはまだウッドチャックの鳴き声が小さく響いていた。数匹が少し近くまで寄ってきているようだった。

 ――きっと、コヨーテかオオカミにやられたんだ……。

「ハ、ミィ、ハミィ……」

 僕は掠れた声でハミィを呼ぶ。無言のままリードを握ると、ハミィはすべてわかっているかのように僕をそこへ連れていった。

 脚が震えていた。自分を奮い立たせて近寄り、そっと両手を伸ばして周りからたどるようにその輪郭を確かめる。その物体はまだ確かな温もりがあった。すくいあげると柔らかく膨らんでは縮んで、息をしているのがわかる。

「ごめん……ごめん……」

 僕は泣きながら謝っていた。何に対してなのか、わかるような気はするけどあまり考えたくない。

 上着を脱いで地面に置くとそのウッドチャックをそっと真ん中へ置く。そして周りに両手を這わし、辺りに散らばっていた内臓のようなものをすくい取り、すべて一緒にして、呼吸ができるように体の部分だけを包んだ。

 ハミィのリードを手首に巻きつけて左腕でその子を抱くと、杖と白杖を手にして立ち上がる。いつの間にか、周囲に数匹のウッドチャックが集まり、低いのか高いのかわからない声でピーピーと鳴いていた。

 そして僕たちの周りを八の字を描くように走ると、数回高く鳴いて離れていく。

「ハミィ、ありがとう、行こう」

 僕とハミィはウッドチャックについていった。


     †


 森へ入る。足場は沈み込み、霧が出ているようだった。ウッドチャックの鳴き声は、つかず離れず僕たちを先導していく。ハミィは黙って、僕の左側をずっとついてきてくれた。

 風が止んでいる。雨が降っているんじゃないかって思うくらい、深い霧がミスト状に顔を濡らす気がした。汗なのか、涙なのか、もうそれさえわからないから、霧がそれを洗い流してくれるならいっそ歓迎だ。

 左腕に抱く子の息は少しずつ弱くなり、ついには体の膨らみも感じられないくらいになってしまった。心配になり立ち止まって顔を寄せると、しかしまだ確かに生きているのがわかる。

 ――どこまでいくんだろう。

 僕たちはウッドチャックの声に連れられるまま、森の奥へと向かった。


 ふと気づくと、前を進んでいたはずの数匹のウッドチャックの鳴き声が、僕らを取り巻くように周囲から聴こえてきていた。陽は差していないのか、とても寒く冷んやりと湿っている。カサカサと音を立て、ウッドチャックが樹に登っていくのがわかった。頭上から、やはりキーキーと鳴き声を立てる。

 僕は立ち止まり、地面へしゃがみ込むとそこへ抱きかかえたその子を置いた。少しずつ少しずつ体温が下がっていっている。こんなとき、どうすればいいんだろう。温めてあげたいけど、そんなことをしてもどうにもならないことはよくわかっている。

 毛皮に覆われた体に僕は両手を当てた。できるだけ圧が加わらないように苦しくないようにと願いながら温もりを添える。小さく体を膨らませていたその子は、最期に息を吸い込むように一度だけ大きく盛り上がると、スウーッとこの世の命を終えて再びその体を大地に沈み込ませていくのがわかった。

 微かな血の匂い。苔のような深いムッとした空気が辺りに漂っていた。ハミィが隣に座り、鼻を鳴らした。


 そのとき頭上から、パラパラと何かが降ってきたかと思ったら、嫌な予感が過ぎる間もなく続けざまに上から何か大きな物体が降ってきた。直後、でかい落とし穴にでも落ちたみたいな衝撃が僕を襲い、目の前から光の一切が消え失せた。

 僕に何かが覆いかぶさり、土に絡まるようにして僕は地面に倒れ込んだ。痛みは感じなかった。ハミィが激しく吠え立てはじめて辺りを走り回っているのがわかったがどうにもならなかった。ハミィが動かない僕の左腕を咥えて必死に引っ張ろうとする。

 なんだか意識が遠のいていくのがわかった――。

 霧が深い気がする。そしてとても寒い。

 ――ハミィ、ごめん、ひとりで帰れるかな?

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