包まれた杖(2)

 キッチンからは焼き立てのブレッドの香りがする。

 今日はなんだろう、すごくグリーンでスパイシーな爽やかな香りだ。別に毎日だって、コーンブレッドでいいんだけどな。最近妙にレパートリーが増えた。

「母さん、今日は何?」

「おはよう! トビー! よく眠れた? 今日はローズマリーをたっぷり入れたライ麦のハーブブレッドを作ってみたのよ。このあいだメアリーに教えてもらったの!」

 母といい父といい、妙に元気だ。まあ、当たり前かもしれない。失明してからというもの、長年ふて腐れていた息子が昨夜あんなことを言ったんだからな。

 僕は席に着くと、右手を伸ばして母が淹れてくれた紅茶のマグカップをつかんで手繰り寄せた。鼻に近づけると蜂蜜の香りがほのかに立ち上ってくる。ハミィは足元にそわそわと横たわり、母がドッグフードを用意してくれるのを待っていた。

 そうこうしていると上から父が降りてきた。

「羽アリかもしれない。少し覗いてみたが、かなり広範囲に傷んでいるようだ。大学での臨時講義とそのための準備があるから今日は少し遅くなる。もしかすると研究室に泊まることになるかもしれないがそのときはまた連絡するよ。出かける前に、オリバーに頼んでみよう。ケイリーすまないが、トビーを頼むよ」

「あら、そうなの?」母が少し困った声を出した。

「メアリーがね、農園でグリーンビーンズがたくさん採れたからキャセロールを作るって。だから今日はこれから出かけようと思っていたのだけど、すぐ終わるかしら? ……トビー、今日もハミィと散歩に行くわよね?」

 サラのことも気になるし、早くジャンのところに行きたかったのに――これじゃ今日は出かけられるのかどうか微妙だな。

「オリバーが来るなら、僕がいるから大丈夫だよ」

「そうか! では頼むよ」

 父と母は、僕のこの言葉に満足そうに相槌を打った。まるですっかり成長した息子が一人旅から帰ってでもきたみたいに。

 僕の左側にコトッと食器がもうひとつ置かれる。この匂いはたぶんキャロットの温かいサラダだ。オーブンから出したての熱いココット皿を置くとき、母は決まって僕の左腕に手を添えるからすぐわかる。

「トビー、お願いね! 帰りにグリーンビーンズをお土産でどっさりもらってくるから、今晩はフレッシュなマッシュルームを使って温かいキャセロールを一緒に食べましょう! 本当は、ぜひジャンも招待したいけれど……。余ったら明日持っていってもらいたいわ! ああ、でもどうやって詰めようかしら……」

 母の声が上がったり下がったり忙しい。父が少し微笑んでいるのが伝わってくる。可愛らしく浮かれた母は、息子の僕を一人で置いていくことへの心配より、メアリーのところへ出かけるのにすっかり気持ちを弾ませている。立ったままあれこれと言葉を紡いだ。

「急がなくても大丈夫さ。君は忙しいな」

「そうねえ、エマのところの庭に、すごく素敵なエキナケアがたくさん咲いてるでしょ?」

 父が、母の代わりに焼き立てのハーブブレッドにバターを塗って手渡してくれる。会話がかみ合っていないことに父が笑っているけれど、そんなこと気づいてもいない母はお構いなしに食卓に幸せな彩りを撒き散らす。

「エキナケア? あの玄関から続くポーチに一面に咲いている鮮やかなピオニー色の花のことかい?」

 見えない僕にはなんのことだかまったくわからないけどね。いいよ、続けて。第一、僕はノア夫婦の家がどこなのかさえまだ知らない。

「ええ、花や根の部分をお茶にして毎日飲んでいるんですって。メアリーの農園にあるエキナケアも、実はエマから株分けしてもらったものらしいのよ。うちも植えてみようかと思って。メアリーってば本当にすごくハーブに詳しいのだけど、その先生はエマらしいのよ。私、エマともっと仲良くなりたいわ」

「それは構わないが、君までベジタリアンになるつもりじゃあないだろうね?」

 先日母が張り切って作ったオール野菜料理の食卓を思い出す。ボソボソとしたハンバーグ――父が何を心配しているのかはすぐにわかった。

「あら、自然の美味しさを追求するのは本当に素敵なことだと思うわ。ねえ、トビーもそう思うでしょ?」

 母は楽しそうに笑う。

「食事のことは君に任せるよ。それでは私はそろそろ行かなければ。私がいない間に可愛い息子と、素敵な青年の二人も独占されては敵わないから明日は必ず帰ってくる。ケイリー、今日も美味しかったよ。ではトビー、オリバーには話をしておくから待っていてくれるかい?」

 父が椅子を引いて立ち上がる。僕はにこやかな声で返事をした。

「すべて問題ないよ。ふたりとも気をつけてね」

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