サットン・ロックス・ストリート187(7)
僕のぼんやりとした意識がはっきりしてきたのは、ジャンの車の中――つまりサラのアパートからニネベに戻る途中のことだった。
「頭が冴えてきたか?」
ジャンが言う。
まったく状況がつかめずに混乱している僕に、後部座席からハミィが体を乗り出して耳の後ろを舐めた。
「僕はどうしたんだ? サラは?」
ジャンが笑いながら言った。
「覚えてないのか? かっこよかったぜ、おまえ。なあ?」
ハミィが弾むように大きな声で鳴いた。
「サラのお父さんに自分の気持ちや思いを話したのまでは覚えてるんだけど……」
その後、急に緊張の糸が切れてしまって、意識が朦朧となったんだ。
「そりゃそうだろうな。あんなことすりゃ意識も失うさ。目が見えない分、おまえは相手の意識を心で見てたんだ。上っ面だけを見るよりも神経を使うさ」
あんなこと?
僕はどう返事をしていいかわからなかったけれど、ジャンが言ったことはなんとなくわかった気がした。だってあんな体験は初めてだったから。
「それに、おまえは相手に自分の考えを話したんじゃない。ぶつけたんだよ。相手の心に直接な」
「……サラや、サラのお父さんは大丈夫かな?」
僕は急に、残してきたサラが心配になってきた。
「人の心の傷を一瞬で治せるような薬なんてないんだ。でも間違いなく、おまえの言葉は彼の心に届いたよ。おまえはよくやったよ」
ジャンのお墨付きを貰って僕は嬉しかった。
ほっとして、一気に疲れが出た気がした。カーステレオからはいつものようにロックンロールが流れていたはずだけど、僕には記憶がない。風を切る車の音と、ジャンの声だけが僕を揺らしていた。
微かに、スパイシーな煙が僕を優しく纏うように包んでいた。車のスピードに合わせて、背中が座席のシートに軽く押し付けられる。僕は背中に感じるその微かな重力に身を任せて、ニネベへの道中体を休めた。
†
この日ジャンは僕を家の前まで送ってくれた。車の音を聞き付けたのか両親が出てくる。
「まあ、ジャンじゃないの? エド!」
母は予期しない来客に喜んでいた。母が大声で父を呼ぶ。ジャンが来ていることを知り、父もすぐに家から出てきた。
「いつも息子のトビーのことをありがとう。もちろん家で食事していってくれるだろう?」
父が嬉しそうにジャンに言った。
「いや、今日は遠慮しとくよ」
ジャンは車のエンジンを停めることなく、そのまま帰っていった。
ジャンもきっと今日は疲れたんだな。僕はそう思った。
「本当にジャンは素晴らしい青年だわ! トビー、あなたには素晴らしいお兄さんができたみたいね」
母の声が嬉しそうに弾んでいる。父が僕の手から白杖を受け取って、僕の背中を優しく支えて玄関へ続くポーチを歩いた。ハミィの駆ける足音がして、パタパタと先に家の中に入っていったのがわかった。
「疲れただろう。トビーは頑張っているな。父さんも負けていられない」
「そうね。本当にトビーは頑張り屋さんね」
母が笑いながら、僕が家の中に入るのを待って、玄関の扉をパタンと閉めた。キッチンの方から、焼きたてのコーンブレッドの香りがする。
「すぐにあったかいお茶を淹れるわね」
「父さん、母さん」
「なんだい? トビー」
父も母も、僕がこの次に言った言葉をまったく予期していなかったに違いない。
いや、僕を含めて、その場にいた誰も思いつかなかったはずだ。十三歳の盲目の少年が、暴れまくっていた感情に完全に別れを告げて、こう言っていた。
「僕を産んでくれてありがとう」
それからこのニネベの町に連れてきてくれたことに対しても、僕はありがとうを言った。
両親が突然のことに驚いていたことは言うまでもない。なにより僕自身が自分のこのセリフに一番驚いていた。
一瞬の間を置いて、父は妙に明るい声で言った。
「そうか!」
母は鼻をすすりながら僕を抱きしめた。
「愛してるわ。トビー」
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