サットン・ロックス・ストリート187(5)

 サラの部屋に入ったとき、僕はその部屋に渦巻く深い悲しみを見た。その渦の真ん中に真っ黒な何かが蠢いている。

「サラか? 酒は買ってきたんだろうな?」

 その蠢く黒い塊はサラの父親だった。

「買ってないわ。……それより話がしたいの」

 サラが精一杯の勇気を絞り出そうとしているのがよくわかった。それでもそれ以上の言葉は掠れて声にならない。

 ギィッとサラの父親が立ち上がり、僕らの方に向かってゆっくり歩いてくる。

 塊が苛立ちを隠さずに口を開く。

「誰だ⁉ そいつらは!」

 蠢く黒い塊から、怒りが生まれだした。

「私の……友達よ……」

 このサラの小さな声が火種となって、サラの父親の怒りが一気に燃え広がっていく。

「酒も買わずにこんなガキを連れ込んで、どういうつもりだ!」

 怒りの炎が怒号となる。蠢く黒い渦は、今や部屋全体を覆いつくしてしまったようだった。僕もサラも完全に怯んでしまったが、それでもサラが口を開く。消し飛んでしまいそうな残り火の決意をがむしゃらに守るかのようにサラが言った。

「お父さん! いい加減こんなんじゃ駄目よ!」

 すでに消え入りそうなサラの精一杯の決意を、踏み消すかのようにサラの父親が言った。

「誰に向かって言ってるんだ!」

 目には見えないはずなのに、ガタガタと震え膝を付きそうなサラが僕には見えた。サラが、出ない声を恐怖で震わしているのがわかる。サラの恐怖が僕にも伝わって、僕は飲んだ息を吐くこともできなくなり、怯えて立ちすくんだ。

 僕たちは逃げ出すことも考え付かないほどに固まっていた。立ち尽くすことだけが精一杯に思えた。

 部屋から飛び出して、階段で泣いていたサラ。逃げ出す力のあったサラの勇気がどれほどにすごかったのか、これまでどれほど心細い思いに苦しんできたのか、その一瞬の間にそんなことが頭をよぎった。

 そのときだった。僕とサラの後ろにいたジャンがゆっくりと平坦な口調で言ったんだ。

「この子たちの話を聞いてやれ」

 たった一言だった。

 さっきまで剥き出しで溢れ返っていた怒りと、この部屋に充満する悲しみが綺麗に消し飛んだ。海岸のデカい岩を退けたときにうじゃうじゃと巣食う虫が散るように、黒い渦が消え去った。するとなぜかサラの父親が今度は怯え出した。ガタガタと椅子を揺らす音が大袈裟じゃなく、聞こえてくる。

「な、なんだ、あんたは⁉」

 サラの父親は震える声でそう言った。

「なんだっていいだろう。とにかくこの子たちの話を聞くんだ」

 僕の後ろで、ジャンであるはずのその人がそうゆっくり声を発した。

 僕は振り返りこそしなかったけれど、確かに感じたんだ。ジャンの声をしたジャンじゃない何かを。だけど、そんなことはどうでもよかった。それまで恐怖に怯んでいた僕は、消え去った渦と一緒に自分を取り戻していた。とにかく僕のできることをしなくちゃ。僕はよく考えをまとめもせずに、思いつくままに喋った。

「サラのお父さん、僕の話を聞いてくれる?」

 そう口火を切って、僕は自分のことを話しはじめた。

「僕は四年前のハリケーンで失明したんだ。両親と一緒に旅行でフロリダを訪れていた。両親も怪我をしたけど無事だった。僕だけが失明したんだ。僕だけが光を失った。すべての人が僕に同情して、親切にしてくれたけど、僕はそれに感謝もせずにそれが当たり前だって思っていたし、毎日苛立って何かに怒っていて、どうにもならない気持ちの矛先を他人に向けて暴れまくってたよ。親を罵ったし、力任せに物を投げたし、母さんの作った料理を捨てたことだってある。そう今あなたが投げ捨てた食器みたいにね。僕以外の誰かが泣いてるなんて考えもしなかった。見ようともしなかった」

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