サットン・ロックス・ストリート187(2)

 地下鉄の入口にあるみたいなシャッターをギギギギッて開ける重苦しい音がした。ジャンに促されて後に続く。

 アパートの入口の両端は両手で届くほど狭い。

 ここまで狭いと杖が逆に邪魔だ。出そうとしていた白杖を僕は後ろポケットにしまって、ハミィを先に行かせた。

 左手で手摺りをなぞって、右手で壁を付く。

 左手は錆びてザラザラとしているし、右手は塗りが剥がれているのか、剥き出しなのかよくわからないけど、バリバリでガタガタだ。僕は間違って手を切らないように気をつけなくちゃならなかった。

 つま先で段の奥行を確認しながら一段ずつ上がる。縦にも横にもなんだかすごい狭い階段だ、それに急だし。ハミィのチャカチャカした蹄の音と、ジャンのブーツの音が妙に高く響いた。

 それにいつもは聞こえないジャンの衣擦れの音が聞こえる気がした。革ジャンを着ているのかもしれない。湿っぽいひんやりしたこの狭い空間から、僕の前を行く微かな皮革の匂いを感じた。

 二四段上ると、ハミィが左に折り返したのがわかった。僕はひとつ目の踊り場を左に回り、ふたつ目の階段を上りはじめる。

 時折カツーンとかガシャーンとか、テレビの音とか、瓶の投げ捨てる音とか、たぶん部屋の中から聞こえてくるんだろう、音が響き渡ってる。防音だってなってない。騒々しいというより、下世話な感じのアパートだ。匂いだってなんだか砂埃っぽくて、綺麗な感じもしない。僕は、あんな素敵なサラが本当にこんなところに住んでいるんだろうかって、嘘みたいに思いながら階段を左回りに上っていった。

 いったいどれくらい上ったか? 階段の踊り場は今が三つ目、建物の構造にもよるけど、運がよければここが三階のはずだ。ジャンの左に響いていた足音が変わって右へ移った。廊下へ出たらしい。

 ビンゴ!

 廊下って言っても、たぶんワンフロアに一室か二室くらいしかなさそうな構造だ。僕は全然建物には詳しくないけどそう思った。

 そう思った瞬間、壁の向こうから怒鳴り声のような雄叫びのようなくぐもったデカい声がして、アパートの壁に反響した。次の瞬間にはガシャーンと激しく何かを投げつけて割れるような音とともに、バアンと何かを開けたのか閉めたのか、とにかく乱暴な音が聞こえた。重苦しい冷たい鉄のドアを雑に開いて叩き閉める音、僕はそうイメージした。

 イヤな感じのアパートだ。サラには本当にこんなところにいてほしくなんてない、そう考えていた僕の左横を急に何かがものすごい早さで抜けるように通り過ぎ、僕は驚いて右へよろめいた。

 人だと思うけど、エクスキューズミーも言わない。なんて奴だ。ますますもって、サラにはこんなところから出ていってもらわなくちゃ。

 そんな僕の気持ちを裏切るようにジャンが言った。

「サラだ!」

「ええ⁉ 今のが?」

 まさか、なんてことだ。追いかけなくちゃ! と思うけど、それができない自分がもどかしい。振り返ることだってできやしない。ジャンでもハミィでも、もうどっちでもいいから今すぐに追いかけてくれよって、僕は苛立ったけど、もちろん二人とも、僕から離れることはしなかった。

「降りるぞ」

 ジャンは冷静にそう言って、僕のスピードに合わせるように慎重に今上がってきたばかりの狭い錆びついた階段を降りていく。

 すぐひとつ目の踊り場でジャンが足を留めた。僕もそれに気づいて足を留める。

 ジャンが口を開いた。

「サラ……」

 サラがいるのか? ジャンが言葉を向けたその方向に耳をそばだてると、啜り泣く声が微かに聞こえた。

「ジャン、それにトビー」

 サラの声がした。

 サラは鼻を啜りながら「どうしてここに?」と聞いた。

 なんで泣いているんだ。座り込んでるのか?

 僕は頭がぐるぐるとしたけれど、聞けるような感じじゃない。

 それよりも、確かにサラにしてみれば僕たちがどうしてここにいるのか、「どうしてここに?」が正解だ。冷静になって考えれば、僕らがやってることはストーカーと変わりないんだから。 

 僕はサラに言い訳を考えたがひとつも出てこない。

 ジャンが上手いこと言ってくれることを僕は期待した。

「こいつは君のことがほっとけないんだとさ」

 ジャンがいつもの調子で言った。

 そんな言い方じゃストーカー確定じゃないか……。

 ごまかすように僕はサラに聞いた。

「いったいどうしたの? なぜ泣いてるの?」

「なんでもないわ」

 サラの言葉はいつものように穏やかに響いたけれど、その言葉の奥に隠された感情が、僕に構ってくれるなと言っていた。僕ははっきりとした拒絶を確かに感じた。

 でも僕は、サラのその拒絶を無自覚に振り払っていた。

「なんでもないはずないよ! 君の声を聞けばわかるよ」

「本当になんでもないの! ほっといてよ!」

 今度は、サラの苛立ちとも拒絶とも言えない暴れた感情が僕に突き刺さる。

 僕は痛かった。いや、僕じゃない。サラの痛いって気持ちが、僕にも突き刺さったんだ。

 そのとき、僕が予想してなかったセリフをジャンが言った。

「サラ、彼は君に初めて会ったその日から、君の話す言葉の裏側に潜む、怯えにも似た感情を感じ取っていたんだ。よかったら話してくれないか? 彼ならきっと君の力になれるはずだ」

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