エクタバナのウェイトレス(6)
僕はその夜、長いこと開けていなかった机の引き出しを開けた。
シカゴにいたときと、部屋の中の家具の配置は何も変わっていなかった。僕が動きやすいようにって両親の最大限の配慮なんだろう。
洋服が掛かっているハンガーラックの位置も、その下に置かれている雑多なボックス類も全部そのままだった。父とグラントパークで使ったバットやグローブさえも――目の見えなくなってしまった僕には、そのほとんどはもう不必要なものだったから、いつかは整理をしなくちゃならないって思ってはいたんだけど、手つかずのままこうやって四年の月日が経っていた。
ゴトッと、小さいけれど、なんだか厳かな音を立ててその引き出しは開いた。大袈裟な感じだ。中にそっと両手をかざして表面に添わすと、引き出しの中身は何も変わっていないみたいだった。ただ一か所、一番上の右の引き出しだけは、母が僕のために新しく整えて、退院後に遠慮がちにこう言ったのを覚えている。
「トビー、あなたに新しく必要になるものを一番上の引き出しに用意しておいたわ」
まだ九歳だった僕に、両親は用意周到すぎたと思うね。
そこには小型携帯ラジオや盲人用の触読式腕時計や子ども用のサングラス、点字辞書なんかがベルベットの台に仕切られて並べられていた。どれも一度も使わなかったことは言うまでもない。サングラスはとっくに小さくなっているし、腕時計の針はとっくに止まっている。
この時計は、もしかしたら使うこともあるかもしれない……。電池が切れているだけなのか壊れているのかわからないけど、今度両親に話そう、僕はそう思った。
僕は引き出しの右の奥へ手を入れて、四角いつるつるしたものを探した。――あった。退院後は一度しか使っていない、革の財布だ。
二つ折りのその財布は青の革で、僕が小学校に入って初めてのサマーキャンプで、ボランティア主催のフェアトレード衣類マーケットの手伝いをするって決まったときに母が買ってくれた財布だった。ポーチにすることができるように取り付け金具が付いていて、コインを入れるポケットが二か所付いている。
「トビー、あなたにはまだ早いかしら? でも長く使ってほしいの。だから悩んだけれど、二つ折りの革財布にしたのよ」
当時七歳か八歳だった僕は、同級生の中で唯一革財布を持つ男になった。母はこのプレゼントが息子にとって喜ばしいものであるのかどうかについて不安気だったけれど、僕は毎日学校に持っていって密かに自慢したものさ。母がくれたこの財布はそれまでに貰ったどんなプレゼントよりも、気の利いた品だった。
ハリケーンの後、あちこち骨折して包帯グルグル巻きにされて入院していた間、僕は父に頼んでこの財布を病院に持ってきてもらっていた。理由は適当に言った――薬が苦くて調子が悪いときに、看護師にジュースを買ってきてもらうためだとかなんとか、そんなことを言った気がする。父は疑いもせずに中に20ドルくらい入れて病室に持ってきてくれた。
僕は仲良くなった看護師のビアンカと、焼きたてクロワッサンを賭けていた以外にも、たまにこっそりと自販機のチョコチャンククッキーを買ってきてもらっていた。
そうだな、買い食いとかしたことなかった僕が、初めてした買い食いだったかもしれない。でも仕方ないよね。病院食って飽きてくるし、別にこれが不良の始まりだったなんてきっと誰も思わないさ。
あのとき、僕はまだ自分が失明したことを知らなかったけれど、もしかしたらビアンカはうすうす感づいていたのかもしれない。ビアンカは僕に見えない財布の中のコインの数え方を教えてくれた。
僕がビアンカを信用してるから、財布を渡して適当に取っていいよって言っても、ビアンカはダメよと言って、「トビー、必要なだけ自分で抜いて、相手に渡すのよ。相手任せは犯罪を生むわ。わたし、盗んじゃうわよ」みたいなことを言って僕を笑わせた。
「コインはね、側面にギザギザがある二種類が、クォーターと10セントコインね。自販機や電話とか、ランドリーに使うのはだいたいこのふたつだからギザギザを確認すればいいわ。大きい方がクォーター、小さい方が10セントよ。5セントと1セントは側面が滑らかね。大きい方が5セントよ。トビーの財布はコイン用のポケットがふたつ付いているから、あまり使わないこっちは分けておくといいわ。ハーフと1ドルコインなんかもほとんどないからもらったらこっちだね。ハーフは一番大きいからすぐわかるわ。1ドルコインはクォーターより少しだけ大きいけれど……まあ気にしなくても、たぶんいいわ」
今思えば、僕が失明を知った後に病室を訪れたリハビリ師が話していた説明なんかはほとんど覚えちゃいないけれど、このときビアンカが話してくれたコインの話はなぜだか今でもよく覚えている。
ビアンカは、包帯で巻かれた僕の目の代わりにコインを僕に触れさせて、指でなぞらせながら丁寧に教えてくれた。ビアンカの温かくて少しだけかさかさした手が僕の指に触れて、僕はどことなくドキドキしていた。
「問題は紙幣よ。アメリカのドル紙幣は大きさがまったく同じなのよね、まったくバカにしてると思うわ。一番よく使う1ドル紙幣は、そのままお財布に入れてね、それで、使う頻度が少ない順に、折りたたんで置くといいわよ。5ドルは縦に半分、10ドルは横に半分、20ドルはさらに縦に半分に折って入れておけば間違って使うことはないと思うわ。でもトビー。売店に行くときは私がついていくから呼びなさいな。間違っても、財布をそのまま渡したりなんてしちゃダメよ」
ビアンカはそう繰り返した。
「詳しいね、先生みたいだ」
って僕が笑ったら、「アシスティブテクノロジーセンターの研修に行ってきたばかりなの」ってビアンカはちょっと自慢げに笑った。
ビアンカのかわいい顔が見れなかったのが、今でも残念だ。
僕はクロワッサンをビアンカと食べるのを楽しみにしていた。でもその予定は実現しなかった。
懐かしいその革財布を開いてみる。折りたたんだ20ドル札が一枚、5ドル札が一枚、1ドル札が三枚入っていた。その他にもコインがいくつか入っている。
明日持って行こう――僕はそう思い、財布を机の上に置いて引き出しを閉めた。
でも翌日、僕がその財布を持ってジャンに会いに行くことはなかった。
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