第六章

エクタバナのウェイトレス(1)

 翌朝、いつものように家を出る。出掛けに母に遅くなると伝えようかと思ったけど、返って心配すると思い、言うのを止めた。

「ジャンの家によろしく」

 そっとハミィに言うと、ハミィはまるで僕の言葉を理解してるかのように大きく一吠えし、元気に歩き出した。

 柔らかい土の道が砂利道に変わる。僕らの足が速くなる。ジャンはすでに外で僕を待ってたみたいで、「おっす! じゃあ行くか?」と声を掛けてきた。

 両親以外の車に乗るのはもう本当に久しぶりだ。いつもと違う不慣れな車の匂いに、若干緊張しながらも、ジャンに手を取られて僕は車に乗り込んだ。

 僕を助手席に、ハミィを後部座席に乗せると、ボロそうなエンジン音を唸らせ車は走り出した。ハミィが興奮しているのか、後ろから僕の首筋を嬉しそうにしきりに舐める。

 砂利道の振動がやがて消え、パリパリと砂を踏むタイヤの音も消えていった。

 ジャンがカーステレオにカセットテープを突っ込んだのか、ガチャリと独特の音を鳴らす。

 音楽が流れはじめた。僕はそんなに音楽に詳しくはないけど、ステレオからエレキギターがロックンロールを刻んでいる。ジャンの弾くギターの音とは違って、尖った音だ。ジャンのギターの方がずっと聴き心地がいい気がする。

 発車させてすぐにジャンはタバコで車の中を煙々にしていた。

 まったく、タバコジャンキーだな。こりゃ今日も吐くこと間違いない――そう思って僕は、窓を開けようと右手でドアを探った。

「ドアに付いてるグルグルを回せば窓開くからな」

 ジャンが窓を開けようとしている僕に気づいてそう説明する。

 このロックンロールとジャンキーな煙に似合わない、ジャンの可愛らしい説明がとても面白かった。僕は思わず笑いそうになるのを堪えた。

「隣町まではどのくらいなの?」

「だいたいこのテープが全部終わるくらいだな」

 ジャンの車は意外に乗り心地が好かった。

 カーブや曲がり道でたまに大きく揺らぐ他は、ジャンの車はこれと言った揺れもなくて、絶対に酔うと構えていた僕は姿勢を正して少し緊張していたが、途中からすっかり安心していた。ハミィはいつの間にか、呼んでも返事もしないほど眠り込んでいた。


     †


『エクタバナ』それが隣町の名前らしい。

 ジャンが言うにはシカゴとは比べものにならないが、僕たちが住んでるニネベよりは遥かに都会だということだ。

 どのくらい走っただろうか? ジャンが突っ込んだカセットテープの音楽が終わり、リピートされて再びA面を再生しはじめたころだったか、町が見えてきたってジャンが言ったんだ。

 確かに、窓を開けて町の音を聞いていると、車の音や人の歩く音、大勢の人の話し声なんかも聞こえてきて、ニネベではあまり聞き慣れない音が溢れていた。

 ジャンがおもむろに車を停めた。

「さて、腹ごしらえだ!」

 ジャンはそう言うと車を降りて扉を閉め、僕の助手席のドアを開けた。

「ここのダイナーのハンバーガーは絶品なんだぜ」

 そう言って車の外へ僕を連れ出そうとする。

 僕はいきなりで驚いた。

 話しておいてくれてもいいだろ⁉ なんて勝手な奴だ! またもジャンの身勝手な行動に僕は少しムッとした。ドライブって言ったのに。

「僕はお金も持ってきてないし、ハミングもいるからここで待つよ!」

 僕は不満を隠そうともせずにジャンにそう言ったが、ジャンはまったく気にも留めずに笑いながら僕の手を取ろうとした。

 すっかり行く気満々のハミィが、後部座席のドアを開けてもらうのを待たずに、僕の上を乗り越えて外へと飛び出していく。

 車の外で僕を待ち受けるように大きく一鳴きして、嬉しそうにハミィが動く音がする。

 この裏切者……。

「ガキが金のことなんか気にするな。それにおまえなら犬連れオッケーだ」

 そう言ってジャンは笑った。

 そういうことじゃない! 食事をするなら言っておいてほしかったんだというようなことを説明してみたけど、ジャンは全然取り合わないで僕の手を引いて車から降ろす。

 そんなジャンに僕は仕方なくついていった。

 まったくこいつには、調子狂わされっぱなしだ。


 店に入ると、遠い記憶にしかないような人の密集した感じが途端に僕を覆った。ジャンが言葉もなく押して開いたドアを、ハミィは軽い風を起こして優雅にカチャカチャと先陣して入っていく。僕の右上でチャイムがガロンと錆びついた音を鳴らした、たぶん銅だ。

 僕は気後れしながらも、ジャンに手を引っ張ってもらいダイナーに入り席に着いた。

 途中、僕を邪魔するものは何もなかった。スムーズに椅子に腰かけた僕の足元にはハミィがいるけど、誰も気にする様子がない。

「なんでこのお店は犬連れオッケーなの?」

 店に入るなり絶対に声を掛けられると思っていた僕は、すんなりと席に着いて拍子抜けしていた。不思議に思ってジャンに聞くと、「そいつはおまえの立派な目じゃないか!」と言ってジャンは笑った。

 ジャンに言われるまで気がつかなかった。確かに盲導犬なら、ある程度自由に連れ添えるんだったのを忘れていた。

 もちろんハミィは盲導犬じゃない。めちゃめちゃ賢く育ってくれたし、確かに僕の手足みたいに付き添ってくれてるけど、ただの雑種だし勝手に走っていってしまうことだってある。

 けど、僕はなんとなく、ジャンのこの強引にも見える言動をありがたいと感じていた。

「目が見えないからって閉じこもってたら損だよなー?」

 ジャンが椅子を引きずらせながら、茶化すようにハミィと喋っている。

 実際ハミィを連れてダイナーで食事ができるなんて考えたこともなかった。 

 こうやって誰にも咎められることなく、ダイナーのテーブルに着いて、食事をしようとしている僕がいる。たぶん一生家で食事をするんだろうって勝手に決めていた。ハンデを負っていても、工夫次第でいくらでも他の人たちと同じように生活できるかもしれないってことを、僕は完全に忘れていたんだ。思ってもみなかった。

 ジャンはもしかして、そんなことを教えたかったのかもしれない――そう僕は思った。

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