ジャンナ・グッドスピード(3)

 白杖で周囲を確認しながら音のする方へ進んだ。前方に白杖が障害物を見つけた。階段らしきものがある。玄関へ続く短い階段なら、きっと手摺りがあるはずだ。探してみるが、手摺りがどこなのか見当たらない。僕は手摺りを探ろうとして、バランスを崩して階段に躓き転んでしまった。

「何やってんだよ、早く来いよ」

 男が催促する。

 その言葉に僕は頭に来て、男に言った。

「見ればわかるだろ⁉ 僕は目が見えないんだよ!」

 いくらこいつがロクデナシでも、ここまではっきり言えばわかるだろうと思った僕が甘かった。

 男が笑いながら言った。

「見りゃわかるが、手を貸してほしいなら素直にそう言えよ」

 なんて奴だ! 最低の男だ!

 側に来て僕を起こそうとする男の手を振り払って、僕は一人で立ち上がると手摺りなしで階段を上り、家の中へとまっすぐ突き進んでやった。玄関への階段は三段だった。僕は四段目に勢いよく足を上げて空を踏んだ。

 かあっと顔が熱くなるのを感じる。さらに僕は入口の壁にちょっとぶつかりながら玄関を目指した。ドアチャイムが激しくチャラチャラと鳴ったけど、構うもんか。

「ハミィ!」

 家の中に入ると灯りは感じず、薄暗いように思えた。何とも言えない、お香とタバコと酒の入り混ざった臭いが鼻につく。

 後から入ってきた男が僕の横を通り過ぎる。すると上からシャラーンと音が鳴った。

 僕がぶつかって鳴らした玄関のチャイムとはまた違う音だ。僕が思わずその音の方に顔を上げて聴いていると男が言った。

「ウィンドチャイムだ。気に入ったか?」

 そう、確かに僕はその音に聴き入ってたんだ。

「食うか?」

 そう言って男は僕の左手に何かをピタピタと叩いて渡そうとした。

「これは?」

 僕がそれをつかんで聞くと、男は僕を試すように言った。

「食えばわかるさ」

 言い方もいちいち癇に障る。僕は細長い何かを男の手から受け取って、その得体のしれないものをかじってみた。

「うえぇ!」

 モソモソする。じゃりじゃりして石みたいだ。

 なんだこれは、チョコバーか? それにしても不味いチョコバーだ! 封を開けたまま、一年間ゴミ箱に入ってたんじゃないかと思えるほどだ。

「嫌いだったか?」

 男はさも不思議そうに聞いた。

「嫌いじゃないけど、これどこのチョコバーだよ⁉」

 こんな不味いチョコバーは食べたことがない。病院でビアンカが差し入れしてくれたチョコバーとはすごい差だ。そもそも、不味いチョコバーが存在するってことに僕は軽く感動を覚えたね。

「なんだよ! 可愛くないガキだな」

 男は笑いながらカツカツと歩いて、ガチャンと何かの扉を開いた。カチャンカチャンと瓶が当たるような音がして、プシッと音がする。

「ほら、これ飲めよ」

 男が飲み物を持ってきたらしい。口の中が恐ろしく不味いチョコバーでいっぱいだったので、僕は礼を言ってそれを受け取った。

 缶だ。冷えている。気が利くじゃないかと思いながら、口の中のものを一気に流し込もうとすると、今度はものすごく苦い。僕は飲み込もうとしたそれを、思わず口から溢れさせた。

「ゲェ! これお酒じゃないか⁉」

 いったいこいつは何を考えてるんだ。

 僕はとても腹立たしかった。不味いチョコバーは食わせるし、まだ未成年の僕にお酒は飲ませるし、とんでもない野郎だ。

「なんだよ。さっきから怒ってばかりだなおまえ」

 男は言った。

 なんて大人だ、本当に最低の奴だ。もう無理だ。こんな奴とあと少しでも一緒にいたら、僕の頭は怒りで破裂して脳みそが飛び散ってしまう。

「ハミィ! 帰るぞ!」

 怒りに任せてハミィを呼んだが、寄ってくる気配もない。

「こいつはまだ帰りたくないってよ」

 笑いながら男が言う。ムシャムシャと何かを食べる音がする。

「美味いか?」

 その言葉でわかった。男がハミィに何かを与えたようだった。

「おい! そんなの食うなよ!」

「心配するな」

 男の声は笑っている。きっと僕の目が見えないのをいいことに、からかってるんだと思った。

「本当最悪だよ! 帰ったら両親に言ってやるから!」

 男はまだ笑いが止まらないのか、「まあ、そんな怒るなよ。悪かったな、とにかく座れよ」と僕をなだめた。

 そう言われても、どこに椅子があるのかもわからない。

「自己紹介がまだだったな。俺はジャンナ・グッドスピード。ジャンって呼んでくれ――」

 僕は最後まで言わせなかった。

「立ってるのが疲れるんだけど」

 僕のことなんてお構いなしに勝手に始めた自己紹介の腰を折ってやろうとしてそう言ったが、男は調子を一切変えずに続ける。

「だから座れよ」 

 あれほど目が見えないって説明してるのに、こいつは何も聞いていない!

「目が見えないって言ったろ⁉」

「まったく、何ひとつ自分でやろうとしないんだな、おまえは」

 ジャンと名乗った男は呆れたような口ぶりで、僕を椅子に導こうとする。完全に頭に来た。

「やろうとしないんじゃなくて、できないんだ!」

 男の手を振り払い、僕は壁にぶつかりながら家を出た。

 シャランシャラン、ガランガラン、チリンチリンとチャイムがやたら鳴る。鬱陶しい! いったいいくつかかってるんだよ。こんなのひとつでいいだろ!

 僕の後ろから、部屋の奥の方でハミィが悲しそうな声で鼻を鳴らした。ジャンが小声で何か告げると、やっとハミィは僕についてきた。

「行くぞ!」

 僕は声を荒らげてた。垂れっぱなしになっていたハミィのリードを荒々しくつかんで、白杖で地面を叩きつけるように歩き出した。

 あいつがハミィに何を言ったかなんてどうでもよかった。とにかくそれくらい僕は頭に来てたんだ。


「トビー! どうしたの? 何かあったの?」

 自宅に戻った僕の不機嫌さを見て、両親が心配して何かあったのかと何度も尋ねるが、口に出すのも腹立たしい気分の僕は、「何でもない!」と吐き捨てて自分の部屋にこもった。

 その日はずっとイライラしていた。周りの人たちは僕を見て同情して気を使ってくれるのに、なんでアイツはそうしないんだ⁉

 そんなロクデナシに懐いたハミィも同罪だ。

「裏切り者!」

 僕は文句を言ってやったが、こいつは何言われてるのかわかってないのか、クゥウンと鳴きながら、お構いなしに僕のベッドにもぐりこんで気持ちよさそうにその夜も眠った。

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