匂いの塊(4)
退院してからは学校に行ってなかった。僕のことはクラスでは先生から話があったのだろう。クラスメイトがちょくちょく様子を伺いに顔を出すが、絶対に会わなかった。
教会へ行かない僕を神父が何度も訪問したが、断固として部屋から出なかったし入らせなかった。
父も母も時々僕とハミィを外へ連れ出し散歩に連れていった。最初にも言ったように、シカゴの街は人も車も建物も無駄に多い。白杖を使って歩けば、必ずそれらの中のひとつに当たって自分の立っている空間が把握し辛くなるんだ。だから僕は散歩に連れ出されるたびに不平不満を並べた。
「そんなこと言っても、家にばかりこもってないでたまには外の空気も吸わなきゃだめよ」
母はいつでも明るくそう言った。
「目の見える人には見えない人の辛さなんてわからないだろうね」
僕がそう言うと、母は決まって押し黙った。
母が僕のために雇ってくれた家庭教師は僕が十三歳になるころにはすでに七人目だった。みんな僕の傍若無人ぶりに愛想を尽かし辞めていった。家庭教師が辞めていくたびに母は疲れたように大きく溜息を吐いた。
僕の心は日に日に荒んでいく。自らの命を絶つにはその勇気や度胸もなく、ただ、どこに向ければいいのかわからない不満と不平等感だけが、怒りとして自分の中から溢れ続けていた。
この真っ暗闇な吹き溜まりをどこまでもがき続ければ報われるのか? いつまでも土の奥深い場所から地上を目指す幼虫のような気分だった。
四年前に家に来たばかりだったころは甲高い声で鳴いていたハミィも、そのころには随分と太く重たい声で鳴くようになっていた。
あとは強烈に口が臭いのと、全体的に獣臭いのと、よだれがベタベタするのと……。
まぁ、要するに臭いってことだ。
そんなある日、家族で食事をしてる最中に突然父が言い出した。
「皆でニネベに移り住まないか」
その突然の発案に僕も母も驚いた。
「ニネベに?」
母が繰り返した。
ニネベとはメイン州の南西にある、今にも廃れそうな田舎町だ。
父はそのニネベで生まれ育った。まだ祖父も祖母も生きていたころに数回遊びに行ったことがあるが、恐ろしいくらい自然に囲まれた町だったってのを記憶していた。
「あそこはいいところだよ。自然は豊富だしこの街のように忙しくない。トビーにも最高の環境だと思うんだ」
父の声が弾んで聞こえる。
「それは素晴らしい考えだと思うけれど、大学はどうするの?」
母は期待と不安が折り交ざった声で父に尋ねた。
「工科大学はもう辞めた。NIHグラントを取り付けたが、今の大学では研究の継続を却下されたんだ。私の研究を続けさせてもらえる大学を探したが、いっそニネベはどうだろうかと思ってね。メイン州の大学に新しく研究員として参加させてもらう算段をつけたところさ。講義は受け持たないから毎日通わなくても済む。これからはもっと一緒に過ごせるぞ」
父の声は子どものように高まっていた。
NIHグラントっていうのは、研究開発のための助成金みたいなものだ。この四年間、父の苛立った電話の中身は主にこれだったことを僕は知ってる。知らない単語だったけど、何度も何度も繰り返されていれば子どもの僕だって、嫌でも記憶する。
父がここまで言い切るってことはこれは提案じゃない。決定事項だ。僕は父の声のトーンや言葉使いでそう確信した。
それに大学をもう辞めてしまっていることがなによりの証拠さ。きっと母も僕と同じように思ってるはずだ。僕は母に少しだけ同情した。
「まあ! 素敵! それじゃあ早速支度しなくてはね」
……ほらね。
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