匂いの塊(3)

「どうして鼻歌Hummingなの?」

 何日目かの夕食の席で、僕は父にそう聞いた。

「やっと聞いてくれたか」

 父がカチャンと食器を置いて続ける。

「Uじゃない。Aだ。鼻歌Hummingじゃないんだ。Hmmingだ」

 少しだけ嫌な予感がした。父がこんな話し方をするときは、小難しいことを言い出すときだ。僕はよく知っていた。案の定、父の説明はすごく長くて僕にはどうでもいいことだった。

「ハミング距離を作ったハミング教授の名前から取ってあるんだ。いいかいトビー、ハミング距離というのは――」

 父が数学の話を始めたのがわかった。

 僕は聞いている振りをしながら食事を続ける。

「例えば、HatとCatという等しい文字数を持つふたつの単語があるとする。この二種類の言葉の中で、対応する位置にある異なった文字の個数をハミング距離というんだ。別の言い方をすれば、ハミング距離は、ある文字列を別の文字列に変形する際に必要な置換回数を計測したものさ」

「……それで、こいつをハミングにした理由はなんだい?」

 僕は聞いた。興味があったからじゃない。相槌を打たないと、僕が聞いてるか確認するのに父がうるさいことをよく知っていたからさ。父は満足そうに続けた。

「HatとCatのハミング距離は、1だ。このふたつは非常に近い。さてここで、HammingとTobiasについて考えてみよう」

 大学の授業じゃないんだから――僕はそう思いながらも黙って聞いていた。

「Hammingは7文字で、Tobiasは6文字だから、厳密に言うと等しい文字数の置換数を表すハミング距離ではなく、レーベンシュタイン距離という。光栄にも私たちの姓と同じ学者の名前が付いている。レーベンシュタイン家の新しい家族に、またレーベンシュタインと名付けるのも変なので、ここではハミング氏から名前をいただくことにした。そこで、なんとHammingとTobiasを同一に変形するにはすべての文字を置き換えなくてはならない。その距離は7だ。そう、ひとつも同じではないことがここでは重要だ」

 父の食器の音はしない。グラスに飲み物を注ぐ音がしている。続いて僕のすぐ隣でも、グラスに飲み物を注ぐ音がして、母が席に着いたのがわかった。

「トビー。私たちは君を心から愛している。それはわかっていてくれていると思うが、幼い君には重すぎるほどの出来事を君は経験してしまった。守れなかったことは私たちの責任だ。本当にすまない。しかしこれからも君は歩いていかなければならないんだ。まったく新しい人生になる。トビー、君の新しいこれからの生活に、この新しい仔犬をともにガイドとして歩んでいってほしい。そのハミングは7だ。とても遠いように感じるかもしれない。それでもいかに異なると思うものでも必ずたどり着く。それを忘れないでほしい。まったく異なると思われるものでも類似性は作り出せる。7は知っているように、とても幸運な数字だ。トビー、ハミングが君の新しいパートナーになってくれることを、私は願っているよ」

 父は長々とややこしいことを言った。

 まあ要するに、こういうことだろ。新しい仔犬を、僕の新しい目にしろって?

 僕はまったく、自分でもイラつくくらいに、父の言いたいことを理解してしまっていた。

「わかったよ」

 僕は食事を途中で止めて、部屋に戻った。ハミィは黙って嬉しそうについてきた。こいつには罪はない。

 こいつは常に僕の側にいた。部屋でラジオを聴いているときも、食事をしているときも、寝るときももちろん、シャワーを浴びに行くときでさえ、バスルームの前でタオルをくわえて待っていた。

 生意気に、きっと僕のボディーガード気取りなんだろう。

 そのときはまだそんな風に思っていた。

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