第二章
匂いの塊(1)
入院生活はリハビリと点字の勉強。やる気なんてまるでなかった。
父と母は僕に寄り添い、根気よくそして忍耐強く僕のやる気を引き出そうとした。でも、僕にはその見え透いた魂胆が堪らなく不愉快だった。
白杖を渡されようもんなら、それを武器に見立てて振り回し、点字を教えるリハビリ師が「これは?」と問題を出すなら全部卑猥な言葉で解答してやった。
守るものを失った人は強い。何かのアニメのキャラクターが言っていた気がする。
僕もそう思った。視力と引き換えに力を手に入れたんだって。
目が見えないという最強の武器を手に入れた僕の傍若無人ぶりは、留まるところを知らなかった。
僕に説教しようものなら耳を塞ぎ、僕の虫の居所が悪ければ口も塞ぐ。
僕の増長はいつまでも続いていった。
父と母は努めて明るく振舞っていたように思う。母は僕の前ではもう決して泣かなかった。だけどいつも病室の外で誰かに頭を下げていた。僕には見えなかったけど、母が部屋を訪れる人をいつも追いかけては、謝っていたのを僕は知ってる。
「いいのよ、気にしないでちょうだい。ケイリーあなたも大変ね。困ったことがあったらなんでも力になるわ」
そんなセリフを何度も聞いた。
父の携帯はひっきりなしに鳴っていて、廊下ではいつも父の苛立った声がしていた。
「だからその話は断ったはずだ。行けない! 私にはやることがある」
何をやるって言うんだ。僕はお荷物になるつもりなんてない。勝手にどこへでも行けばいいだろ。僕は毎日廊下で繰り広げられる会話の数々に、ただひたすら苛立っていた。
僕の退院の日、父と母は二人揃ってにこやかな声で迎えにきた。
タクシーでいいのに、父はわざわざ自分の車を病院の前に横づけた。
「トビー! よくがんばったな! 今日はなんでも好きなものを食べよう。どこかへ寄っていくか? ステーキハウスでもいいぞ。クリームドスピナッチが好きだろう」
父は運転しながら僕の機嫌を取った。
返事をしない後部座席の僕に、母が柔らかい声で言った。
「ごめんなさいね、トビー。きっと疲れているのね。あなたが退院することがとっても嬉しくって浮かれてしまったわ。今日は久しぶりのマイホームでゆっくり休みましょうね」
僕を主人みたいにしてかしずく両親を軽蔑しながら、僕は疲れている振りをした。
返事をしない僕に母がさらに続けていた。父が小さい息を吐いたのを僕は聞き逃さなかった。僕はそれ以上何も聞きたくなくて、排気ガスでいっぱいの汚い空気を入れようと、手探りで窓を開けるスイッチを押した。
夏休みなんてとっくに終わって、いつの間にかもう秋の風が吹いている。ひんやりとした埃っぽい風とともに、沈黙を回避しようとする母の喋り続ける声が僕の耳に聞こえていた。
「そうそう、あなたにって、ミランダおばさんが素敵なキルトケットを縫ってくれたのよ。一か月もかかったって。もちろんあなたのベッドにもう敷いてあるわ。すごく細かくて素敵な柄なのよ。キルトだから手触りもきっと素晴らしいと思うわ。今日はよく眠れるわよ。もしよかったら後でお礼のお手紙を書いてくれたら母さん嬉しいわ。ねえトビー、きっとあなたも気に入るわ」
僕の部屋は前と何も変わっていなかった。目の見えない僕でも部屋の空気が澄んでいることがわかるほどに綺麗に掃除され、新しいそのキルトケットがベッドに掛けられていたこと以外は。
ベッドに腰を下ろすと、すぐに新しいキルトの肌触りが強烈な印象を僕に示した。
キルトね、そりゃ想像するのは簡単さ、あの手間だけかかる家族愛の押し売りみたいなわざとらしいやつさ。まあ、お婆ちゃんとかおばさんとかの贈り物の定番だし、ごちゃごちゃした柄は好みだなんて絶対に思わないだろうけれど、どうせ目の見えない僕には柄なんて関係ない、そう思った。
だけどそれはおおいに間違っていた。布を細かく縫い合わせた柄は、以前にも増して僕には不必要な情報だった。
その夜僕は、新しいそのキルトケットのベッドで気持ち悪くなり吐いた。母は黙って次の日シーツを取り替えて、元の綿のまっさらなやつに戻した。
退院してからも僕は病院に通ったが、なぜかキルトケットの晩に吐いて以降、僕は車に酔うようになっていた。
学校のキャンプで延々と登った山道のバスでさえ、それまで酔ったことなんてなかった僕だ。誰よりも上手だと思っていた父の運転も、慣れていたはずの車の匂いもすべてが脳を刺激した。
父の後部座席に座るとすぐ、僕は頭を左にして横になってひたすら車の揺れるのに身を任せて耐えた。吐きそうになると、そこにあるゴミ箱を手探りでつかんでは吐いた。
父も母も、気持ち悪くなったらすぐに言って頂戴って言っていたけど、気持ち悪くて言葉も出ないし、運転席の背中を叩いて合図するころにはもう口から吐しゃ物が漏れていたから、僕は伝えるのを諦めていた。
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