一九九二年八月 フロリダ(3)

 アメージンググレースが終わるのを待つことなく、蠢く魔物みたいに灰色の空は勢いを増した。空一面にカラスの大群が押し寄せるようにして、空は真っ黒にまだらに荒れ狂っていたんだ。夜中なのに、眩しいくらいの光がビキビキと唸ったかと思うと一瞬にして消えて、完全な暗闇が襲ってきたと思ったら今度はそこら中に白い光が落ちてきた。雷が直撃したんだと僕は思った。

 電線が柱ごと地面からひきちぎられて辺り一帯に舞い上がっていた。フロントガラスに、びたんと電線が張り付いて車を叩いて押しやった。

 ミシミシと唸る音がキャンピングカーの中で響いて窓が割れた。割れたような気がする。扉も持っていかれたのか、すごい風が吹き込んできていた。僕らは車の中にいたはずなのに外の景色がよく見えた。大きな看板やらトラクターやらが作り物みたいに飛んでいった。

 暗闇の中、白い光が大群のカラスと看板とトラクターを一瞬ごとにコマ送りの魔法みたいに変身させていた。

 とにかくとても怖かったよ。

 母が僕を覆うように抱きしめて、何度も何度も呪文のように「大丈夫よ!」と叫んでいた。母は僕に何も見せまいとするように、痛いくらいに締めつけた。僕に見えたのは、母の足と自分の足だけ。今思えば、これが僕がこの目で見た最後の映像だった。

 ガチガチガチガチ! 何かが車にぶつかってるのか車が何かを跳ね飛ばしてるのか、激しい震動音がとにかくしていた。

 エンジンはかかっていなかったのに、急ブレーキをかけたみたいな重圧が体に伝う。体は前につんのめっていたのに、なぜか車は横滑りに動き続けていたんだ。僕は何がどうなっているのか全然わからなかった。石か何かが車に飛んできてるのかわからないけど、僕はとにかく音が目から飛び出そうに思うくらいにものすごい音と振動を感じていた。

 父と母が何かを叫び続けていた。外には化け物みたいな灰色の渦。数日前に見たアトラクションの映像みたいだった。それに車に当たり続ける何かすごい音。

 車が遊園地のティーカップのようにぐるぐると回りはじめた。でかい僕のあこがれのキャンピングカーはとうとう転がりだしたんだ。

 ジェットコースターが子ども騙しに思えたよ。

 一瞬の出来事だったんだと思う。でも、永遠かと思えるほど長い間、暴れ転がる車の中に閉じ込められた気分だった。

 何かが僕を吹き飛ばした。押しつぶされたのかもしれない。音はしなかった。ぬめっとした感触が顔を伝った。倒れているのか逆さになっているのか、それさえわからなかった。

 僕はたぶん手を動かして、自分の顔をぬぐった。「たぶん」っていうのは、ぬぐった後の手の感覚は覚えているけど、腕を動かした記憶はないからだ。何かが見えたような見えなかったような、よく覚えていない。

 ただ最後に覚えているのは、右手のぬるっとした感触だけ。僕は自分の顔をぬぐって、何かよくわけのわからない、ぐにゃっとしたものを触った。

 秋のグラントパークに落ちていた犬の糞だか腐った木の実だか、なんだかそんなような、あんなぐにゃっとした感覚だ。


 次に気がついたとき、僕は布地のようなものに包まれて横たわっていた。

 そこがどこなのか、まったくわからなかった。

 頭がどっちを向いているかもわからないっていうのは、ほんとに気持ちが悪い。平衡感覚さえ失う。平らな場所に寝ているかどうかさえわからなくなる。

 とにかく体中が痛い。目が覚めた僕の感覚はそれでいっぱいになった。

 動いてみようとするけれど動けなかった。体が自分のものじゃないみたいだ。しばらくして、右手の指先がぴくんと反応した。左腕はまったく動かなかった。かろうじて動く右手を動かして腿を触ると、それから体を伝って腹の上まで手を這わせてみた。

 僕の体はきついニットみたいなテープで縛られているようだった。

 ――なんだこれ?

 どこもかしこもザラザラしたテープで巻かれているみたいで、服の隙間から僕の柔らかい肌にはどこも触れやしなかった。何を着ているのか、服のようなものもよくわからなくて、なんだか頼りない薄手のローブらしきものを着ていた。ボタンはなくて、腰に紐が付いているのがかろうじてわかった。

 顔がかゆい。かゆいっていうか痛い。しびれてるのかなんなのかよくわからない。とにかく感覚のほとんどない腕をなんとか上に持っていって、顔に手をやってみる。

 顔も布でグルグル巻きにされていた。口の部分だけが開いている。僕の指が唇に触れたが、何かここにも小さいテープのようなものがやたら貼られていた。口を開くのも微妙な感じだ。何も見えない。真っ暗だ。昼か夜かもわからない。瞼を開けてみようとしたが、ひどく絞めつけられている感じがして、無駄に終わった。

 慌ただしく叫んでいるような声がした。ガラガラとした音が響いて、何かの気配が僕の右側から押し寄せた。

「私の声が聞こえるかい? トビー君」

 ゆっくりとした男の声が近くで聞こえる。息がかかりそうなくらい近い。男の声がもう一度繰り返した。

「私の声が聞こえたら、合図をしてくれ」

 そう言って、僕の右手に何かが触れた。僕の指をぎゅっと締めつける。

「……ここ、は……?」

「トビー君、ここは病院だ。君は事故にあったんだよ」

「トビー⁉ 気づいたのか?」

 父の声がした。駆け寄ってくるのがわかる。

 右手に触れていた何かが離れる。

 父じゃない別の男の声が続いた。

「君たち一家はハリケーンに運悪く遭遇してしまったんだ。お父さんもお母さんも怪我をしたが命に別状はないよ」

 僕は横滑りの車の中で僕を抱きしめていた母を思い出した。カーラジオからはアメージンググレースが流れていた。

 ――ああ、ハリケーンか、そうか。エバーグレーズには行けなかったんだ。

 僕は状況を理解した。

 父が、あのときの母と同じように僕を覆うように抱いた。

「トビー、トビー! すまなかったトビー」

 震える声で何度も、守ってやれなくてすまなかったと父は繰り返していた。

 小刻みに震える父の体から伝わる振動を僕は今でも覚えている。

「母さんは?」

「大丈夫だ! 大丈夫だ……」

 父は泣きながら、大丈夫だとしか答えなかった。

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