一九九二年八月 フロリダ(2)

 きっかけは一九九二年八月のフロリダ。ホームステッドを襲ったあの恐ろしいハリケーンだった。

 フロリダの大学で開催された共同研究のついでに、父は長めの休暇を取っていた。僕は初めての飛行機に前の日から眠れないほど興奮していた。

 オーランドのホテルに一泊して、僕と母は父の仕事を終わるのを待った。

 そして次の日、僕ら一家はフロリダのレジャーランドに行ったよ。そう、あの黒くてデカイ鼠のつがいがいるところだ。

 二日ほどそこで過ごして、残りの休みをフロリダ南端のエバーグレーズ国立公園でアウトドアをして過ごすはずだったんだ。父は張り切ってレンタカーを借りて、フロリダの南端を目指した。

 父が選んでオーランドのホテル前に停めて僕たちを迎えたのは、なんとキャンピングカーだった。僕はさらに興奮した。必要もないのにハイウェイ沿いに停めてもらい、ランチを取ろうってねだったりした。本当にあこがれてたんだ。キャンピングカーから出すひさしの下で、テーブルとチェアーを置いてサンドイッチを食べる。それが実現して僕は本当にご機嫌だった。

 国立公園は、本当は八月に行くにはちょっと暑すぎるって父は言ってた。それでもどうしてもワニが見たい! と言う僕の希望を聞いて、マイアミビーチでのんびりするっていう母の案の代わりに国立公園を目指したのさ。

 初めての大型旅行に僕は心底ウキウキして、毎日はしゃいでは死んだように爆睡した。朝、母が僕を起こすたびに、体がミイラになったんじゃないかってくらい、ガチガチで動かなかったよ。眠い目をろくに開けもしないでホットケーキを食べたね。バターもジャムも母が塗ってくれたのを覚えている。ああ、なんだか母の作ったピーナッツバター&ジャムサンドイッチが懐かしい。ジャムはもちろん手作りさ。

 母のサンドイッチのバリエーションは、なかなかに豊富だった。クラスメイトたちが毎日決まったようにマカロニチーズやペラペラのピーナッツバターサンドをランチボックスで持ってきている中で、僕のランチのメニューはちょっとした女子の噂になってたな。

 脇道に逸れてしまった。話を戻そう。

 カーラジオからはバハマを襲ったハリケーンがフロリダに上陸するって予想が流れていた。雲は確かに多かったけれど、晴れ間はあった。

 雲底からこぶがいくつも垂れ下がっているみたいな、変にモコモコした灰色の雲を見上げながら父と母は悩んでいたようだったが、その日一気に国立公園まで行く予定を少しだけ変更して、僕らは州道9336号線の入口にほど近い場所で一夜を過ごすことになった。

「ワニは見れる?」

 夏のフロリダは湿度が高い。すでにその辺りは農地ばかりで、建造物なんてほとんどなかった。ハイウェイ沿いに並ぶ電線だけがやけに目立った。僕はワニが見れないんじゃないかってそれしか心配してなかった。

 その夜キャンピングカーのギシギシする狭いベッドの上で、母が優しくキスをして言った。

「トビー大丈夫よ。きっと明日には素晴らしい休日が過ごせるに違いないわ」


 僕は何か緊迫した空気で目を覚ました。音だったのか、光だったのか、気配だったのか、今ではもうよく覚えていない。ただいつもなら絶対に目が覚めない時間に目を覚ました。

 両親は背中の破れたシートに座って、深刻な顔をして外を見ていた。外は真っ暗だったから、朝がまだ来てないってことはわかった。でもビカビカとした光が定期的に現れて、暗闇で見ているテレビの光に映されるみたいにして、母の顔が明るく照らされるのを見た。

 ラジオが点いていた。「避難」とか、「ノット」とか「カテゴリー」とか耳慣れない言葉をラジオのアナウンサーがやたら早口で並べ立てている感じがした。

「母さん、どうかしたの?」

 僕が目を覚ましたのに気づいて、母がラジオのチャンネルを慌てて切り替えたように感じた。ハリケーン情報を聞いていたんだろう、でも今はボリュームの絞られたラジオから賛美歌――アメージンググレースが小さく流れていた。カセットテープだったかもしれない。


Amazing grace! How sweet the sound.

(驚くべき恵み なんと甘美な響きよ)

That saved a wretch like me!

(私のように悲惨な者を救って下さった)

I once was lost but now I am found.

(かつては迷ったが、今は見つけられ)

Was blind, but now I see.

(かつては盲目であったが、今は見える)


「トビー、大丈夫よ。起こしてしまったかしら、ごめんなさい。明日の朝にはすべて治まっているわ」

 目を覚ました僕に気づいて、母が寄ってブランケットを直す。

 カチカチカチ! 小石が車の窓に当たり散らす。暗闇の向こうに白い光が見えた。どでかいアリの巣みたいに複雑な形を、一瞬にして暗い空に描いた。遠くで雷が落ちたんだろう。アメフトのオープニングセレモニーの花火みたいに、白い花火が遠くであがった気がした。遠くの木がバチバチと燃えていた。

 激しい風が僕らのキャンピングカーを揺さぶった。洗濯機の脱水の渦に巻き込まれるみたいにして僕らの車はゴトゴトと揺れた。

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