第一章
一九九二年八月 フロリダ(1)
さて、まずは簡単な自己紹介からだ。
僕の名前はトビー。
トビアス・レーベンシュタインだ。
生まれはイリノイ州のシカゴ。夏は暑くて冬は凍えるほど寒い。当時九歳だった僕が言うのもなんだけど、人も車も建物も無駄に多くて住みにくい街だ。
アスファルトとコンクリートと鉄屑に覆われたこの大都市の夏は、まるで鉄板の上に綺麗に並べられた石の上で生活するかのように暑く、冬は冷気のみを蓄積した人工物の塊が容赦なくその上に生活する人々を凍えさせる。
そこに住む人の多さや情熱に反し、隣人とのつながりは希薄で孤独な都市だったのかもしれない。
もちろんそうじゃない人たちだっている。
父は誰に対しても物腰優しく、相手の目線に立って話をする人であったし、母は誰からも好かれる、よく言えば気の利く人、悪く言えばお節介な人だが、いつも誰かの頼りにされている人だった。
父はイリノイ工科大学の教授だった。
父は数学者だったが、大学でコンピューター工学を教えていた。家にはひっきりなしに電話がかかってきていたし、なにやら気難しそうなスーツを着た人がたまに家にも来ていた。
「やあトビー。今日も元気かい? 君は将来何になるんだい? エドモンドは本当に優秀だ。君もお父さんのようにきっと何かとんでもないことを発見してくれるに違いない」
家に来る大人が代わる代わるそんなことを言っていた。
父の書斎には、手書きのメモで埋め尽くされたカレンダーと、いわゆるグルグル回すタイプの名刺フォルダーが、ふたつも机の上に乗っかっていた。
父はきっとものすごく忙しかったと思うけれど、それでも週に一度は休みを取って、僕をグラントパークに連れていきキャッチボールをしてくれたし、シカゴ・ベアーズのフットボールの試合のチケットなんかは、毎シーズン必ず取って連れていってくれた。
母はイリノイ大学で図書館情報学をやっていた。
父と母の出会いは、母が父の大学図書館に指導員として短期講習をするために訪れたときのことだったらしい。書庫棚の向こうで書籍を整理しながら職員に講習をしている母に父は一目惚れして、用もないのに毎日図書館に通っては、天気の話とか、母の興味のない数学の話なんかを繰り返していたって母が教えてくれた。父はシャイだったけど、数学やコンピューターの話をするときの父は子どものようにあどけなく、夢中でいつまでも語ったって、母はそんな父を頼もしく思ったんだって、なにかのときに僕にこっそり教えてくれた。
どうして子どものように夢中で語るのが頼もしいのか、当時の僕にはまったくわからなかったことは言うまでもない。でもまあ、そうやって父のことを話す母の頬が恥ずかしそうに染まって、「トビーおなか空いてない? ご飯にしましょう」とすぐに席を立っていたのを覚えている。
母は、父と結婚してほどなく大学を辞めた。
それでも研究そのものは続けていたらしくて、自宅には母宛ての電話が度々かかってきていたし、よく分厚い書類みたいなものをブラウンの封筒に入れて、自宅のメールボックスには入れずに、ポストまで外へ出た。
母は、僕を連れてそのまま近くのブリトーショップへ行き、僕にメキシコのスナックを買ってくれた。いわゆるジャンクフードはあまり買ってもらえなかったが、母がポストへ郵便を出しに行くこんな日は、決まって僕はメキシカンなチップスにありつけた。
「トビー。ポストまで行くわ」
そう母が言うのを僕は楽しみにしていた。
母はとても優しくて、おおらかで明るかった。大学教授だったとは思えないほど無邪気なところをたまに見せた。母が怒っているところや泣いているところなんて見たことがなかった。
僕が言うのもなんだけど、料理の腕前も最高だった。
彼女の作るコーンブレッドと、マンハッタンクラムチャウダーは僕の大好物だ。学校で嫌なことがあったって、家に帰って焼きたてのコーンブレッドを、トマトベースのクラムチャウダーでぱくつけば、すっかり何もかも忘れてしまうくらいだったな。
クラスメイトがよく言っていた。
「友達の前で子ども扱いされるのが堪らなく恥ずかしい!」
要するに年頃の男子に起こるアレだ。いちいち構われたり、子どものように愛されたりすることをうざったく思うってヤツ。もちろん僕らは子どもなんだけどね。
え? 早過ぎるって? 早過ぎることなんてないさ、だって僕らは都会派だったから。
でも、確かにそのときの僕には、そいつの言ってることがまるで理解できなかった。
何が理解できなかったって、僕は両親のことを嫌だと思ったことが一度もなかったからだ。僕は父と母のことが大好きだったし、自慢に思っていた。父の友人が、「将来はきっとお父さんのような素晴らしい人になりなさい」って言うのを素直に聞いていたし、母の料理が大好きで、外で買い食いするようなこともなかった。
きっと僕は珍しい部類に入ったんだろう。まあ、それより両親ともに大学教員だったっていう僕の家族の履歴書からみて、両親は人格者だったのかもしれないね。
子どもの心をよく知っていて、理想的に僕を愛してくれたんだと思う。
「おやすみ。トビー。今日も愛してるわ。明日もきっと神様の祝福がありますように」
両親はこれ以上ないほど僕を愛してくれた。なにより僕は両親のことが大好きだったから、親が鬱陶しいなんていうクラスメイトの気持ちなんてわかるはずもなかったし、自分は絶対にそんなことにはならないって自信があった。
だけど、僕も結局そうなってしまった。漏れることなくね。
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