そのハミングは7

虹乃ノラン

プロローグ

「まるで黒い雨だな! 雷が鳴るなんてついてないよ。朝はあんなに晴れてたのにな!」

 もう帰ろうかとしていた矢先だった。川原に張ったテントの中で、バツバツと叩きつける雨粒の音に僕たちは体を縮めていた。午前中に採れた鮭は大量で、母の喜ぶ声が浮かぶ。きっとまた新しいキャセロール料理を考案してくれるに違いないよ。

「腹が減ったなあ! なあ、ちょっくら漁師飯でも作るか? 漁師っていっても、ここは川だがな! ガハハ!」

 ボートから持ち込んだフィッシングバッカンを開け、中を物色しているんだろう。狭いテントの中に、若干生臭い匂いが充満する。

「もう死んじまったがうちの婆さんがな、魚のさばき方を俺に仕込んでくれたんだ。コツはひとつだ。頭を切り落とすときに胆嚢はつぶすな! 緑の汁が出るからな。つぶれると臭くなる、しかし今日のトーピードは面白いようによく釣れたな! あんまり大物はかからなかったが――」

 威勢よく道具を取り出したのか、すぐ傍でダンッと叩きつける音がした。「うあ⁉」

「どうしたの?」

「あはははは! 久しぶりだったからなあ、おまえはかからなかったか? ちょ、オ、オイッ?」

 尋ねた僕に、オリバーがごまかすように元気よく笑って答えると、隣にいた相棒が急に立ち上がって一吠えし、テントから走り出した。

「ちょっ! どこ行くんだ⁉」

 テントの入り口が開かれ外の風が入ってくる。途端に雨のしぶきが大きな音を立てて、中まで吹きすさんでくるようだった。オリバーは躊躇っていたが傘を取り出し出ていこうとした。

「きっとすぐに帰ってくるよ。待ってれば?」そういう僕にオリバーは言った。

「いやあ、あいつなぜか今日採れた一番でかい獲物をくわえて行っちまった! あれは魚拓とるまでは食わせねえ!」

 しばらくすると俄雨は止んで光が差しはじめ、テントの中の温度が仄かに温もりを増した。ハミィとオリバーの笑い声が外から聴こえてくる。僕がテントから顔を出し、「おかえり」と声をかけると、オリバーが困ったような声を出した。

「こいつ、今日の一番の獲物をどっかやっちまったんだよ。丸呑みした様子はみえなかったが明日になりゃ庭の肥やしになっちまうかもなあ。くそっ! ところで川原に髪の長い男がいてな、ハミィがそいつに向かって一目散に走っていくもんだから俺は慌てたよ。まさかこいつが人に飛びかかろうとするなんてな。そいつは逃げちまったが、ハミィは代わりに杖をくわえて戻ってきやがった。えらくご機嫌だ」

「杖?」

「ああ、この杖返さないとなあ? しかしどこ行ったんだろう。手に水筒を持っていたのだけは見えたんだが……こいつに怯えて逃げちまったのかもしれんな」

 ――ハミィが怖いわけないよ。

「よし、雨も止んだことだしもう一度見てくるから、おまえここで待ってろ」

「オリバー、それは杖じゃないよ」

「はあ? トビー何言ってる。いいから待ってろよ、ちょっと行ってくるから」

 僕にはわかっていた。その『杖』が再び僕を癒すためにもたらされた光の跡だということを。跡とは道だ。『導』でもある。僕の相棒がヒュンヒュンと高く鼻を鳴らす。僕は甘い香りの中、導かれるように川原の小さな石粒の上を歩いていった。


 九月二九日、ペノブスコット川に杖と水筒を持った男が現れ、黒い雨を晴らした。


 鍵を拾った話をしよう。









 ――人は誰しもある意味盲目である。













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