第3話
黒い水に赤い尾鰭が揺れていた。どうしてこんな所にいるのだろう。あんなにも可愛がっているのに。こちらの気持ちを知りもせず、ゆぅらり、優雅に泳いでいる。
早く助けてやらないと。
急く気持ちを落ちつけながら掬いあげようと手を伸ばして気がついた。これは金魚ではない。血だ。どこかから流れ出ている血だ。蝉の声がうるさく響いている。重く鈍く痛む頭。
暗闇に白く線が描かれる。見知った脚だ。脚から腰へ、腹へ、ゆるり、上った先に美しい顔があった。
唇が動く。真円のような瞳が蜜琉を覗いていた。そのぽっかりとした洞に引きずり込まれる。白い手が伸ばされて、黒々とした水面に落ちて。
みつるくん。
光を湛えたかのように白い胸乳が、闇の中で。美しい顔が、じっと蜜琉を、見て。
「みつるくん!」
見慣れた天井じゃない、美しい顔が目の前に広がっていて、一瞬、呆けた。
「みつさん?」
「ああ、良かった。魘されてたから心配になって」
「それはどうも」
体を起こそうとして、支える腕の細さに性が疼く。
講習を抜け出した日。蜜に連絡があったと知ったのは夕方だった。スマートフォンには何件も着信履歴が残されていて、このひとは蜜琉を心配するのかと今更ながらに思った。当たり前と言われたら、当たり前なのだけど。……ろくに問題を起こしてこなかったせいかも知れない。本当の家族でない以上、反抗らしい反抗もしたことがなかった。
帰宅した蜜琉を抱きしめた体は震えていて、隣にいた未花は何度も謝った。蜜は首を振って、気にしないように口にしてはいた。熱中症だったのね、わざわざ送ってくれてありがとう。そう口にして奥に走っていった。何を持たせたのか、蜜琉は知らない。
ほの暗い悦びだけがあった。……未花の家がどうだったのか、聞かなかった。気にもかけない自分が薄情だとも思う。
心配すべきだし、蜜琉も未花のようにするべきだ。頭では理解しているのに、体はちっとも動いてはくれなかった。
蜜に、意識が支配されている。
親でもないくせに、今更親の顔をするのか。詰る前に言葉は消えてしまった。少なくとも蜜の中で蜜琉は確かに存在しているのだ。それがどんな形であれ、心配をする程度には。家族の真似事をする程度には。
成長して、初めての抱擁だった。蜜が抱きしめてくれたのは、父が死んだ時だけだった。心配をさせたら、こんなにも簡単に抱きしめてくれるのか。あんな顔をして蜜琉を見るのか。泣きたいほどに狂おしい、事実だった。
否定して殺し続けて逃げてきた蜜琉を、蜜琉が笑っていた。せめていい子でいようとした蜜琉を、嘲笑っていた。
箍が外れた、音がした。
ねえ、みつさん、おれを見て。おれのことを愛して、おれのことを男として、意識してよ。もう、子どもじゃない。子どもじゃないんだよ。自分で決められる。簡単に何でもできる。なんでもできるんだ。叫んで、叩きつけてしまいたかった。叩きつけて、蜜の体がずたずたに切り裂かれても、心が粉々に砕けても縋りついて、受け容れて欲しいと、叫んでいた。
体は心と呼応していた。
あの日の抱擁が、否、それだけではない。触れる指が、声が、笑みが、何もかもが心の一番柔い奥の奥に、痛みと熱を残して疼いている。泣きたいほどに愛おしいのだ、愛して、ひたすらに欲しているのだと理解してしまった。哀しい程に、理解してしまった。理解せざるを得なかった。仄かに残る甘い、あの、匂い。蜜琉と決定的に違う匂い。鼻孔に残って、消えることない匂い。偽れない程に、蜜琉は男だった。蜜の思いは解っている。解っているのに。肉は硬く疼いていた。硬く疼いて、とろりとした液体を纏っていた。情けなく、どうしようもなく、男でしかなかった。
お休みする? 問い掛けに頷く度に、彼女の中で蜜琉がどんどん幼くなってしまう方が却っていいのかもしれない。……いっそ。いっそ、何も知らないままでいた方がいいのに、知っているから、自覚しているから、目を背けることすらままならない。
あれから休んでいる蜜琉を心配して、未花は何度もメッセージを送ってくる。その全てを無視した。あの日隣にいた彼女は蜜琉のどんな顔を見たのだろう。中身をみることが、聞いてしまうことが恐ろしく思えた。
何かの言い訳のように勉強だけ、続けている。ノートに擦れる鉛筆の音が蝉の声と蜜の生活音と混ざり合って、責め立てる。
ぼんやりとなぞって、なぞって、なぞって、なぞって――文字が、上滑りしていた。浮かされる頭と熱に揺らぐ体が学ぶことを拒絶しているようだった。意味のない線ばかりが増えていく。
解かなくては、少しでも遅れないようについていけるように、優秀でいられるように。急く気持ちと、このまま高校三年生の一番大事な時期に落ちこぼれてしまったら蜜が傍にいてくれるのではないかという甘美で愚かな夢想が引き裂いていく。
……ふれたい。
あの細くやわらかな体をねじ伏せれば、蜜はどんな顔でおれを見るのだろう。戸惑いか、怒りか、哀しみか。はたまた。
みつるくんに、ずっとこうしてほしかったの。そう甘く囁いて、頬を撫でて、脚を開いてくれるだろうか。開いて、その胎を知ったとしても、一筋の血すら生まれない体なのに。何度となく射精すれば、その中に蜜琉の子を孕んでくれるだろうか。そうして、本当の意味で家族になってくれるだろうか、愛して、愛されて、そんな当たり前の、ありふれた幸福で満たされるだろうか。胸の奥で永遠に膿を吐き出す傷口に、薬が塗られて、癒えるのだろうか。
蜜が。蜜さえいてくれたら。
誰かが囁く。彼女さえいてくれたら、本当はここでもいいんだろう? みつさんがおれを愛してさえくれたら、満足するのだろう。
遠くで声がする。どうしたのって声がしている。難しいの、って、根を詰めすぎないでねと甘ったるい声が。それがうるさい。
セックスがしたいんだろう。ちがう。そんなはずない。ふたりで、誰も知らない場所じゃないと、こんな田舎町では生きていけない。だから、見ないふりをしたんだろう。違う。おれは苦しめたいわけじゃない。今更、どの口でそんなことを言うのか。今更。今更!
とん、と肩を叩く手を、掴んだ。
「どうしたの、みつるくん」
「あ……」
蜜の腕を、掴んでいた。薄い皮膚と肉の内側、細い細い骨が軋んでいた。
「みつるくん?」
「おれ、……おれ、」
「どうしたの? 何かあった? ごめんね、少し痛……」
この人は何も知らないのだ。知ることも、理解することもない。蜜琉が蜜琉でしかないように、蜜は蜜でしかない。唐突な、理解だった。理解は衝動に変わり火をつける。
ずっと、唇を吸ってみたかった。無防備に転寝している体に毛布を掛けるだけで、肩を叩いて起こすだけで、どれだけの苦痛があっただろう。仏壇に手を合わせる後ろ姿。首筋に掛かる髪の一筋がどれほど情欲を掻きまわしただろう。
父の葬儀の時、蜜だけが蜜琉を守ろうとした。手を引いて、自分が引き取るとはっきり言ってくれた。抱きしめてくれた。それだけが、救いだった。感謝を、好意を口には出せない代わりに蜜と、家族としてあろうとした。感情は変質して、澱んで、もう、目を背けることも、自分を騙すことすら、叶わない。
腕を引く。
体が音もなく崩れて、蜜琉だった男の腕に収まった。ぴたりと、まるで最初からそう定められているように。小さな体を抱きしめて、淡く漂う匂いに満たされるとそれだけで、泣きたくなる。
愛してる。愛しているんだ。憎たらしくて、殺してしまいたくって、心の奥底を見透かすような、その眼を、黒黒とした瞳と、細い首と、華奢な腕と。全て、毒に変じる。
「みつさん」
「みつるくん」
どくりどくりと、心臓が鳴っていた。遠雷の音がする。……ノイズのように、雨音が響きだす。強く吹き付ける音と、つけっぱなしのテレビから笑い声が混ざって空虚に響いている。薄暗い部屋の中、稲光だけが世界を照らす中で、蜜琉の肉体は感情と理性の軛から逃れて、脈動して、膨れ上がる。
「みつるくん、ねえ、どうしたの? なにか」
瑞々しく潤った唇に唇を押し付ける。息吹が混じり合うだけで、涙が溢れだす。蜜はただなされるがまま、流されていく。慣れているんだ。あの男ともこうやって唇を交わして、受け容れて、一筋赤を流したんだろう。開いて、受け容れて、母と蜜琉を嗤っていたんだろう。情欲は螺旋を描く。
空いたままの窓から流れ込む、雨の匂い。体から、濡れた土と、死んだ魚と、獣と、青々とした緑の、厭な臭いがする。この町の臭いが染み付いて、唾棄し、見下していた男と一体になっている。
娯楽がないからセックスをして、娯楽がないから妊娠して、そうして、幸せな家庭を築く。男たちは皆そうする。そうはならないと、決めていた男たちに、支配されている。
唇を外すと蜜の凪いだ瞳は、蜜琉を射抜いて、そうして頬を撫でた。
受け入れてくれるのだ。男として穢れた欲を持つ蜜琉も愛しているのだ。頭が白む、興奮だった。濁り、澱んだ感情を一瞬の光が切り裂いて、細い肢体をそのまま組伏せる。こんなに、弱いんだ。蹂躙者としての遺伝子が、滾っていく。首筋に手を掛けて、その細さに力が抜けた。
「……淫売のくせに。母さんを殺したのも、父さんを狂わせたのもお前のくせに」
「……そうかもね」
「だから、だからおれは……僕は」
「蜜琉くん」
初めて名を呼ばれた。確かにそう、思った。今、蜜という女が蜜琉の内側を確かに見据えている。ひとりの人間として、家族らしさも何もかも投げ捨てて見つめている、見て、くれている。
「それは、欲? 愛? それとも、復讐?」
「決まってる。そんなの、蜜さんだって知ってるでしょ」
「わからないから聞いているの。ね、蜜琉くん。それが欲なら、止めなさいって私は言う。愛なら、あなたとのことを考える。復讐なら、私は何も言えない。――どれか、教えて」
決まっている。全てだ。それで、そのどれもが相応しくなかった。愛でもなく、欲でもなく、復讐でもないとしたらこの感情を持て余す蜜琉は鬼でしかない。異物で、この世界から弾かれても仕方がない、気持ちの悪い怪物。なり損ない。
「なんだっていいじゃないですか、そんなの」
「よくない。ちっともよくない」
「今更。今更、蜜さんがそれをっ」
蜜の顔はただ、白い。困惑を強く宿した瞳から色が緩やかに流されて消えていく。押し流されて、残ったものがない。気付きたくなくて目を逸らす。
開いた唇、小さな真珠の歯、小さな舌先で、誘惑の蛇がとぐろを巻いていた。
「……わからないっていうなら、みててあげる。蜜琉くんがひとりでしている所。それで、赦してくれる?」
もう、戻れないのだ。気付いた以上、もう、どこまでも流れるしか道はなかった。救いの手は無く、手も伸びず、ただ、溺れていく。
「……なんで、僕はあんたの子なんかじゃないのに。僕は」
「そうだね。私たちは親子でも何でもない、単なる他人だもの。でも、家族だった。だから、いいよ。見せてあげる。それを見ながら、ひとりでしなさい」
抗える訳がなかった。向かい合って座る。スラックスを寛げて解放した陰茎はかつてなく膨らんでいた。膨らんだ醜い亀頭が、しずかに泣いていた。
「かわいそうに」
一切の感情を捨てた、透明な声だった。
ぷつり、ぷつりとブラウスのボタンが外れていく。下着が落ちて、晒された蜜の胸は少女のそれと何ら変わりがない。微かな膨らみの先端で小さな蕾がしこり、色を濃くしていた。薄い皮膚に透けた骨に、そっと落ちる臍のかたち。僅かな狂いも存在しない、少女のまま、無垢なままと錯覚してしまうような、華奢な、肉体。硝子細工の繊細さを持つ、可憐な。
眩暈がした。知らず近付いた顔から逃れようと小さな躯体が、捩じれた。上半身を晒す蜜と、下半身を寛げた蜜琉と。見せる場所は違うのに、まるで、ひとつの生物である気がした。
蜜琉の体は蜜の、蜜の体は蜜琉のためにある……そう言われても、否定できない。下らない夢想だと、理解していても。
「綺麗……みつさん、きれいだ」
最初にこの美しい体を見たであろう男が妬ましかった。その男より、蜜琉の方が遥かに優れている。肉体的にも、容姿も。なのに、蜜琉が与えられているのは視覚だけで、誰かはこの肉体で五感を支配されたのだ。触れようと伸びた手は呆気なく叩き落される。
蜜の目には、何も映っていない。ただ、微笑していた。
「触らないで、みるだけ。……ほら、いいの?」
気がつけば腫れあがっていた陰茎は微かに萎えていた。見せつけるように触れて扱いても、焦りばかりが先走って、柔く柔く、項垂れていく。行き場をなくした熱が吼えている。
必死に扱きあげる蜜琉の手に、細い手が重なった。かわいそうに。男なのに、可哀想に。心から労わる声で、隙間に、滑りこむ。
「できないなら、手伝ってはあげる。どうする?」
冷えた指先の緩やかな動きは、繰り返し撫でて、戻って、離れて、擽って。児戯に似た動きで、想像させる。耐えられなかった。
「触って。おれのこと」
「どうして?」
「苦しい、痛くて、苦しい。でも、勃たない。お願い。……お願いします」
余りにも無様な懇願だった。刹那の快楽のためなら、土下座して蜜の足を舐めたっていい。もう、何も考えたくなかった。
そう。冷え切った音と共に、指が触れた。萎んでいた筈の場所は瞬く間に猛り、赤黒く膨張して、血管を浮き上がらせる。男の性を浮き上がらせて、解放を強請る。咎める指が丸く亀頭を挟んだ。
「あ、あっ……」
「女の子みたいね」
は、と鼻で笑って、寄せられた眉。凍てついた目が蜜琉を見据えていた。
「こんなものがいいの。そんなに喘いで」
ずり、ずりと滴った粘液で蜜の美しい手が汚れていく。幼い蜜琉の手を引いたあの手が、穢い欲望に包まれて、犯されて変質していく。喘ぎながら蜜琉は腰を振った。みつさん、みつさんと、小さく弱くいたいけな少年のよう、上擦り、震える声で啼いた。
「みつさん、どうしよう。気持ちいい。気持ちいいよ。こわい、こわいよ」
「怖いの?」
場違いな問い掛けに相応しい、場違いな笑みだった。蔑みと、憐憫が混ざり合って、強烈な嫌悪を押し隠した微笑だった。扱く手は握る手に変わって、力が増していく。
「……こんなもの」
「う、ぁ……、いたい、ッ、いたいよ、みつさん、ごめんなさい、……つぶして、いいよ」
潰さないでと懇願しようとしたのに、転がり出たのは違う音だった。
「え?」
「みつさんが嫌なら、つぶしていいよ。おれの、つぶしていい、だから」
蜜の瞳が、揺れていた。憎悪と、情の間で揺らいで、ほんの一瞬の戸惑いは、すぐに塗り替わっていく。
「――ばかな子」
蜜琉の手を引いた時の、やさしい、やさしい、微笑み。蜜琉を不安にさせないようにと敷かれた、大人の、聖母の、笑み。
「子供みたい」
よしよし、痛いのね。ごめんね、大丈夫、大丈夫よ。繰り返される音は、心に爪を立てて、柔らかく抉り抜く。泣いていた幼い、あの日の蜜琉へと引き戻す。
力なんて入らなかった。意志も感情も何もかもを溶かす、瞳だった。
流される蜜琉をいつくしむように蜜は髪を耳に掛けて、そっと唇で触れた。小さな口腔に招かれて、更に膨らんでいく。堪らなかった。疑問もなにも、融解して、白く、白く融けていく。蜜の小さな口に、肌に、融けていく。至る所から、水の音がしていた。雨の音、水の音、滴って、混ざり合って、けれど、肉体だけは分かたれている。交わることもなく、永遠に。
迫りくる絶頂が恐ろしかった。歯を食いしばっても爪を立てても逃れられない終焉が、緞帳を広げている。
「みつさん、みつさん、すき。だいすき。ぼくを、すてないで、おいていかないで。いやだ、ぼくは、ぼくが」
「だいじょうぶよ。私たち、家族だもの」
喉の奥を突きながら、蜜琉は吐精した。甘い余韻が胸を満たして、同じだけの絶望があった。このままこの場所にいてはいけない。警鐘が響いている。かつて埋めた金魚のように、父が捨てた金魚のように、蜜に埋められてしまう。それでも、口元を掌で覆う蜜に、眉を寄せる蜜に縋ることを止められない。
僕のものになって。僕のことを無償で愛して、救って、傍にいて。言葉のどれもが違っていた。正しさも過ちも、目映く白い肌に犯されていく。
「……ごめんね、ごめん、ごめんね」
薄い胸のほんの僅かな膨らみに顔を埋められて蜜琉は泣いた。ぼたぼたと雫が後から後から落ちて、流れて、落ちていく。雨が止み、湿気が部屋に入り込んでも、冷たい腕から逃れられない。こんなこと、したくなかった。否、ずっとこうしたかった。どちらが真実か、蜜琉にはもうわからない。蜜の口腔の熱が、細い指先が、世界を産み落とす。
スマートフォンの、通知が鳴る。未花だ。煩わしくて放り投げると何かが壊れる重い音がした。
「蜜琉くん?」
ああ、東京なんていかなくっていい、もう、ずっとここに縛りつけられたっていい。腕の中で、蜜琉は泣いている。蜜の体も声も小さく震えていて、一瞬、あたたかな雫が伝った。そんな気がした。
「……蜜さん。ねえ、また。まだ、いたいから。もっと、もっと、ねえ、蜜さん。僕、いたい、いたいよ」
だから、愛して。それが支配でもいい。声は喉の奥で呼吸と共に凍りつく。何も考えたくなかった。もう、何ひとつ。蜜という女で満たして、殺して欲しかった。
水が滴る音。視界の隅。鉢がふたつに割れていた。金魚の姿はもう、どこにもない。
目を閉じる。広い背を撫でる冷えた熱が、沈んでいく。みつるくん。その声だけが、全てだった。
金魚の墓 水城みと @mzsr310
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