第2話


 目覚めは最悪だった。少しの睡眠を期待して乗り込んだ電車に愕然とする。

 一両編成の車内はいつもより遥かに混み合っていた。観光客だろうか、浮き立っている。助長するようにアナウンスは声優に変わっていた。……作者の生誕百年を祝福してリメイクされたアニメの。それを生みだした漫画家の出身地というアピールに余念がない。仕方なく吊り輪を握ると、溜息が零れる。

 きんきんとした声が頭の奥に渦を巻き、鈍く、痛む。体の芯が、鈍く冷えていく。

 潮騒と喧騒はよく似ていて、逃れられない。すっかり重くなった頭と体を引き摺って改札を抜けると、見計らったように背が叩かれた。


 「おはよ、蜜琉くん」

 「……おはよう」


 口角の角度ひとつすら意識した、完璧な微笑と共に未花は隣を陣取った。


 「ほんと、嫌になっちゃうよねえ。夏休みだって言うのに毎日講習ばっかりで」

 「話しかけんなよ」


 蜜琉の言葉に、からからと笑う。その笑い方はあっけらかんとしていて、湿度がない。駆け引き一つない付き合いは蜜琉の気持ちを幾分か楽にさせた。

 それでも。

 都会からわざわざ田舎にやってきた転校生。家庭環境が複雑な同級生。目立つふたりが絡んでいたらどうなるか。親も親なら、子も子だ。昨日の今日で飢えた隣人たちにわざわざ餌を与えることは避けたかった。


 「珍しいね。なにかあった? 返さなかったの、拗ねちゃった? 朝返したんだけど遅かった?」

 「違う。……みつさんが」

 「嗚呼、保護者の」

 「お前と仲良くしてるの、近所の世話焼きババアに言われてたから。距離置こうかなって」

 「私と仲がいいと問題?」

 「大問題だろ」

 「そうだよねえ」


 転校初日に、未花は蜜琉に問い掛けた。蜜が流れるからみつるくん? 違うと否定したのが間違いだったのだろうか、なんとなく懐かれている。かといって、深入りすることもない。互いを嫌っているわけでもないから一緒にいる。ただ、それだけの関係。

 それを赦さないのは誰だろう。

 未花は噂のひとつすら否定しない。だから、是非を知る術は無い。聞けば答えてくれるだろうけど、興味がなかった。彼女のことを知るくらいなら、イディオムのひとつを覚える方が余程有意義だと思う。未花にとってもそれは同じだと感じるからこそ、呼吸が楽だった。

 きっと、大人しくてかわいいだけの女子高生だったらここで楽に生きていけた。でも、そうじゃなかった。未花に付き纏うの印象は、小賢しくて淫蕩で派手で素行の悪い……ゴシップの宝庫。下らないと一蹴した所で、周囲にとってはそうじゃない。

 刺激に飢えて鬱屈した町で、一度ついた印象は消えることは無い。外から来た人間に対しては尚更そうだった。知っているからこそ、突き放せない。抱く共感が哀れみだったとしても蜜琉は未花をあしらえなかった。


 「田舎だもんねえ。憧れのおばさんに知られたくないってか。やましいことしてないのにさ、けなげだよね」

 「うるさい。それに、憧れてなんて」

 「前に見かけたけどさ、綺麗なひとだよね。夏に汗一つかかないで、にこにこしてて。この辺りだと珍しいよね」

 「……珍しい?」

 「珍しいよ。何かね、空気が違う感じがする。ずっとここにいるひとと」

 「やっぱ、わかるんだ。みつさん、出身この辺じゃないんだって」

 「やっぱり」


 誰かの会話が、音が、蜜琉たちの声を掻き消していく。ありふれた日常に落としこんで、貶める。


 「でもさ、何が心配なわけ? 大丈夫だって。私と違って蜜琉くんは評判いいもん。へーき、へーき」

 「そういう問題じゃない」

 「じゃ、どんな問題?」

 「おれ、好きな子がいるって思われたくないの」

 「誰に」

 「みつさん」


 みつるくんと呼ぶ声が、誰かとの恋を祝福するなんて、考えただけでもおぞましかった。あの優しい声が、他の誰かと恋をする自分を祝福するだなんて、考えたくもなかった。

 一度だけ、蜜琉は未花と口付けたことがある。何かが変わるのか、試すためだけに。柔い唇と触れあっただけで、酷く不愉快だった。何かが穢されたと、痛んで、悼んで、堪らず擦った。

 ほら、無理だったでしょ。たった一言、それだけだった。最悪の一言すら笑い飛ばした。あれから何かが崩れることもなく、話題にすることもなく。


 「ほんと、好きなんだねえ」

 「……だから」


 はじまりは憎悪だった。過ごすうちに変容した感情は向き合うことが恐ろしい。絡め取られて、四肢は動きを忘れて、無様に口を開いて呼吸をすることすらままならなくなる。空気が足りていない。綺麗な空気と、冷たい水と、生きるために必要なものはなにひとつとして足りていない。


 「……もっと憎めたらいいのに。母さんを追い詰めたの、あのひとだから」


 澱みの奥底を認めてしまったら死んでしまう。幼い蜜琉が、今の蜜琉に殺されてしまう。重く成長した体で、幼い体が蹂躙されて、感情ごと、殺されてしまう。許せなかった。


 「そうなの」

 「そうだよ」


 蜜琉の母が病に倒れてから、父は殆ど家に寄り付かなくなっていった。倒れる前から会話しているところすらも見たことがない。父のことを話すとき、微かな寂寞を溶かしこんで笑う母の顔ばかり覚えている。

 蜜琉の母は美しい人だった。なのに蜜と比べたら、遥かに劣る。母を愛していた筈だった。蜜琉と呼ぶ声も柔く撫でる手も、なにもかも。母を疎かにする父へ憤っていた。母に似ていると言われていたのに、時が経つにつれて、父に似ていく自分自身を、恐れていた。鏡を見ると、父がいる。神経質な顔で睥睨する、無機質な、男。


 「……母さんの病気が悪化したの、みつさんとあのひとのせいだ」

 「あのひと?」

 「……父親」


 未花は何も言わない。言わないからこそ、気持ちが楽だった。


 「どうでもいいけどさ、学校、行けそう?」

 「……あ、」


 気付けば一歩も、動いてなかった。駅から出て、一歩も。動く気さえ起きなかった。

 補修を一日でも抜けたら。そんな思考が過って、放棄する。


 「さぼっちゃおっか」

 「……うん」


 槍でも降りそう。どこまでもからりとした声が、光に似ていた。それに救いを見出す蜜琉自身が苦しかった。どうせなら、世界に未花とふたりきりでいられたら、いいのに。手を引く冷たくて柔い掌にどうしようもなく、安堵していた。

 その事実がおぞましかった。蜜琉の世界に未花がゆるりと入りこむみたいで。歓迎できない自分も、歓迎している自分もどちらも等しくおぞましかった。

 なんで。落ちた言葉を影ごと踏みにじって、アスファルトに焦げ付かせる。なんで。なんで。

 特別に好きな誰かが出来て、付き合えるなら、それは幸せなことだと思う。蜜に対する妄執も思いも全て忘れて、普通に笑っていられる。家族の真似を続けていられる。この狭苦しい空気もなにも気付かないまま、大学進学までのありふれた青春を謳歌出来る筈だ。理解している。理解しているのに。

 みつるくん。

 蜜の声が頭の中で響いている。とろりとした黒い瞳が、白い肌が、ふとした時に見せる笑みが、蜜琉の手を引いてくれた指が、記憶が、すべてが。


 「……おれさ、」

 「ん?」

 「変なのかな。みつさん家族なのに。家族じゃなきゃ……」


 家族であろうとしているその想いを。わざわざ蜜琉といてくれる意味を。あの日蜜琉を選んだ意味を。何かが、開く音がする。

 かちりと歯が鳴った。体が震えていた。暑いのに寒い。適当に塗ったような青い空に、ひとつだけある雲は、雨雲だろうか。黒が混ざっている。じっとりとした汗が体を濡らしていた。重く濡れて、纏わる制服が鬱陶しい。


 「おかしくないよ」

 「おかしいだろ。だって、普通は、普通なら」


 一回りも離れた女で、家族。血のつながりがなくても、その鎖からは逃れられない。遠い場所に行ったとしても、家族だった事実からは逃れられない。

 呼吸が短く、荒れた。吸っても吸っても、息が出来ない。吸っているのに、苦しい。胸の奥で広がっていく何かが息を詰まらせる。

 目の前に、綺麗な顔があった。少し切れ長の涼しげな瞳と、小さな唇と。未花は微笑んでいる。その微笑みが近付いて蜜琉に吐息を吹き込んだ。


 「なに……」


 濡れた唇は、ミントだろうか。涼やかな匂いが残る。反射で、拭えなかった。


 「私たち、同士だね」

 「は……」

 「同士だね」

 「好きってさ、尊くもなんもないって私たち解りきってるんだもん」


 痛い所を突かれた。堪らず絞り出した反論は、幼い拒絶に変わる。


 「一緒に」

 「一緒だよ。同じだよ。だからこれは疵の舐めあいで、求愛じゃない。そう思ったら楽でしょ」

 「お前の価値観と一緒にすんな」

 「残念」


 夜に似た黒い瞳の奥に、蜜琉がいた。閉じて開いた瞳に映された蜜琉は実年齢よりもずっと幼い。


 「私さ、蜜琉くんのこと、応援してるよ。これは嘘じゃない」

 「は?」

 「噂、知ってるでしょ」

 「興味ない」

 「あれ、半分は嘘じゃないよ。私、好きな人がいたの。それが許されなかっただけ。笑っちゃうよね。ちゃんとした人なんだよ。絶対的に正しくて、私が間違ってる。でも……でも、私のためって言うくせに、私のことなんて何も見てないんだ」

 「それで」

 「別に襲ったりした訳じゃないよ。好きだよって言ったの。でも、受けいれて貰えなかったってだけ。ただそこにいられなくなったから島流しされたってだけ。それで終わり。私は納得してる」


 溢れて、滔々と流れる音は確かに蜜琉と同じ水に足を浸していた。澄んでいない、濁りきった水。澱んで、腐臭を漂わせる濁った水に。


 「成績だってさ、別に良くないよ。ここだと上になってるってだけ。なァのに、なんで好き勝手言うのかな。私はさ、人のイメージだけで出来てる。厭になっちゃうよね。ここも、どこも、狭い場所はほんと、厭になっちゃう……」


 泣いているのかもしれなかった。蜜琉の知らないどこかを見ているのかもしれなかった。


 「……こんなとこ、出てってやる」


 絞り出された声は決意と怨みを含んで、暗く、揺れる。


 「出てって、戻らない。ここの人って皆さ、最後はこっちに戻ろうとするよね、ほんと、そういうの気持ち悪くて。蜜琉くんはさ、違うからさ、……うん、だから、同士って思いたいんだよね。私、ここにいたらさ、いつか」

 「――同じに、なりそう?」

 「違うふりをしてないと、ちょっとね」

 「……お前はさ、ここのひとにはなれないよ」


 なれないかな。なれないよ。祈りのようだ。自分だけは違うという、祈り。自分たちだけは他の連中と違うのだという、余りに傲慢な。


 「じゃあ、やっぱり私たち同じだね」

 「……そうかもね」

 「いいよ、無理しないでさ」

 「なあ」

 「何」

 「アイスでも食べない? 暑い」

 「いいね、食べよ」


 濃く、空気が匂う。雨の前触れの、濡れた土の匂い。ふと見上げた空に一点、黒く雲がかかっていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る