金魚の墓

水城みと

第1話

 

  甲高い声が、必死に誰かを止めていた。黒々とした池の中に何匹も金魚が浮いている。押し留める細い手から身を捩ると、柔い頬に爪が当たった。伝い落ちた血が一滴、水面に広がり、赤く咲いている。

 気がつけば手は随分と大きくなっていて、誰かの体をそのまま、池に突き落とす。慌てて覗きこもうと乗り出した体がぐらり、揺らいで。


 「……お降りの方は先頭車両に……」


 終点を告げる車内アナウンスで、目が覚める。何か、嫌な夢を見た……気がした。重い頭を数度振って立つと冷房のせいで冷えた体が軋んだ。

 ドア横のボタンを押して、降車する。小さな駅構内には誰もいない。地元で名高い漫画家のキャラクターでラッピングされた二両編成の電車が所在なく、佇んでいた。誰にも見向きされない電車が滑稽で、哀れだった。目を逸らすように自転車に跨る。風に混じって、濃く、潮の匂いがした。

 蜜琉の町は、いつも、どこか生臭い。

 朝には加工工場の臭いや畑を焼く煙が充満して、閉口する。遠くから聴こえる汽笛の音も、薄暗い空と相俟って、気鬱にさせた。

 それでも。自転車を漕ぎながら思う。それでもまだ、蜜琉の家はましだ。少なくとも海の臭いからは逃れられる。完全とは言えなくてもまだ、いい。

 湿気た風が、汗をべたつかせる。六時を告げるチャイムはとっくに鳴った筈なのに、まだ暑い。未花なら途中でコンビニに寄るかもしれない。他の女子とは違う、少し低い声を思い出して笑みが落ちる。今日の講習にはいなかった。毎日全ての講習に出席しているのはふたりだけだから、珍しい。意味もなく送ったメッセージの返信が来なくとも、やりとりする頻度を思えば、気にもならなかった。

 帰路につく度、思う。きっと、義母は知らないだろう、と。毎日講習に行くのも、わざわざ遠い駅の定期を買っているのも少しでも家にいる時間を減らすためだという事実に、気付くことはないだろう。

 たっぷり、三十分かけて家につく。総門を抜けた先、誰も使う筈のないカーポートに見覚えのある車があった。……引き戸の格子から微かに見える姿は、ふたつ。

 悪態を吐きたい感情を押さえこんで、扉を開けた。


 「ただいま」

 「……あ、おかえりなさい」

 「あらもう蜜琉くん帰ってくる時間だったの。野菜取れたから持って来たんだわぁ。ごめんねェ、もうお暇するから」


 口にするくせに、まだ話し足りないとでも言いたげな顔で義母を見る姿が堪らなく不愉快だった。ただでさえ白い顔を青くして少し縮こまっている姿を見れば、どれだけ話していたか想像に容易い

 舌で唇を湿らせる姿の卑しさに知らず、眉を顰めた。


 「それにしても」


 続く言葉。まだ居座るのかと閉口する。どうせ大した内容じゃない。頻繁に来て、尚、特別な話題があるならば教えて欲しかった。


 「あの」


 言葉を遮って笑うと想像してもいなかったのだろう、目が大きく見開かれた。


 「今日、確かヨガの日でしたよね。確か。公民館で。楽しみにしてたのに、遅れますよ」

 「あらやだ、ほんとだ。忘れとったわ。もう帰らんと。またね」


 慌ただしく走る背中にもう来るなと戸を閉めて、鍵を掛ける。義母は……蜜は安堵したように息を吐いて蜜琉に笑いかけた。

 自分と一回りしか年の離れていない義母は、随分と頼りがない。その頼りなさが、無性に腹立たしかった。


 「おかえりなさい。ごめんね、まだご飯の用意出来てないの」

 「いいですよ、別に」

 「立派な胡瓜とかいろいろ貰っちゃった。いつも親切だよね、わざわざ寄ってくれて」


 それは親切じゃない。口にしかけて、押し黙る。祖母が生きていた頃に比べたらまだ、ましだ。家に帰ると知らない人が勝手にずかずかと上がり込んでいる状況より、遥かに。

 祖父は、漁師だった。蜜琉が産まれてすぐ病気で亡くなった。地元の高額納税者としても有名だったらしい。実際。……目を伏せる。父が亡くなっても蜜琉たちが生きていけるのは、祖父の残したものがあるからだ。それはそのまま蜜に与えられた。

 父は母ではなく、蜜を愛していたのだろう。母の遺品は、すぐに処分された。蜜琉にと渡された小さな指輪すらも。

 居場所を奪って収まった蜜の存在を拒絶するように、母と呼ばなかった。気にとめてもいないのか、なまじ年が近いせいなのか蜜自身もそう呼ばれることを望んでいないようだった。


 「あのひと、なんだって?」

 「うん? みつるくんはどうか、とか、今なにしてる、とか、そんな世間話だけど。どうかした?」

 「……別に」

 「ああ。あとね、みつるくんと女の子が一緒にいたって聞いたよ。仲がいい子いるんだね。よかった」


 あのクソババア。思わず掌に爪を立てる。

 語らずとも、なにもかも憶測で暴かれていくことを、尾鰭がついて広まることを、誰も不気味に思わないことが恐怖だった。蜜琉はまだいい、男だから。なら、蜜はどうなのだろう。どこでなにをしていたか、監視されている自覚も嘘を広められる自覚もないのに。おれがどれだけ聞かされると思っているのかと肩を掴んで、揺さぶってやりたかった。

 この町は身内にだけ優しい。一つ間違えたら瞬く間に、爪弾かれる。そのくせ、娯楽に飢えて、情報を引き出そうとする卑しさが、不快だった。

 みつるくぅんと猫なで声で話しかけて好奇心を隠すこともなく絡み付く視線を絡ませる。彼らがおぞましかった。

 ――蜜琉くんのお父さんはいいわねぇ。将来蜜琉くんもあんな感じになるのかしら。

 善意を装った言葉を八歳の蜜琉に投げかけて、力になるからねと笑いかけた。信じた愚かな蜜琉は、もう、いない。

 彼らは親切の仮面を被って、選別して、合わない存在から排除していく。

 その全てから離れたくて、一番有名な進学校に進んだ。それしか、道がなかった。その高校に行くことが、この場所で生きていく武器になる。蜜琉にとってなによりも強い武器に。

 入学が決まった時、蜜は心から喜んでくれた。入学してからもずっと一番優秀でいる蜜琉を喜んでくれた。ここから出ていこうと東京の大学を目指す蜜琉を応援してくれている。


 「折角野菜をたくさんいただいたし、なににしようか」

 「なんでもいいですよ。みつさんのご飯美味しいし」


 出ていきたい。そのために、かけられる時間全てを使って、勉強したい。

 ボーイソプラノが低く移ろって、背も蜜の背を越えた。蜜からも、この家からも、離れられる。高校に進学するときにそうしたっていい筈だった。


 「みつるくん」


 そんな決意は、蜜に名を呼ばれるだけで不思議と萎えていく。十年……父が死に、ふたりで暮らし始めて八年。それだけ長く過ごせば、情も生まれてしまうのだろうか。ずくり、ずくりと胸の奥が疼く。

 いっそ、蜜が出ていってくれたらよかった。再婚はしないのか。そう聞くと、首を横に振った。私が愛しているのは、文乃さん……あなたのお父さんだけよと、綺麗に微笑んで。あんな父の何がいいのか、少しも分からない。

 ふと隣を見る。鏡の中に亡霊を見て、ぎょっとした。堪らず目を逸らす。胸元を握り、撥ねた心臓を宥めていると中々入らない蜜琉をいぶかしむ声が降ってきた。


 「みつるくん、どうしたの? 虫でも出た?」


 なんでもない。靴を脱ぎ捨てて部屋に上がる。軋んだ床と投げた鞄の音が妙に耳に残って、離れない。痛む頭を数度振って視線を流す。

 小さな机の上、置かれた鉢の中で、優雅に泳いでいる金魚。もう、随分長く生きている。お前は楽でいいな。ぱらぱらと餌を振ってやれば喰らいつく、たった一匹残された、金魚。鰭の動きが着物の袖に見えて、目を擦る。

 遠くで蝉の声が響いていた。今日も、寝苦しくなるだろう。

 

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