閑話 悪寒 Ⅱ
二十五年前に大高城で今川義元の討ち死にを聞いた時、三年前に堺で信長の弑逆を聞いた時。その両方に匹敵する恐怖が背筋を冷やしている。気が付くと脇息を握りしめた手が汗だらけだった。
道理に合わぬ、家康は心中で呻く。今はあの時とは全く状況が違う。己は七ヶ国を越える領国の中心浜松にあり、冷静に今後の一手を打とうとしていたのだ。
毛利との国分を有利な形で落着し、自ら出陣して真田を滅ぼし上杉の勢力を信濃から退ける。間違いなく今の徳川が能う中で最善だ。
むろん将来毛利が今の鷹揚な態度を覆すことは考えねばならない。その時の毛利は西国を固め、さらに大きくなっている。だがそのような先々のことを思い悩んでも限りがない。義元や信長のごとくに輝元が死ぬかもしれず、あるいは祖父や父のごとく己が死ぬかもしれぬ。
ならばこそ万全の備えをして、先の不安に備えるのだ。伊勢を固め、信濃の憂いをなくし、合わせて北条との結びつきを強める。如何に毛利が強大でも立ち回りのしようはある。
繰り返し己に向かって道理を言い聞かせる。だが悪寒は消えてくれない。
「忠次、真田攻めに北条の兵が遅れたのは如何なる故であったか」
家康は北条取次でもある忠次に聞いた。先の上田攻めの際に徳川、北条は信濃と上野の真田領に同時に攻めかかる手はずだった。だが北条は約束の期日までに兵を出さず、それが徳川の敗北の一因となったのだ。
「……美濃守殿の言うには安房の里見の動きが盛んになっており、北条の船を脅かしたためと」
忠次は北条美濃守氏規の名を出した。氏規は家康とは駿河人質時代よりの間柄で、北条家における徳川取次を務めている。家康としても信用している人間だ。
安房の里見家は精強な水軍で江戸湾において北条家と繰り返し争ってきた家。だがかつては房総半島の大半を領していた里見も、北条の圧迫により安房に押し込められている。その里見家が再び蠢動を開始したとなれば、何らかの後ろ盾がなければ考えられぬ。
だが房総半島の先端に押し込められた里見が連携できる相手など…………。
「数正。毛利が志摩をよほどに重んじたのは真か」
「それは佐世殿の繰り言にて。……いえ確かに交渉不得手とはいえおかしな気配はございましたが」
もし毛利輝元が志摩と安房に手を伸ばしているとしたら。合わせて十万石にも足りぬ小国を得ようとする理由があるとしたら水軍のことしか考えられない。
だがいかに志摩と安房に強力な水軍があれどもしょせんは小勢だ。徳川にも旧武田家から引き継いだ駿河の水軍があり、北条は江戸湾に多数の軍船を抱える。仮に九鬼と里見が暴れても皮を切られる程度、肉にも届かぬ。
伊勢や下総から大軍を送り込めば潰せる。西国に本拠を置く毛利の後詰が届くはずもなし。だが九鬼も里見もこの乱世を生き抜いてきた水軍衆。そんなことは百も承知のはず。
いや、毛利輝元の戦の中に到底届かぬはずのところを攻め立てた戦があったではないか。
「正信。鎮守府海兵隊のこと、もう一度詳しゅう話せ」
「……かしこまりました。それでは軽輩の身で僭越ながら」
正信の説明で海兵隊の真の恐ろしさが認識される。長宗我部も大友も、そして土岐ですら、その勘所の城を海路奇襲されている。命令一下、海辺のどこに襲い来るかわからぬ精鋭は悪夢。仮にそれが志摩と安房に配されれば厄介極まりない。
七ヶ国を越える徳川領国とはいえ、その中心にあるのは三河、遠江、駿河の三ヶ国。濃尾、甲信によって守られているはずの領国が、毛利水軍にとっては攻め口だとしたら。
いや、あるいはその刃が肉に食い込むとしても、骨は断てぬ。
仮に毛利が水軍にて三河遠江へ中入りしても、城の一つ二つくれてやればいいのだ。どれだけ精強でも数千は数千、陸に上がった水軍などただの孤立した小勢だ。
九鬼や瀬戸内の水軍を用いて万の兵を運ぶとしても、甲斐から後詰させればよし。兵糧、弾薬が尽きて自壊する。
もし己が輝元なら、如何なる好餌を与えてでも北条を寝返らせる。安房の里見を手なづけるのは北条の不信をあおるのみ。むしろ徳川北条の紐帯を強められてしまう。
伊勢より志摩、北条より里見など、到底軍略に合わない。仮にそれをやられても戦える。美濃尾張にて正々堂々と毛利の大軍に向かい合い、勝てぬとしても負けぬ戦をして見せる。
黙ったまま左右にぎょろぎょろと眼球を動かす異様に家臣たちがざわつくのも気が付かず、家康は不安の種を一つ一つ潰していく。
だが背中に張り付いた悪寒は未だ消えない。敵が城を《落として》くれれば良い。だがもしもそうでなかったら。志摩からの海兵隊が東海道の要所を襲っては引き、襲っては引きを繰り返されたら。海を渡る荷船を九鬼水軍に繰り返し襲われたら。
毛利の大軍と濃尾で相対すなら荷駄は東海道が主な道となる。
万が一そうなれば、毛利を相手に出来るだけの軍勢を濃尾に置くことはできない。後ろの支えである北条も安房から同じことをされれば頼りにならぬ。当然、上杉は再び信濃に……。
つまり万全と思った己が領国は既に包囲されている。銭で雇った兵が田植えの時も、収穫の時も絶えず襲ってきたら徳川はただ疲弊するのみ。
一方、毛利が直接動かすはたった数千の海兵隊。何年でも同じことを続けられる。領民の不満は高まり、国衆はもちろん松平一族とて離反していく。戦うことすら許されずに領国は崩壊する。
これまで味わったことがない種類の恐怖、半生を掛けて切り取った領国全てが失われる恐怖だ。
家康は恐怖から逃れる道を必死に探す。
北条の尻を叩いて真田のみならず上杉まで滅ぼしてしまえば……。時間がかかりすぎる。信濃の山を越えて越後まで兵を進めれば東海道ががら空きになる。そもそも越後は海に面している。若狭を突いた毛利が越後に来れないとどうして言える。
汗ばんだ手が二度、三度と空を掴んだ。そこにあったはずの脇息がいつの間にか離れたところに転がっていた。
このような怖気、三方ヶ原以来か。
そう思った時、家康の心は逆にすっと落ち着いた。万全の備えがないなら、やるべきことは前に押し出すのみ。徳川が生き残るために他に道はないならば、それが如何なる道であろうと。
「忠勝。そなたの娘はいくつであったか」
家康は口を開いた。己も驚くほど平静な声が出た。
「はっ? ……小松ならば数えで十四でございますが」
「我が養女として真田の嫡男に嫁がせる。忠勝は真田信幸の器量は並々ならぬと褒めていたな。不満はあるまい」
「それは確かにそう申しました。しかし御主様、これからその真田と戦をなさるのでは」
「いや真田とは和議と決めた。我らの敵は毛利輝元」
戦場に置いて豪胆そのものの忠勝が茫然とした。数正、忠世はもちろん、対毛利主戦派だった忠次すらあっけにとられている。縁側で正信が思わず腰を浮かせている。だが家康は重臣達を見ていなかった。
真田を手なずけた程度では足りない。むしろ真田を伝手としてその元まで引き込まねばならない。そうなると北条の手前も、よほどの大義名分がいる。
「宗誾殿。正信と共に京に使いをお願いいたしたい」
広間の角に折り目正しく座っている僧形の男に言った。宗誾はかつての三国太守、足利一門の家格を誇る。今は己が領国を奪った家康の庇護下にある。法体となる前の名は今川氏真だ。
毛利が徳川を滅ぼす準備を整える前に、東国の軍勢をもって不破関を越え、毛利と決戦して輝元の首を取る。
ここに至ってはもはや才覚など無用、一石一鳥、身命投ずるのみ。
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