第十一話 再上洛

 天正十三年七月。山城国天王山城。


 広島で三ヶ月を過ごした後、私は天王山城に戻った。この三ヶ月は目の回るような忙しさだった。検地は福原らが選んだ各国責任者の承認。呉の海兵隊造船所に船大工を集めるために、領国各地の水軍衆との折衝。

 さらに言えば余吉じゃなかった益吉の婚儀のことでなぜか周から頼まれて料理の提案までした。


 最後のはともかく、本来ならまだ腰を据えて内政に取り組まなければならないところだ。


 だが紀伊攻めは私が出馬しないわけにはいかない。この戦争は毛利が畿内諸将を統率することを示す意味を持っている。つまり当主として大将みこしを務めなければならないのだ。


 もちろん天王山城に戻った以上、留守中に溜まった京の政治外交課題も片付けなければいけない。私は留守として置いていた鎮守府奉行佐世元嘉を呼ぶ。


「徳川家との話し合い、苦労しているようですね。本当にぎりぎりまで押し込んできましたね」

「まことに面目ございませぬ」


 珍しく青い顔で交渉経緯を説明する元嘉。伊勢の北部の豊かな地はすべて譲っていいと言っていたが、本当に全てを要求している。


 とはいえ責めるわけにはいかない。国分交渉はただでさえ最難関。本来の歴史では元嘉は本国留守居役として手腕を発揮し、関ヶ原後の長州藩では幕府との縁の薄さから存在感を失った元嘉は対外交渉が得意とは言えないのだ。


 最近わかってきたのだが、元嘉は君側の奸らしくない馬鹿正直なところがある。老練な数正の交渉術に振り回されているようだ。


「まるで石川殿と尾張のもう一人の宿老酒井殿がそれぞれ勝手に動いているようにて……」


 なるほど、京で交渉しながら伊勢では国衆地侍を傘下に組み込んで既成事実化しているようだ。いわゆるサラミ戦術だな。これをやられると伊勢に直接兵を入れていない毛利は弱い。伊勢の国衆地侍にしてみれば見たこともない毛利など頼りにならないというわけだ。


「志摩が毛利領であることは徳川家も異存がないということならいいでしょう。このまま続けてください」


 海からの東海道包囲という主戦略が崩れなければいいと、割り切ることにする。家康には私が弱腰と思われるくらいがちょうどいい。それに紀伊平定を成せば毛利の勢力が伊勢に接する。状況も好転するだろう。


「朝廷の方はどうなっていますか」

「近衛様のご尽力により、御屋形様が鎮守府将軍のまま従三位に昇進すること、および宿老衆の諸大夫任官、ともに進んでおります。付けていただいた周竹殿に助けられております」


 こちらは順調のようだ。ちなみに周竹は内藤隆春のことで、あの問題児内藤元盛の義父だ。史実でも老年を押して京大坂で情報収集に活躍している。中央政界工作は専門知識が必須で、公卿だった大内家の旧臣にはそれがある。


「実際に宣下がされるのは紀州平定をもってということですね。分かりました。今後も周竹と共に油断なく進めてください」


 朝廷の官位で毛利家と鎮守府の序列を整理する。毛利が畿内の大小名を統御するにも必要なことだ。毛利ほんしゃの重役と有力傘下企業社長の上下を目に見える形であらわすのだ。


「もう一つ、近衛様のお働きにより上杉様より書状が届きました」

「おおっ、それは重畳です」


 私は上杉景勝からの書状を開いた。前久が先代謙信の関東出兵に同行した縁で仲介したのだ。書状は信濃山中の山伏を通じて届いたらしい。前久の弟である聖護院道澄の手腕だな。近衛家が全国に張り巡らせた人脈が幕府ではなく毛利のために働いているのは良い兆候だ。


 書状の内容も申し分ない。揚北あがきたから帰陣したらしかるべき者を京に上らせると言ってきている。徳川北条同盟に圧迫されている景勝と、家康を背後から牽制してくれる勢力を必要とする毛利は完全に利害が一致している。


 しかも上杉傘下の真田昌幸が信濃で徳川勢をさんざんに撃ち破ったと書いてある。時期的に第一次上田合戦だ。史実より強力な徳川相手に大勝するとは凄いな。返信には真田の働きを褒める文言を入れなければ。


 問題があるとしたら景勝の言っている揚北だ。これも史実通り新発田重家の反乱だろう。この反乱は本能寺の前にすでに発生している。書状ではすぐに静まるように書いているが、史実通りなら鎮圧にあと二年かかる。


 内部問題を抱えていない大名などいないので、あまり気にしても仕方がない。


 この時代の大名間の関係は国内問題ではなく、国家間の問題に近い。それを考えれば順調と言ってもいいだろう。あとは畿内諸大名を動員して紀伊を平定することで、毛利の力を示すことだ。




 翌日、天王山城を立った私は摂津を経て和泉の岸和田城に入った。


 岸和田城は和泉南部の要衝で、史実でも小牧長久手で徳川方に付いた雑賀衆が攻撃している。その後の秀吉の紀州攻めで豊臣軍の本陣となった。さかのぼれば南北朝時代の楠木氏がここら辺を勢力圏にして京を窺っていた。極めて重要な地だ。


 城の周りには丹後の細川、大和の筒井、摂津の高山、近江の蒲生など土岐旧臣の畿内諸将の旗がひしめいている。羽柴の旗もあるのが実に感慨深い。毛利が畿内を制したことを改めて認識する陣容だ。


「私としても異存ありません。叔父上の決めたこの陣立て通りに戦を進めてください」


 城に入った私は隆景が示した戦闘序列じんだてを了承した。


 細川、筒井、蒲生、そして羽柴という新付の畿内大名に福原、益田、毛利家臣が軍監として付くのが前軍。彼らは毛利家臣監督の元、忠誠を示すために最前線で戦う。


 彼らの背後には播磨の元清、吉川広家を中心とした毛利の直属の中軍。そして岸和田の本陣には隆景が構える。大坂湾には小早川水軍を乃美宗勝が統率して、海から雑賀を脅かす。淡路の村上元吉も船を出しているので水軍戦力でも雑賀を圧倒している。


 総勢六万の堂々たる大軍だ。一方の紀伊は雑賀衆と根来衆が毛利への敵対姿勢を示し、高野山は表向き中立を守る状況。紀伊南部の国衆や熊野はそれぞれ勝手に動いている。到底一枚岩ではない。


 だが油断はできない。まず雑賀と根来はとんでもない強敵だ。この二勢力は鉄砲装備率と練度では日本一の火力集団。そもそも種子島から鉄砲技術を畿内に伝え、量産したのは根来衆だ。所持する鉄砲は数千丁。信長時代に十万の大軍を二度退けた実績を持つ。


 雑賀衆の頭目である土橋家は根来寺と強いつながりを持ち、根来寺の有力塔頭の一つに代々門主を出している。


 彼らの背後の高野山、熊野三山と言った宗教勢力は中立を称しているが、戦況次第ではどう動くかわからない。史実で紀伊が信長、秀吉と戦ったのは自治を脅かす者に対して徹底抵抗の姿勢を持っていたからだ。


 もちろんこちらにも対策はある。雑賀衆について誰よりもよく知り、褐色火薬という一歩進んだ鉄砲技術を磨き上げてきた鎮守府鉄砲頭鈴木重朝の存在だ。備前長船で鉄砲の生産地の指揮を執っていた重朝を、この戦に於ける隆景のブレーンとして付けていた。


「すでに各陣に褐色火薬の玉割を指導できるものを配置しております。これにて雑賀根来の鉄砲衆と言えども勝手は出来ませぬでしょう。父重秀も背後から雑賀荘を撹乱する手はず」

「よくやってくれました。紀伊平定の暁には重秀には雑賀の旧領全てを与えると伝えてください」

「ありがたき幸せ」


 重朝は頭を下げる。総指揮は毛利随一の知将隆景、戦術は鉄砲戦のエキスパートの重朝。盤石の体制だ。


「戦はすべて我らに委ねるとならば、御屋形様はいかがなされるのか」

「私はこの岸和田でただ座っています。まあ裏口で少し彼らを動かしますが」


 この戦、私は文字通りの神輿だ。ただし鎮守府将軍として一つやることがある。


 私は城を出て港に向かった。港には私の御座船だった大安宅船と、その横に関船にしてはずんぐりとした船型の船が三隻並んでいる。


 名付けて厳島級揚陸艦一号艦「厳島」だ。


 この揚陸艦を用いた海兵隊の新戦術の実践試験。この戦争の隠れた目的だ。ターゲットは熊野水軍の拠点である新宮。いわば紀伊の背中だ。


「九鬼水軍はこちらの味方ということでよいですね」

「はい。九鬼殿は志摩守のことお忘れなくと」


 鎮守府奉行堅田元慶が答える。


「分かりました。紀伊の南の者どもにも、毛利の力を知らしめてください」


 古来「木の国」と言われた紀伊、その南部は材木の産地だ。古代地中海を席巻したフェニキアを支えたレバノン杉から、大航海時代のイギリスまで木材の確保はシーパワーに直結している。

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