閑話 蝋燭の光
天正十三年五月。山城国二条城。
都の室町大路に面したその建物は堀と石垣に囲まれた堂々たる構えで、内側には庭園や茶室だけでなく馬場まで備えている。武家の棟梁である征夷大将軍の御所にふさわしい城である。
だが今、二条城の門前には誰も寄り付かない。道行く人もまるで不吉な場所であるかのように避ける有様だ。
二条城の本丸広間、御簾のかかった上段の前に、数人の幕臣が集まっていた。直垂を纏う幕府古来よりの名門の血族たち。だが格式高い直垂は古び、広間を照らす蝋燭は短く、ところどころかけていた。
御簾の近くの蝋燭が一本その炎を揺らした。
「輝元めは予に挨拶もなしに国元にもどりおった。前久は何をやっておったのじゃ」
室町幕府第十五代将軍足利義昭は、すっかり数が減った幕臣に怒りをぶつける。主の剣幕に幕臣たちは困ったように顔を見合わせる。やがて義昭からみて右の最前列に座る男が恐る恐る口を開いた。
「前関白様は……毛利殿を公卿とすべく動いておられる様子」
「なんと輝元如きの走狗となるとは。しょせん飾りものの前関白。この世を治めるは武士の棟梁たる余であることわかっておらぬ」
昭光は無言で首を垂れた。今の都では将軍は飾り物とすら思われていない、などと口にできるものではない。
「槙島殿。公卿と言うが毛利輝元は如何なる位を望んでおるのか」
槙島昭光の対面、左の最前列に座る一色昭孝が湿った声で言った。昭光は余計なことをと、内心ため息をつくが、事実を伝えないわけにはいかない。
「……従三位鎮守府大将軍であるとのもっぱらの風聞」
「これは。いや容易ならぬことですぞ公方様。初代様に逆らった北畠顕家の前例を望むは公方様への反逆も同じ」
「一色殿。めったなことを仰られては」
昭孝は色めき立った。鞆にあったとき昭孝は確かに輝元の鎮守府将軍に懸念を示していた。その先見の明は認めなくもないが、今の主には毒にしかならない。
織田、土岐、そして毛利が天下を争う中、幕府はもはや短い蝋燭、まさに風前の灯火だ。昭光としてはもはや幕府の復興など諦め、源氏の名門として最低限の格式と体面を義昭に保たせることを考えている。
そのために重要なのは毛利との関係修復だ。だが昭孝の煽るような口調に、義昭は唇を震わせ考え込んでいる。その震えが徐々に収まり、やがて口元に薄い笑みが浮かんだ。
「西の毛利が予に逆らうなら。東じゃ。蔵人佐を動かし輝元の逆心を封じ込めるのじゃ」
義昭は冷たい怒りを声音に込めていった。昭光はかつて義昭が畿内を脱し、中国へ向かう時のことを思い出した。おそらくだが、若き日に次期将軍を目指して大和興福寺から脱出した時、将軍就任直後に本圀寺で三好三人衆を撃退した時も、このようであったのではないか。
義昭の言った蔵人佐とは徳川家康。いまや七ヶ国を領する東国一の大大名だ。織田傘下にあったときからその戦上手と強兵は都にも響いていた。すでに東海道鎮護のお墨付きを与えることで、恩もうってある。
西の毛利と東の徳川を対抗させ、その上に幕府が乗っかる。それしかないのは間違いない。そしてこの義昭ほどそれを巧みに行える人間はいないだろう。
思わずにはおれない、せめて応仁の大乱時にこの方が将軍であったならと。毛利と徳川を天秤にかけるような力がもはや幕府には残っていないのだから。
「公方様。徳川家は年寄石川殿を京に遣わしておきながら、近衛邸から一度書面での挨拶が来たのみ。毛利との関係を崩すつもりはなかろうかと」
義昭は黙った。主も現状は分かっているのだと、昭光が安堵した時だった。
「昭光殿は正直者よ。物事の道理は表からだけでは分かりませぬぞ」
向かいの昭孝がせせら笑うように言った。そして義昭に膝を向けると、蛇のような声で言う。
「徳川家臣の本多正信というものから聞いております。蔵人佐は公方様への忠義の心を一時たりとも忘れておらず。もし毛利家が公方様に不忠を成すなら、当家はそれを認めがたしと言っていると」
「ほう。左様か」
義昭の目がギラリと光った。昭光は慌てて口をはさむ。
「宿老ならともかく、軽輩の言を軽々しく信じるなど危ういことでは」
「これはしたり。本多正信は徳川の帷幄の臣とのこと、主蔵人佐の意をよく知っておる様子じゃ」
昭光はその時気が付いた。昭孝の直垂が新しくなっている。そう言えば最近やけに羽振りがいいとの噂だ。徳川から賄を受けて言っているのだ。いや本人はそのような自覚すらないかもしれない。田舎大名から贈り物を得ることを、当然と思っている。
問題はその言葉が今の主にはあまりに魅力的であることだ。
「昭孝、その正信とやらを通じて三河守に伝えるのじゃ。東国の儀任せ置おくゆえ、ことあらば軍勢をもって上洛せよと」
「かしこまりました。蔵人……三河守殿にくれぐれも油断なく忠義に励むよう、伝えさせまする」
義昭が家康を三河守と呼んだことに昭光は暗澹たる気持ちになった。実は家康の三河守任官は近衛前久の斡旋により義昭の頭越しに行われた。それゆえ義昭はそれを認めず蔵人佐と呼び続けていたのだ。
西の毛利と東の徳川の間に火種を撒けば、幕府は跡形もなく滅びるのではないか。昭光は口から出かけた言葉を飲み込んだ。
義昭の満足そうな笑い声の中、蝋燭が一本燃え尽きた。
******* 後書 *******
2024年10月19日:
10月22日は投稿を休ませてもらいます。次の投稿は10月25(金)となります。よろしくお願いします。
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