閑話 上田合戦

 天正十三年三月。遠江国浜松城。


「北条に尾を振りながら当家に首を垂れ、その間に上杉に質を出す。挙句の果てに後足で砂をかけるようにご当家を裏切った。方々、かような表裏者を捨て置けば示しがつかず、信州の乱れとならん事必定なり」


 徳川国家の首府、浜松城の広間に主戦論が響いた。それをとなえるのは齢五十半ばに迫る武将だ。


 大久保忠世は三河譜代中でも有数の大久保党の代表だ。三方ヶ原の合戦では大敗を期したその夜に武田陣に夜襲を仕掛けた恐れ知らず。数々の戦に於いて武功は数えきれない。酒井、石川に次ぐ譜代重臣の一人であり、小諸城代として信濃国の代官を務めている。



 尾張を酒井忠次に任せて浜松にもどった家康は信濃への対応を議していた。西国毛利と対するためには和戦いずれにしても、背後を固めることが重要だ。


 火を吐くような強硬論に家中の空気が同調していくのを見ながら、家康は考える。濃尾攻めが終わったばかりで北の果てに兵を動かすのは負担。だが一方、真田を攻めることには旨みが大きい。


 本能寺後、信濃は上杉、北条、徳川の三つ巴の争いとなった。北条とは信濃と上野を国境にすることで和睦しているが、上杉は今も信濃北部の川中島までを占拠している。上杉の勢力が残る限り、小笠原など信濃国衆はいつひっくり返るかわからない。上田城主、真田昌幸はその上杉の先兵である。


 昌幸は家康に服属しながら徳川北条の和睦の条件、上野を北条に割譲する、に納得せず上杉に転じた。服属前に己が切り取った領土の割譲などできないというのは、国衆として当然ともいえる。だが家康も配慮し、替地を提示した。


 それを撥ねつけられたとなれば、今度は家康の面目がつぶれる。徳川の家臣団は譜代、十を越える松平一族、そして七ヶ国の服属国衆の複合体だ。許せば統制が取れなくなる。


 外交関係もある。昌幸が上野国にもつ沼田城は、同盟国北条にとっては垂涎の地だ。北条にとって上杉家は家祖宗瑞以来の仇敵。関東管領を継いだ先代謙信には本拠地小田原城まで攻められている。関東の覇権を維持するため、北条は上杉の関東侵入は断固として防がなければならない。そして上野国こそがその侵入経路だ。


 つまり、真田を攻めることは同盟国北条との関係を深めることに繋がる。


 北信濃を安定させ、上杉を北に追いやり、北条との連携を強める。まさに一石三鳥だ。成し遂げれば徳川国家は万全の構え。西国から毛利が攻めてきても十分守れる。


 家康にとって忠世の主戦論は理も利もあるものだった。


「御主様、この忠世に真田を討てとお命じくださりませ」

「……さて、とはいえ我が兵の多くは未だ濃尾にあるぞ」


 家康は心中とは反対のことをあえて言った。


「なんの。真田ずれなど六千もあれば十分でござる。上田城を一息に踏みつぶさん」


 甲斐の平岩、鳥居と言った北条との国境を任せる将を動かすことが出来れば、近場で兵はそろう。北条が上野、徳川が信濃の真田領を共に攻めれば、真田は分断される。上田城の真田は千半ばであろう。確かに勝算は立つ。


 問題は将だ。大久保忠世はその実績、経験共に申し分がないが、野戦の将であり前しか見ない。信濃の抑えとして置かれたため、濃尾攻めで武功を上げられなかったことを焦っているのも危うい。一方、昌幸はあの信玄からも愛された戦上手。しかも山だらけの信州の複雑な地形を熟知している。


 家康の勘定では一石二鳥までは才覚、だが一石三鳥となれば欲張りが過ぎる。この世はさほど都合よくできておらず、天が与える機でもない限り人知にて計ってはならない。そういう意味で慎重に事を進めたい。


 だが信濃を任せている忠世を大将から外せば面子をつぶすことになる。忠世が井伊直政など家康が引き上げた旗本先手頭に不満を言っていることも聞こえている中、それはまずいのだ。


 七ヶ国を越えて拡大した家臣団を束ねるためには井伊ら旗本先手頭と大久保党など三河譜代が要にならなければならず、両者に争われてはたまらない。


「分かった。平八郎を目付として付ける」


 家康はそう言って出陣を了承した。これで兵は八千。真田信幸が戦上手でもなんとかなるはずだ。仮に不覚があっても忠勝があれば大転びするまい。


 大転びしなければいずれ天の機が見えてくるかもしれない。桶狭間や本能寺のごとくに。




 数日後、信濃国、上田。


「味方が川を渡りきるまであと少し持ちこたえよ」


 雪解け水で氷るように冷たい川を背に、本多忠勝は兵を鼓舞する。迫ってきた騎馬武者を槍の一突きで落馬させるや、槍の柄を回転させて足軽を薙ぎ払ってみせる。踏みしめた両足は一歩も引かず、長い穂先を踏み込もうとした敵兵に向かって突き付ける。


 勝ち戦に勢いに乗る真田勢もその勇にさすがに怯む。




 信州小諸城に集結した徳川軍は八千を超えた。大将大久保忠世、軍監本多忠勝、さらに平岩親吉や鳥居元忠と言った歴戦の侍大将を擁し、一国衆を攻めるには十分な陣容だ。目指すは真田昌幸の籠る上田城。


「各々がたご覧あれ。上田城は兵も少なく。我ら相手に怯んでおる」


 敵の防衛線である神川を堂々と渡河した徳川勢は国分寺後に本陣を置いた。軍議で大将忠世は一気呵成の城攻めを主張した。


 本陣から上田城は坂の下にあり、城中の兵が少ないことは明らかだった。要害である神川に兵を配置することが出来なかったことも、真田勢が城に籠るしかできない証左である。


「大久保殿。御主様ならば有利ならなおさらじわりと行くべしと仰せではないか」


 忠勝は家康の指示通りに慎重論を唱えた。だが親吉や元忠は「敵兵の少なさは北条との呼吸が揃っている証」と忠世に同意した。彼は管轄国の甲斐を長く空けたくないのだ。


 最後にとどめのように言われた「時を無駄に費やせば上杉からの後詰が来る」という忠世の正論に忠勝も賛同するしかなかった。


 大将の忠世自ら槍を掲げて突撃した徳川勢は、兵数に劣る上田城の城門を破った。先鋒が二の曲輪まで侵入した。忠勝が己が杞憂が晴れた、そう安堵した時、戦況が一変した。


 土嚢により袋小路になった二の曲輪に誘い込まれた徳川勢は大軍が災いして混乱。そこに計ったように大量の丸太や岩が投げおろされた。


 一旦城から出ることを決めた徳川勢だが、態勢を立て直そうとしたその側面を突如現れた新手に奇襲された。千を超える敵勢がいずこからか現れたのだ。同時に城から昌幸の軍が攻め寄せてきた。


 二方向からの追い打ちに徳川軍はついに全面的な敗走となった。つい先刻、意気揚々と駆け下りた坂道を這い上がり退却する徳川勢は、神川にたどり着くまで多くが討たれ、さらに冷たい川に流され兵が失われる。


 後方に配置されていた忠勝は手勢八百をもって殿に当たった。城攻めに加わっておらず余裕のあった本多勢は忠勝の勇戦に支えられて何とか敵兵を止めようとする。


「兜の唐の頭にその大槍。本多平八郎殿とお見受けいたしまする」


 忠勝の前に、騎馬武者の一団が現れたのはその時だった。その先頭は栗毛の駿馬に乗った若武者だ。六文銭の家紋を刻んだ陣羽織に返り血を浴びた姿と、落ち着いた声音。齢二十に届くかの若さだが、どうやら側面から襲ってきた部隊の将であるようだ。


「いかにも平八郎なり。ご辺は」

「これは失礼、真田昌幸が長子にて砥石を預かる信幸でございまする。さて本多殿、ここにとどまっては無駄死にでござろう」

「心配無用。この平八郎、これまで戦場で傷を負ったことなし。此度ももう一働きしたら引き上げる所存」


 忠勝の言葉に信幸の隣の若武者が激高した。「兄上、本田平八と言えば家康の股肱、打ち取って手柄とすべし」と怒鳴る。同じ家紋と似た顔の更に若い武者だ。返り血の量は兄をしのぐ。


 信幸ははやる弟を静かに制した。


「左様でございますか。しかしながら我らすでに十分に働きましたがゆえ、そろそろお暇したいところ」

「……相手頂けぬとあればやむなし」


 忠勝はそう言うと、真田兄弟に槍を向けたまま、一歩一歩川を渡っていく。忠勝に呼吸を合わせて手勢八百は隊列を崩さないまま渡河を終えた。それを見た信幸も兵を統率して城にもどっていく。


 一日の激戦はそれに似合わぬ整然たる様で終わった。


 ……


「ずいぶんと温い敵将でしたな」

「いやあれこそ知勇兼備というもの」


 撤退する本多隊の中、与力の梶正道の言葉に忠勝は首を振った。


 戦の中でも最も危ない殿戦の中で、忠勝は鬼気迫る真田兵に疲れを見ていた。いかに追い打ちが疲れを忘れさせるとはいえ、坂を駆け上ってきた真田勢は限界に近かったはずだ。真田勢は総数二千、追撃に参加したのはおそらく千五百だ。あの状況で戦えば、八百の忠勝隊を相手に大けがもあり得る。


 真田と徳川の兵力差からいって、ここから、二百を討ったとしても大勢には影響しない。逆に真田にとっては十、二十の損害でも今後に大きく響く。


 あの信幸という若武者は忠勝と問答することで、兵に落ち着きを取り戻させ、無駄な犠牲を割けて勝ち戦を完成させたといえる。大軍に迫られた後の逆転劇の中でその判断が出来るとは、若さに似ぬ冷静な采配。


 あるいは父の昌幸以上の将才の持ち主か。


 忠勝は真田の跡継ぎをそう胸に刻んだ。



 その後、陣営を立て直した徳川軍は矛先を上田城の後方の丸子砦に移すも攻略できず、上杉軍が後詰に来たことで小諸までの撤退を余儀なくされた。上田合戦と呼ばれるこの戦での徳川軍の死者は千を超え、家康の信州平定は大きく躓くことになった。

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