第六話 海賊大名 Ⅱ
「鎮守将軍殿への合力と言うが、我が九鬼家に何をせよと申されるのか」
鎮守府による海の一円支配。陸ではなく海を主眼に置いた海の政という構想、そしてそれに参加することの莫大な利が九鬼嘉隆にその問いを発せさせた。
嘉隆の態度の変化に気が付いたのだろう。使者は居住まいを正す。
「一つ、志摩一国を九鬼様に安堵。一つ、この夏の紀伊平定に船を出していただく」
所領の安堵と軍役、毛利に服属するなら当然のことだ。だが次に飛び出した要求に嘉隆は我に返る。
「一つ、孫次郎殿には広島に出仕していただくこと。一つ、志摩の港を一つ鎮守府にお預け頂くこと。某ここに来るまでに志摩国の海岸線をつぶさに見ましたが、波切などいかがでしょうか」
「なんと!! 嫡男を質に出せと。しかも父祖の地を差し出せとは無体な」
「それは誤解でございます。孫次郎殿は人質にあらず。将来日ノ本の海の政を担っていただくため、鎮守府にご出仕いただくのです。また波切は毛利の所領にあらず、あくまでお借りするのみです」
「同じであろうぞ」
嘉隆は怒りの声を上げながら、内心で平常を取り戻そうと努める。この使者は若さに似合わず口舌巧。要するに海の一円などの甘言をもって志摩の港を奪い取る企み。仮に海の理による法度が日ノ本の海を一円と成すと言っても、要するに毛利が支配するための仕組み。
そう、いずれは毛利の息のかかった志摩守が乗り込んできて、嘉隆は国替えあるいはその下に立たされる。
「そも誤解でございます。志摩国を治めるのはこれまで通り九鬼様。輝元は紀州平定の働き如何では九鬼様を志摩守に推挙したいと」
「そのような口約束で港は譲れませんぞ」
嘉隆は立ち上がり、窓に向かう。そして顎をしゃくるようにして眼下に広がる海を見るように促す。
「こちらに突き出す、あの二本の牙を見られよ」
対岸にある二つの半島、知多と渥美はそれぞれ尾張と三河から伊勢湾に突き出している。一方、この鳥羽の地は志摩半島の先端にあり、二つの半島と向かい合っている。
この知多、渥美、志摩の三半島は鷲の鉤爪のように伊勢湾の入り口をつかんでいるのだ。嘉隆がこの地を新しい居城に選んだ理由だ。だが今重要なのは、志摩と徳川領国である尾張、三河が文字通りの指呼の間にあることだ。
東国一の大大名徳川三河守家康、かつて織田家における同僚であった家康の力を、嘉隆は十分知っている。
「もし毛利と徳川が手切れにならば、我が国はまさに境目。徳川の軍勢が伊勢からなだれ込むは必定。この志摩は陸の上の島も同然となる」
「志摩だけに島とは、御冗談が上手い」
「諧謔にあらず。我が九鬼家の浮沈の話をしておる。この城が万余の徳川軍に囲まれた時、毛利殿は如何にして後詰くださる」
「これは失礼いたしました。しかし島となれば水軍にとっては有利な地。東国一の水軍大将である九鬼様ならば三河武士の大軍とて防ぎましょう。当家の水軍が十分に後詰いたしますゆえにご安心頂きたい」
「ほう。かつて我は摂津の沖で百倍の軍船を打ち払った覚えがある。その軍船には確かかような旗が掲げてあった。まことに頼りになるものか」
嘉隆は大手門のすぐ近くの船柱に係留された関船を指さした。
かつて嘉隆は六隻の巨大船を率い、数百隻の毛利水軍を追い返した。実際には毛利水軍は一旦引いた後、大船を回避し本願寺に兵糧を入れたのだが勝ちは勝ちだ。まして瀬戸内海からこの伊勢湾までは、熊野灘の難所がある。
「毛利と言えば後詰を渋ることで名を馳せておる。荒木、別所、そして本願寺。かつて織田家への盾に使われたこと、我はこの目でしかと見ておる」
「ご懸念の程はごもっともです。しかし今の毛利はかつての毛利にあらず。毛利が若狭を一日で落としたことご存じではございませんか。あの戦の先鋒は、鎮守府の兵でございます。鎮守府海兵隊は常に戦に備え、一朝事あらば即座に港を出まする。もし徳川が志摩に兵を入れればこの海兵隊が後詰いたします」
「……そのような兵など到底信じられぬ」
毛利が若狭から都を突き、土岐を滅亡に追い込んだのは事実だ。嘉隆も土岐家の勝利を予想しており驚かされた。都では鬼神と化した吉川元春が一挙に京を落としたなどという風聞すらあるらしい。
もちろん、嘉隆はある程度は見当をつけている。毛利領国から離れた若狭に軍を送ったとなれば海路しか考えられない。鎮守府の海兵隊とやら、力となったのであろう。
それでも水軍だけで若狭陥落はあり得ないのだ。武田家によほどの油断あったのか、あるいは若狭衆をよほどうまく調略したと考えるべきだ。
嘉隆にとって最も大事なのは、誰につけば半生を掛けて切り取った志摩を守れるかだ。実現するか怪しい絵空事や、海の彼方からの後詰を信じるなど無謀な賭けだ。
戦国武将として生き抜いてきた嘉隆は己がその判断に腹をくくる。
「毛利殿にお伝えあれ。我が長男と波切が欲しければ取って見られよ。若狭を落とした自慢の海兵隊とやらなら出来ましょうぞ。それが出来たならこの嘉隆、何事も毛利殿のご下知に従いましょう」
嘉隆は使者に向かって傲然と胸を反らして、言い放った。
「……そのお言葉相違ございませぬな」
「むろんじゃ。毛利がどれほどの軍船を持ってこようと、この志摩の海で勝手できると思わぬことじゃ」
…………
夕日の照らす湾内から南へと去っていく関船。それを睨むように見る嘉隆の背後に、隣室に控えていた家老豊田が入ってきた。
「殿あれは流石に言い過ぎですぞ。毛利家の力は今や畿内の多くを……」
「分かっておる。明日の早朝にも徳川殿へ使者を立てるつもりじゃ」
嘉隆は諫言にぶぜんとした表情で答えた。
徳川からは志摩一国を安堵、伊勢湾の水軍大将としての地位で誘われている。使者の口ぶりから志摩を伊勢の付属としか思っていないことは明らかだったが、嘉隆には水軍大将として己の能力に自負がある。多くの水軍を抱える毛利の新参船将として徳川の矢面に立たされるより、船戦が得意ではない徳川方の方が手柄の立てようがある。
嘉隆の心は毛利の使者の到着前から徳川に帰属することに傾いていた。ただ日ノ本の海の一円支配、蝦夷から薩摩まで船を回すなど、思わず心躍らされたのは確か。
それでも嘉隆にとって最も重視すべきは自家の存続だ。それを保証できない毛利に付くことはできない。
「念のため孫次郎には波切の守り油断なきように伝えねばならんな。三河殿への使者と同時に明日の朝立たせよう」
嘉隆は未練を振り切るように平坦な口調で家老に命じた。
翌日、本丸予定地の仮小屋で寝ていた嘉隆は、家老豊田の足音で目を覚ました。
「な、なんじゃと。波切が落ちた。ははっ寝ぼけておるのか」
「戯言でこのようなこと言えませぬ。毛利の軍船が夜陰に乗じて波切の港に付け、あっという間に城を乗っ取りましてございます」
「馬鹿を申すな。毛利は関船一艘ぞ。ええいどこの家が裏切った」
嘉隆は唖然とした。関船一艘なら兵は百に満たない。波切は九鬼家の父祖代々の地であり、現状は本拠地と言っていい。家臣や兵を鳥羽の普請に従事させているとはいえ、守りはおろそかにしていない。
「どこも裏切っておりません。解放され書状を持ってきた者の言葉では、昨夜波切の港に付けたは関船一艘のみ。そこから一揃いの具足を付けた小兵どもが百ほど城に取り掛かり……」
奇襲により城門を突破した毛利兵は、全員が種子島を持ち、応戦しようとした波切の兵に銃口を向けた。その数名がまるで腕を誇示するように、城の奥柱に銃弾を命中させたのだという。銃弾が遠くの柱に一発もかけることなく命中したのを見て、城兵たちは戦意を失ったという。
嘉隆は震える手で書状を開いた。「孫次郎殿と波切の港、お約束の通りに鎮守府海兵隊にてお預かりいたしました」という文言が鎮守府奉行の名で書かれていた。
「鎮守府海兵隊……」
「殿。いかになされまするか。孫次郎様が敵の手に落ちたとなれば」
「…………あの若造、いや鎮守府将軍様の使者である堅田殿に伝えよ。いま一度お会いしたいと」
嘉隆は引きちぎろうとした書状を丁寧に畳んだ後、吹っ切れた心地で家老に命じた。
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