第四話 前関白

 大坂から引き返した翌日、私は淀の魚市の視察のため城を出た。山城国の南部にあり、淀川を通じて塩や魚介類を京に届けるこの市場は、瀬戸内海の塩を支配する毛利にとって重要だ。だが淀川で待っていた船を前に、私は城にとって返すことになった。


 本丸御殿にある最高位の来賓室に入る。狩装束の男が当たり前のように上座に座り、佐世元嘉にひっきりなしに話しかけていた。出雲大社について聞いているらしい。元嘉が私が入ってきたのに気が付く余裕がないのだから相当だ。


「おっ、鎮将殿であられるか。いや、鷹狩の途中で城が見えたで寄らせてもらいましたのじゃ」


 振り返った男はそう言って笑った。鹿皮の行縢と射護手という武士のような装束と、鉄漿の歯が実にアンバランスだ。五十近い年齢のはずなのに笑うと十歳は若く見える。今や日本一の大大名である私に全く物おじしない。


 前関白太政大臣近衛前久。この戦国の世でも異形の経歴の持ち主だ。今や天下一の大大名である私が予定を変更したのは、従一位の位階や准三后にビビったわけではない。


 前久はかつて関東で上杉謙信と共に北条との戦争に参加し、信長の武田討伐に同行した、さらに九州まで行って島津と大友の和睦を斡旋している。まさに全国を駆け巡っている。五摂家という最高の家格に生まれ、関白太政大臣として位人臣を極めた人間の来歴ではない。


「とまあこのように、季節の獲物はまことおかしきことでのう。鎮将殿も是非に共に鷹狩など…………そうじゃ公方も誘うては、毛利殿が二条城に顔を出さないと気に病んでおったからのう」


 延々と鷹狩の獲物自慢をしていた前久が思い出したように義昭の名を出した。要するに義昭に頼まれてきたということらしい。


 義昭の母は前久の叔母にあたる。近衛家は将軍家と近く、前久の叔父の聖護院道増も足利義輝の使者として東北から中国まで駆け回った。


 だが前久と義昭の関係はあまりよくない。過去に前久は義昭によって京を追放されている。戻ったのは義昭が信長に追放された後だ。鞆で私は義昭から前久の悪口を何度も聞いている。


 そんな前久にまで頼るというのは義昭が大分焦っているということだ。


「私は既に副将軍を辞しています。それに公方様は近衛様と同じく土岐殿と昵懇でありました」

「ほほほっ。つまり鎮守府将軍殿は征夷大将軍と同じく朝臣と」


 前久は品定めするような眼で見る。私は何食わぬ顔で応じた。


 義昭を征夷大将軍から解任することは考えていない。義昭一代は名誉職として置いておくのが妥当と考えている。もちろん家康に東海道鎮護の御内書を出したり、義昭の方は名誉職に収まるつもりはない。


 だからこそ敢て距離を置いているわけだ。


「話は変わるが。都の安泰は毛利殿次第じゃ。今の位階ではどうにも座りが悪いと考えるものも宮中にはおりまするのじゃ。どうお考えか」

「……鎮守府将軍は武家の栄誉なれば。大江が地下の家であることを考えれば、身に余るともいえます」


 表情を取り繕う。というか義昭の頼みですら名目で、こちらが本当の本題か。とはいえ簡単に答えられない。何しろ今後の毛利の立ち位置、国家のグランドデザインの問題だ。


 海からの日本統一という根幹は揺るがない。だがそれを明確な形で天下に示さなければ他の大名家はもちろん、家中すら毛利の天下を認識できない。認識できないものに従えと言うのは無理だ。


「たしか鎮将殿の母上は大内家の出とか。大内と言えば公卿の家柄じゃのう」


 前久は意味深な笑みを浮かべる。公家の言葉には幾重にも政治的な意図が込められている。まるで言葉の十二単だ。


 かつてその軍事力で義稙を将軍復帰させた西国の覇者、大内義興。畿内に絶大な影響力を振るい、守護大名としては異例の公卿になった。朝廷としては天下第一の実力者を相応に遇する必要に駆られたらしい。ちなみに将軍の頭越しに行われたこの任命により、義興と義稙の関係は悪化した。


 それはともかく、官位という序列装置は侮れない。猿の群れにも順位があるように、序列は無駄な争いを避ける意味を持つ。


 人間は無秩序を一番恐れる。万人の万人に対する闘争、つまり人権や平和どころか命が脅かされる世紀末になるからだ。無秩序になるくらいなら独裁者の方がましだったなんて例は枚挙にいとまがない。


 三回謀反する家臣が二回しか謀反しない、五回起こるはずの隣国との戦争が四回で済む、百日かかるはずの停戦交渉が八十日で終わる。この《程度》のことがどれほど大きな意味を持つか想像できるだろう。


 この序列は単なる力では維持できない。なぜなら力というものは高コストかつ不安定だからだ。だからこそ権威という無形の存在が必要になる。武士の世の中になっても、朝廷とその官位序列が権威、序列として必要とされたのはこのためだ。


 毛利家自体、義興の公卿成りによって恩恵を受けている。義興の息子の義隆により元就そふは従五位下右馬頭という大名並みの官位に推挙されている。大内家が公卿という隔絶した地位に昇ったことにより、その傘下の祖父が大名並みの官位に昇れたともいえる。


 分家から家督を継ぎ、同格だった安芸国衆たちの上に立つうえで、この官位けんいが果たした役割は決して小さくない。


「大内家のごとく、それが朝廷のお考えと」

「さて、麻呂がそういう声を聞いておるということじゃ」


 ぬけぬけと。もとは地下人、つまり下級公家の家格である大江もうり氏が公卿となるには名目が必要だから大内家の養女であった母に言及したのだ。ちなみに母の義父である大内義隆は父義興を越える従二位まで上がっている。


 ちなみに私の潜在敵である家康は三河統一後に三河守の任官を求め、そのために源氏から藤原氏に名乗りを変えることまでやっている。そう言えば家康の三河守を取り持ったのもこの前久だ。


 家康はともかく、朝廷としては私に相応の位について、ちゃんと朝廷を庇護してくれということだ。


 私には天下を統治する大義名分が必要であることも確かだ。豊臣秀吉は征夷大将軍ではなく、関白として日本を統治した。天下第一の武力と経済力を背景に、天皇の代理人という権威を存分に利用することにより、本能寺で破綻しかけた天下統一を短期間で成し遂げたのだ。


 力なき地位は無力だが、力が地位を持てば秩序を敷けるのだ。私としても、これから東国に対する外交を行う上でも意味を持つ。


 だが序列は固定化であり、海洋国家日本という改革を目指す私にとっては足かせにもなる。この矛盾にはまだ答えが出ていない。幕府や朝廷に対して距離を置いているのは実はそのためだ。もしかしたら織田信長が三職推任を突き付けられた時も、同じような気持ちだったのだろうか。


 義昭の扱いと言い、歴史は変わってるようで大きな流れは変わっていないのか……。


 そこまで考えた時、あることが思い出された。以前に鞆で義昭の取り巻きに嫌みを言われた。私の鎮守府将軍について、不遜だとか不忠だとか。その理由が同じく鎮守府将軍だったある公卿だった。


 これは使えるかもしれない。


 鎮守府で幕府を置き換える。ただ置き換えるだけでなく、鎮守府を日本の海の管理者として位置付けるのはどうだ。


 問題はそのための権威として五位ではまるで足りないことだ。だが幸い、歴史には公卿と鎮守府将軍を兼ねた前例がある。そう鎮守府将軍北畠顕家だ。


 ついでに大内義隆の大宰大弐も使わせてもらおう。もともと大宰府とは複数の国をつかさどる上級行政組織だ。それを海の管理に用いるなら……。


「殿下、物は相談なのですが……」


 私が望みを言うと、前久は「ほう、四ヶ国の太守までも欲するとは。先ほどまでの慎みはどこへ消えたのやら」と呆れたように言った後、意味ありげに笑う。


「そう言えば朝廷においては春の儀式に置いて色々物入りでのう」

「むろん、祖父からの勤王の志、私も心得ておりますとも」


 私も笑顔で答えた。序列が役に立つ以上、それにかかる費用けんきんは必要経費だ。だいたい、権威なんてものは下手に値切ろうとすればその価値が下がる。

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