閑話 神の尖兵

 天正十三年、二月。和泉国堺。


 土塀で囲まれた茅葺屋根と木の壁の屋敷の中は、異国の情緒が溢れていた。床の厚い絨毯に沿って進むと、奥に大きな十字架が鎮座する。異教のシンボルの前には祭壇があり、真っ赤な液体が注がれたガラス杯と白磁の皿に円盤状の食べ物が並ぶ。


 赤い絨毯に日本人信者が並び、赤毛の聖職者にむかって静々と進む。司祭オルガンティノは信者が差し出す両手に葡萄酒に漬した円形の食物を授けていく。キリストの血と肉体の象徴が「アーメン」という言葉と共に信者の体内に取り込まれる。


 オルガンティノはイタリアで生まれ、イエズス会への入会後東洋への布教を志した。天草に上陸してからすでに十五年を経る、京における布教の責任者を務め、織田信長からは安土に神学校セミナリオを与えられるほど信頼を得た。


 そんなオルガンティノの姿勢を象徴するのが聖体拝領のパンだ。ワインはスペインより運ばれたものだが、パンは米粉で作られた煎餅に近いものだ。聖餐を汚すとイエズス会においても反対者がいるが、オルガンティノの上司、東インド総責任者であるヴァリニャーノの現地適応主義にかなったものだ。


 主を思う気持ちさえ真ならパンと握り飯に何の違いがあろうか。堺でイエズス会が受け入れられているのは、貿易利権だけでなくこのようなオルガンティノの努力があってのことである。


日本ジャポネのもっとも力あるレックスとなった毛利サマとどのように関係を結ぶべきか。日本に福音を広めるために何より喫緊です」


 ミサ後、主だった信徒は茶室に移り会合を開いた。オルガンティノが議題を提示した。ザビエル以来、日本における布教活動は権力者に認められることが何より効果的だと宣教師たちは学んでいた。オルガンティノ自身、織田信長と友好的な関係を築いた。その信長が倒れた今、新しい天下人、少なくともその最有力候補とのつながりを築くことが、オルガンティノの急務である。


「まことにパードレのおっしゃる通り。上方だけでなく鎮西のことを考えても、毛利様と敵対するのは何としても避けねばなりません」


 答えた老年の男は小西隆佐、洗礼名ジョウチンだ。薬問屋を祖業とし海外貿易にもかかわる堺有数の大商人。信徒歴は三十年に及び、二十年前には正親町天皇により追放されたルイス・フロイスをかくまっている。この教会も彼が自邸を提供したものだ。


「息子行長アグスチノを通じて届いた府内の黒田シメオン殿の文では大友義統コンスタンチノ殿が窮地にあると。毛利と大友は長年の遺恨ある関係でございます」


 大友義統は豊前で毛利と戦ったばかり。龍造寺と島津の矢止めにより、本国豊後に対する島津の脅威が高まっている。豊後府内はキリスト教における一大拠点であり、庇護者である大友の苦境はイエズス会にとって大きな影響を与える。


「……大友家がポルトガルより大砲を入手する際、教会が仲介したことが毛利サマに知られていることは……」

「幸いパードレ・カブラルは日本を離れました。露見した場合は、あくまで貿易であると言い逃れることは可能でしょう」


 カブラルはイエズス会の日本布教責任者で大村や大友への布教で多くの功績を遺したが、傲慢な人柄で日本人信徒との間に軋轢を生んだ。さらに大名間の争いに中立を守るというヴァリニャーノの方針に背き、キリシタン大名に積極的に軍事物資を提供しようと動いた。それらにより解任され、日本を離れている。


「黒田殿の尽力によって大友との繋がりを深めた肥前の大村ドン・バルトロメオ殿、有馬ドン・アンドレス殿が龍造寺家中の争いを受けていることも見逃せません」


 手紙によると龍造寺の一の家老、鍋島直茂が長崎の教会領を問題にしている。大村純忠が寄進した長崎港はイエズス会にとって日本への出入り口であり、ポルトガル商船による交易の利益は極めて重要な財源だ。


「今のところは龍造寺隆信様が貿易の利から黙認している様子。ただ鍋島直茂殿は大友家とは遺恨があり、それも含めて毛利に近づいているとの風聞」


 島津は琉球を通じて明との交易ができるため、ポルトガル船を誘致する必要性が低い。この時代の南蛮船が運んでくる交易品の多くは、明や東南アジアの物なのだ。


 隆佐の説明を聞いたオルガンティノは眉間に深いしわを寄せた。


 多くの信徒を獲得した九州において、孝高によってなされたキリシタン大名しょこう三人の同盟は極めて重要だ。キリシタン大名と天下人が争うのは極めて憂慮すべき事態だ。


右近ジュスト殿。毛利サマの人となりをどのようにご覧になった」


 オルガンティノの思慮深い目が、三十代初めの武将を見た。


 高山右近は畿内でも最も有力で信心深い信徒の一人だ。さらに荒木村重の叛乱、本能寺、そして土岐光秀滅亡の中で教会を守り抜いた彼の手腕。オルガンティノは欧州にもこれほどの貴族は幾人もいないと評価している。


「私を敗軍の将と侮蔑することなく。また大国の主であるにもかかわらず驕りは寸毫もみえず。教会を守るという約定も守られた。寛大で善良と見ます」

「ジュスト殿がそのように言うならよほどの善性の持ち主。謙虚の美徳、まことに素晴らしい」

「ただ、気がかりなことが。側近の堅田殿が教会の様子をうかがう様あり。なによりご本人が教会を見る目がどうにも不吉」


 右近は高槻城の本丸から教会を見た時、毛利輝元の目に嫌悪が生じたのを見逃さなかった。


「毛利家は代々厳島神社を崇敬しております。戦の度に太刀や銀子を奉納しているとか」

「…………未だ福音を知らぬものが邪教に惑うのは罪ではありません。我らはそれを救うためにあるのです。やはりまずは誠意をもって接するべきでしょう。我らの望みが正しき教えを広めることのみと分かってもらいたい。隆佐ジョウチンドノにはネマワシをお願いできますか」

「パードレが直接説かれるとあらば何を置いても尽力いたしましょう。……右近殿。聞くところによれば毛利は紀伊攻めの気配とか」

「……よくご存じですね。小早川殿の動きを見るに間違いないでしょう」


 隆佐の問いに右近はうなずいた。


「紀州攻めに堺より矢銭を提供する形で会合衆をまとめましょう。それを梃子にするが早いでしょう」

「分かりました。私は毛利サマに我らの望みは主の教えを広めることのみ、そう理解してもらえるようにマコトを尽くしましょう」


 隆佐の言葉にオルガンティノは決意を込めてうなずいた。


「毛利様がさらに東へ勢力を伸ばされるなら、我らはその流れに乗り東国の津々浦々に同志を得ましょう」


 隆佐が茶室の畳の上に名簿が広げた。高山右近のような畿内の城持ち、毛利に滅ぼされた宇喜多家の旧臣、丹後細川忠興の正室のような大名婦人、隆佐のような商人、都の公家など多くの名前が並ぶ。


「今後は毛利家中にも同志を得るべく務めるべきです」


 右近が言った。


 オルガンティノは聖者の笑みを浮かべながら十字を切った。自らの意思と能力で事業を推進してくれる優秀な日本人。かように素晴らしい人間を尖兵として与えたもうた神に感謝を。

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