エピローグ 上洛

 天正十三年一月。山城国京。


 鳥羽で隆景と合流した私は下京に入り室町通りを北上する。上京の前に小さな平城がある。将軍足利義昭の二条城だ。


 二条城は足利義輝が将軍の権威を示そうと建てたが、逆に三好勢に弑逆された場所だ。その後信長により拡大される形で再建された。いわば幕府再興の象徴だったわけだ。そして義昭を追放した後で破却される。今存在しているのは光秀がさらに再建した二条城だ。


 ちなみに歴史上二条城はさらに沢山ある。義昭追放後に信長が新しく建てた二条城は本能寺の変で織田信忠の最後の地となった。さらに現代まで残っている徳川の二条城はまた別の場所にある。


 二条城の変遷を見れば戦国末期から江戸までの歴史の流れがいかに激しかったかが分かる。あとおおよそ軍事拠点としては役に立っていないことも。実際には小規模なクーデターを防ぐ程度の機能しか期待されていないし、何より役に立っていないのは城ではなくその中身だという話だが。


 二条城の城門前には幕臣が並んでいる。私に声を掛けようとした真木島昭光を無視して将軍御所を素通りした。内裏の横に焼けた宰相屋敷の表門が見えた。なるほどこの位置関係なら将軍が裏切って宰相屋敷を攻めたなんて流言が効くわけだ。


 内裏を通り過ぎると、足利義満の立てた相国寺の跡がある。室町幕府最盛期の栄華の跡も、応仁の乱で焼けたまま、広大な敷地にぽつぽつと建物が残る程度だ。


 相国寺跡は吉川軍の宿所となっていた。


 建物の一つに入る。元は塔頭の一つだったようだ。廊下の奥にある部屋の前で僧形の老人が待っていた。七十半ばを過ぎているにもかかわらず背筋が立ち、こちらに来る歩みも確かなものだ。


 曲直瀬道三、この時代の日本一の名医で足利義輝、織田信長、そして正親町天皇の医師。二十年近く前には安芸まで下向して祖父元就の治療をした毛利家とも縁の深い人物でもある。


 ちなみに本来の歴史では上洛した私も莫大な銀を送っている。医師としてのみならず京都政界における人脈として重要だったのだろう。初上洛した私にとっても大事な存在だが、今はそのような場合ではない。


「叔父上……駿河守の容体は」

「残念ながらもはや旦夕…………」


 道三は私に小さく首を振った。私は唇を引き締めて、今回の勝利の立役者の部屋に入った。


 寝所には白い夜着を着た吉川元春がいた。吉川元棟が父親を起こそうとするのをとどめる。寝具に横たわる身体は八橋城で見た時より小さく見えた。若狭から針畑越えで京を制した猛将とは思えない。船岡山に自分の旗が上がるのを見た後で、崩れ落ちるように倒れたらしい。


 その目が開いた。私と隆景を確認すると、元棟に向かって「そなたらは外せ」といった。部屋には私と隆景だけが残る。


「土岐光秀は伏見の寺にて自刃いたしました。これにて毛利の勝利は間違いなく、ひとえに叔父上の働きかと」


 近江に逃れようとした光秀は蒲生氏郷に足止めされ廃寺で自刃した。奇しくも小栗栖のすぐそばだ。宿老明智光忠も運命を共にした。


「そうであろうな」

「叔父上にはすでに伝えられておりましたか」


 思わず聞き直した。光秀を小栗栖まで追ったのは海兵隊だ。私もここに来る道すがら就英に聞いたばかり。


「船岡山で土岐の命脈を断ったゆえ、そうなるであろうというだけのこと」


 元春は当たり前のように言った。日本の半分を巻き込んだ戦争を個人の果し合いのように言うのは無茶苦茶だ。だが私と隆景は沈黙した。病身に気を使ってのことではない。


 元春の若狭攻撃は軍事学的には『奇襲』ではなく『強襲』に分類される。奇襲とは攻撃されることに気が付いていない相手を攻撃すること、強襲とは攻撃されることに気が付いている相手を攻撃することだ。


 当然だが難易度は強襲攻撃の方がずっと高い。海兵隊はまさに強襲上陸のための部隊と言えるが、それを用いて後瀬山城を落とした手際は人間離れしている。


 その後も、後詰の毛利水軍に若狭を任せ、京まで七十里の針畑越えを三日でこなした行軍。土岐勢を船岡山まで押し付けた上での京都をかく乱しての勝利。最善手だけを打ち続けたとしか思えないような戦なのだ。


 戦略的縦深の奥にあったはずの敵の急所を背後から一撃で仕留めた。いわば戦術的勝利で戦争全体の勝敗を決めてしまった。桶狭間や厳島を越える戦争芸術として残るだろう。


 なるほど、あるいは今のように表現するしかないのか。元就そふが「戦においては我も元春に及ばぬ」という言葉を思い出した。腑に落ちた瞬間ぞっとした。見えている物が違いすぎる。背後で隆景が唾をのんだのが分かった。


「とはいえ我がこの戦、あの兵どもを借りなければこうはいくまい。そなた、あのような軍のことどのようにして知った」


 私は言葉に詰まる。まさか四百年以上後の知識なんて言えない。日頼もとなり様だって知らない。気が付けば前と後ろの叔父も私に視線を向けている。


 久しぶりの叔父二人に挟まれた空気。額に汗が流れた。だがそれがふっと途切れた。


「まあそなたの知恵がどこから湧いたかはよいか。父と弟に使われてばかりであった我が、天下の戦をした。それで良しとしようぞ」


 元春は面白そうに笑った後、真顔になった。


「最後に言っておく。このような戦は二度としては成らぬ」

「言われずとも承知。斯様な薄氷の戦、二度と御免被る」


 隆景が言った。元春は満足そうな表情で「では後の天下はそなたらに任せた」というと目を閉じた。


 …………


 元春が眠った後、私は後を元棟に任せて隆景と別室に入った。もう床から起きることはないだろうというのが道三の見立てだ。


「毛利を賭けて勝手気ままの戦をした挙句に勝ち逃げとは。播磨表で我らがどれほど苦労したか」


 冷静な叔父には似合わないセリフだ。


 もちろんこんな戦争は二度としない。まずできる人間が毛利にはいない。何より今後毛利は賭けをしてはいけないのだ。


 今回の戦争の結果、播磨と但馬、淡路、摂津まで毛利の手に入った。和泉もすでに小早川水軍が展開している。丹後の細川、大和の筒井、近江の山岡や蒲生も将軍への赦免を私に取り次いでほしいといってきている。四国の長宗我部も河野に和を乞うている。事実上、毛利に服属を求めていることになる。


 毛利は日本一の大大名だ。


 この大勢力をどうやってまとめるかは大問題だが、今後は元春のような戦術的勝利で、戦略的不利を覆す名将を恐れるべき立場が毛利だ。


 そしてそういう名将は存在する。東に誕生した日本第二の勢力だ。


 徳川家康は尾張と美濃に侵攻した。斎藤利三を破り清州城を攻略したことで尾張を占拠。同時に武田旧臣を使って信濃から美濃を攻略している。濃尾で百二十万石強が家康の手に入ったことになる。


 本能寺の変で甲斐と信濃、そして今回の戦争で尾張と美濃、火事場泥棒がうますぎる。


 徳川国家は七ヵ国二百七十万石。豊臣政権の家康の石高とほぼ同じだが、天下に近い二百七十万石であり、北条氏との同盟も生きている。


 戦国の最終勝者とどうやって渡り合えばいいのか。その答えは私には見えない。









******* 後書 *******

2024年8月3日

ここまで読んでいただきありがとうございます。おかげさまで第三章を完結出来ました。今章は舞台が西日本全体に広がり、光秀がとにかく強敵で大変でした。あと最後は完全に元春に持っていかれましたね。


ブックマークや★評価、いいねなどの応援感謝です。コメント、レビューはとても励みになっています。また誤字脱字のご指摘には本当に助かっています。


第四章は『東西冷戦(仮)』として現在構想中です。開始は九月初旬を考えています(あくまで予定だとご理解を)。

あらためてここまで読んでいただきありがとうございました。



こちら完結済みです。よろしければどうぞ。

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