二十九話 天王山の戦い

 天正十二年十一月。摂津国高槻城。


 本丸から城内の一等地に立つ教会が見える。


 焼き払いたくなる衝動に駆られるが、もちろん我慢だ。この重要拠点が無傷で手に入ったこと考えれば、教会一つの保護は仕方がない。今は、ではあるが。


 高山右近の降伏により高槻城が毛利の手に落ちたのは昨日だ。これで毛利は京への道の入り口を確保したことになる。東に見える山と川に挟まれた隘路は摂津と山城の境で、その向こうには多くの町家が並ぶ栄えた町が見える。


 大山崎の町だ。


 毛利と土岐がここで戦うのは歴史の強制力、ではもちろんない。地形から分かる通り京をめぐる攻防は必然的にここで起こるのだ。


 ただし本来の歴史での羽柴秀吉と明智光秀の戦はこの隘路を抜けた場所で行われたのに対して、毛利輝元と土岐光秀の戦いは隘路を越えられない。天王山には土岐の要塞が鎮座しているのだ。


 もし史実の明智光秀がこの城を所有していたら勝敗は変わっていたのではないかと思わせる堅固な城郭が通路を扼する最適の位置にあるのだ。


 ただ史実と違うところはもう一つあって、毛利軍は山崎の町をさらに超えたところに既に存在している。史実の山崎の戦なら光秀が本陣を置いた御坊塚に、京都方面から吉川軍が進出しているのだ。即ち、この立派な城は京を守るという戦略的意味を失って孤立している。


 土岐軍の大攻勢からのこの大逆転までたった四日の出来事だった。




 四日前、吉川軍により京が陥落したことで土岐軍は天下台からの総撤退に入った。もちろん毛利がそれを黙ってみているはずもなく、天下台の陣地に入り込んでいた中川、赤松の両隊はあっという間に壊滅。中川清秀、赤松広秀も打ち取った。


 北の前田軍は山沿いを撤退していったが、当然無視だ。この戦争の勝敗は土岐軍本隊にどれだけ損害を与えられるかで決まる。


 揖保川を越えて追撃にかかった毛利軍の前に立ちはだかったのは高山右近だった。高山隊二千五百と松田政近の千が、怒涛の勢いで進軍する毛利軍相手に殿を務めたのだ。高山右近は引いては攻め、ひいては攻めを繰り返す見事な指揮で毛利軍をいなし、松田政近は討ち死にするまで奮闘、夜まで毛利軍は押しとどめられた。


 翌日、追撃を再開した毛利軍は山陽道を突き進み英賀を奪回して姫路城を越えた。姫路城のすぐ東を流れる市川沿いに、三沢茂朝の軍が布陣していた。東播磨国衆の多くが逃げ去ったとはいえ、高山右近が合流した三沢茂朝はまだ八千の兵を持ち、組織的抵抗を維持した。


 後でわかったことだが姫路も御着も放棄して兵力を集めていた。まさに背水の陣だ。


 毛利軍は攻め立てたものの、敵の守りは堅い。もし光秀の本体を無傷で京にもどせば吉川軍は壊滅、ここから毛利の敗北になる。


 土岐軍に決定的な打撃を与えたのは水軍だった。赤穂から出航した小早川水軍が淡路の海兵隊分隊や村上水軍と一緒に明石城を突いたのだ。後ろに回り込まれた土岐軍はパニックになり、市川の守りはあっという間に崩れた。


 三沢茂朝は川を背に最後まで戦って討ち死に。光秀本隊はかろうじて明石を越えて摂津に逃れたが、軍の多くは散り散りになった。東播磨の国衆はことごとく毛利に下り、高山右近もここで降伏した。


 毛利軍は播磨を越えて摂津に入った。三沢茂朝、中川清秀という有力武将はすでになく、高山右近が降伏した摂津は文字通り素通りだった。光秀が本営を置いていた尼崎も毛利水軍の攻撃であっさりと陥落している。


 将軍義昭は尼崎の陥落を知ると光秀を管領代から罷免した。ちなみに私には光秀がいかに将軍をないがしろにした悪臣かを長々と書き連ねた手紙が届いた。あきれたことに副将軍宛の御内書だ。


 それでも畿内五ヶ国の国衆が光秀に従わない名目が出来たのは大きい。これが最後の止めとなり、土岐軍からは脱落者が相次いだ。


 細川親子は丹後の居城に引き返してそのままのようだ。羽柴秀長の軍も但馬竹田城に引いたので、山陰方面の土岐軍も解体だ。


 鳥取城攻めを放棄した明智光忠が丹波経由で駆け付けたものの、わずか五百の兵が城に入ったのみ。


 天王山城の城兵はそのわずかな援軍を合わせて三千程度。巨大な城を守るにはぎりぎりだ。一方、毛利軍は摂津側だけで二万だ。それでもさすがに残った者たちは頑強に抵抗した。三ノ丸、二ノ丸と攻略していき、最後に本丸が落ちるまで十日かかった。


「御屋形様、天守閣に土岐宰相の姿がございません」


 天主閣にいたのは光秀の鎧兜を付けた藤田行政だった。光秀は落城前に脱出したらしい。おそらくだが本拠地である近江坂本に向かったのだろう。


 光秀を逃がしたのは残念だが、これで毛利本軍と京の吉川軍が連絡した。この戦争の勝利はほぼ確立したといっていいだろう。


 いつの間にか年が明け、天正十三年になっていた。


 光秀が信長を討ったのが天正十年だから三日天下ならぬ三年天下だ。本来の歴史よりずっと長く天下人であり続けたことになる。光秀には何の慰めにもならないだろうが。

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