閑話 船岡山の合戦

 朝霧の谷を抜けた軍勢は平野を南下していく。左に上加茂神社、右には応仁の乱で焼けたままの正伝寺跡。田畑の中を南へと延びる路の先には土塀があり、その奥にはおびただしい町家が並んでいる。


「あれなるが上京でございまする」


 吉川元春にそう言ったのは逸見へんみ虎清だ。逸見氏は甲斐逸見荘を由来とする家で、武田家重臣の家柄だ。故武田信玄の宿老であった飯富虎昌はさかのぼれば同族である。若狭武田家においても、応仁の乱の頃から軍事力の中心として活躍した。


 虎清の父昌経も若狭武田家の宿老を務めたが、三好と結んで何度も主家に反抗した。若狭が織田領になった後はかつての主君武田元明と並んで丹羽長秀に仕えた。だが昌経の死後、逸見家の所領は丹羽と武田に分割され虎清は零落の身に追い込まれた。


 本能寺の変で若狭守護に復帰した武田元明に対して深い恨みを抱いていた虎清は、吉川軍が後瀬山を落とすと、いち早く参じた。山縣長茂から虎清の経歴を聞いた元春は旧領復帰を約束、京への案内を命じた。


 難路として知られる針畑越えを三日でなしたのは、吉川軍の精強さに加えて虎清の存在も大きかったのだ。


「土岐軍は船岡山に陣取っております」


 前方に出していた物見が戻ってきて告げた。元春は上京の前にある小さな山を見た。


 船岡山は京都盆地北部にぽつんとある小山だ。その立地から何度も大きな戦の舞台になっている。応仁の乱では西軍陣地が置かれ、その名残で西陣という呼び名が残っている。八十年前には大内義興と細川澄元の間で船岡山合戦が起こった。この戦いで細川澄元を破った大内義興は将軍以外では異例の公卿位と日明貿易の独占権を得、名実ともに西国一の大名となった。


「船岡山とは、かつて大伯父様が勝利なされた地」


 吉川元棟が言った。元棟の言う大伯父とは元就の兄である毛利興元のことだ。大内義興の上洛に従い、船岡山の戦いにも参加したことになっている。実際は船岡山の戦の前に毛利家と吉川家は無断帰国しているのだが。


 大事なのはこの小山を制したものは京を制するということだ。


「敵将と兵数は」

「はっ。旗印から大将は明智秀満。副将に伊勢貞興と見えまする。両軍合わせておおよそ七千余かと」

「明智の近江衆が六千、伊勢が千余りと言ったところであろうな」

「両人とも音に聞こえた土岐の重臣。慌てて駆け付けたようですが、それにしても……」


 少ないと、首をかしげる吉川元棟。


 明智秀満は光秀の従弟であり近江を預けられた宿老。伊勢貞興は土岐家の京都奉行の地位にある重臣だ。京まで出た吉川軍は孤軍だ。仮に伏兵でもあらば大変なことになる。だが元春は前進を止める様子がない。


「土岐宰相には守らねばならぬものが多いのだ」

「なるほど将軍御所に内裏、それに下京までもとなれば船岡山だけに兵を集められないと」


 それでも吉川軍は五千、海兵隊は五百。兵数的に不利だ。しかも時を置けば近江などの周辺国から後詰が駆けつけることは明白。


「児玉殿。京の町に仕掛けをしてもらいたい」


 元春は児玉就英を呼ぶと何かを耳打ちした。就英は百ほどの兵を分離させ東へと向かわせた。船岡山とは反対の方向だ。この状況で精鋭を割くことに元棟は再び驚く。




 京都のひざ元に剣戟の音が響く。船岡山前では吉川軍と明智軍の激戦が繰り広げられていた。


「裏口から都を狙う毛利賊。この明智秀満の槍の錆になるがよい」


 赤い鎧兜に身を固め、馬上で槍を振り回す明智秀満は火を噴く勢いで暴れまわる。明智隊に並んで進む伊勢貞興も名門伊勢家の主とは思えない果敢な指揮でそれを支えている。


 両将の息の合った攻勢に陸戦において毛利最強と言われる吉川軍も守勢に回っている。


「槍の穂先を崩すべからず。敵に勢いある時は、ただ受け止めればよい」


 船岡山に向かい合うように立つ大徳寺の山門前で、元春が落ち着いた声で下知する。元春の目には船岡山が急造陣地であることが見えている。明智勢は果敢に打って出たのではなく、そうするしかなかったのだと読み切っている。


 互いに精強な軍はがっつり組んだ。だがそうなると兵数に勝る土岐軍が有利だ。吉川軍の前衛がじりじりと下がり始めた。


「父上このままでは」

「今少し耐えよ。いずれ弱みは見える」


 元春は微動だにせず言った。


 土塀の内側から鉄砲の音が聞こえたのはその時だった。続いて上京の中ほどにある屋敷から火の手が上がった。西洞院大路に面し、内裏の門の一つを守るように立つ宰相屋敷だ。


 応仁の乱で焼けた京は上京と下京に分けて復興された。上京は内裏があり富裕層が住む、下京は商工業の町だ。上下の京を繋ぐのが室町通りで、二条将軍御所はその通りの上京側、内裏の南に隣接する。一方、光秀はその屋敷を内裏の西正面に置いた。


 公卿として朝廷の守護者であることを示したもので、管領屋敷ではなく宰相屋敷と呼ばれるのは京の人々が光秀の無言の意図を察しているからだ。そんな場所から火が上がったのだから土岐軍に動揺が走る。


「逸見殿の土産、役に立った模様」


 山縣長茂が言った。虎清が吉川に参じた時、将軍の命と称して若狭に乗り込んでいた武田信秋を差し出したのだ。武田元明に対抗して勢力を得ようとした信秋は、不満分子である虎清を味方につけようと接近していた。


 信秋は将軍足利義昭からの帰京を命じる書状を持っていた。東側から大原口に回り込んだ海兵隊は、それを用いて上京に潜入することに成功、宰相屋敷に近づき鉄砲で門を突破、火を放ったのだ。


 動揺した土岐勢に、吉川から「公方謀反」という言葉が放たれた。言葉戦い、流言飛語と変わらないのだが、京の内側で火が上がった状況では効果は大きい。明智、伊勢の勢いが目に見えて止まる。


「雑言なり。仮に公方が謀反しても、この秀満、毛利賊と共に手取りにしてくれるわ」


 明智秀満は吐き捨てるように言うと、槍を手に突進する。立ち直った明智軍が秀満を陣頭に吉川軍に押し掛ける。大将自らの奮闘に前面が突破され、元春からも敵兵が見える位置まで迫られる。


 元春の馬廻が主を守るために前に出ようとした。だが元春はそれを制すると、悠然と軍配を左に振った。


「敵の弱み見えたり。伊勢勢を崩すべし」


 下知に答えて山縣長茂隊が伊勢勢に向かって横やりを入れた。旧幕臣を多く抱える伊勢勢は動揺を抑えきれていなかった。伊勢貞興の下知を無視して崩れ始めた。


 一人、また一人と逃げ出す伊勢勢。明智軍の伸び切った横腹が露になった。そこに元棟率いる旗本衆が突撃を掛けたことで勝敗は決した。


 乱戦の中、伊勢貞興は討たれ、明智秀満はかろうじて残兵をまとめて伏見方面に撤退する。


 船岡山の頂に三つ引き両の旗が上り、吉川軍の勝鬨が京の町に向かって轟いた。

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