第二十七話 応手交錯
瀬戸内海に面した河口の城に大軍が迫るなか、将兵を乗せた小早船が懸命に櫓をこぎ沖へと逃れてくる。眼前の緊迫した光景に大将船の上に立つ小早川隆景は眉一つ動かさない。昼の海風を受け流すような静かな姿は、敗勢の将兵にとって頼もしい。
英賀での負け戦はこれで二度目、という忸怩たる内心を決して漏らさぬがゆえになのだが。
播磨有数の港である英賀は一向宗の町として知られる。七年前に毛利と織田が播磨をめぐり争っていた時も、英賀城主三木通秋は大坂本願寺に呼応する形で反織田陣営に属した。西播磨に勢力を扶植しつつあった毛利は、播磨中央部を押さえようと英賀に兵を送った。
狙いは御着城の小寺家だ。英賀に上陸した毛利軍五千の前に立ちはだかったのが小寺家家臣だった黒田孝高だ。孝高は上陸直後で体制が整わない毛利軍をわずか五百で急襲、さらに百姓に旗を持たせて大軍があると偽装した。
この奇略により毛利は英賀から撤退に追い込まれる。英賀上陸は隆景が乃美宗勝に命じたもので、隆景にとっては痛い敗戦だった。その後毛利は別所、小寺など播磨国衆を自陣営に組み込み、木津川口の海戦で織田家を一時圧倒するが、織田家に決定的な打撃を与えられないまま、宇喜多直家の裏切りによって追い込まれていく。
一方、名を上げたのは黒田孝高だ。小寺家は織田家を裏切ったが孝高は織田方にとどまり、羽柴秀吉に重用される。備中高松城が水攻めされた中での和睦交渉でもその知恵の鋭さに舌を巻いたことは一度や二度ではない。
そして今また毛利軍が英賀から撤退している。赤穂から急ぎ船団を急行させた隆景により撤退は何とか間に合いそうだが、不吉な前例をなぞったことで士気への影響は無視できない。
さらに重要なのは力攻めを敢行した敵の意図だ。
「義父上、土岐光秀はなぜ英賀が降るのを待たなかったのでしょうか」
「こは宰相の問いの一手なのだ」
年の離れた弟にして養嗣子である小早川元総の問いに隆景はそう答えた。小早川家の跡継ぎとして目の付け所は悪くない。あの甥が同じ年の時よりもずっと明晰だ。
「問いとは、如何なる……」
「姫路、英賀と手放すは如何なるわけありや、そういう問いよ」
隆景は土岐光秀の胸中を己がもののごとく開陳する。
元総の疑問は的を射ている。この英賀攻めは土岐光秀にとって無用の戦だ。英賀の町衆は土岐軍に禁制を求めた。即ち、土岐方に下ることを決めていたのだ。ちなみにこれは毛利の黙認の元である。つまり、あと数日待てば犠牲を払うことなく城を手に入れることが出来たのだ。
にもかかわらず光秀は大軍を英賀に送り込んだ。姫路をじっくりと付城で締め上げたのとまったく正反対の方策を光秀がとった理由は、いわば大物見である。
つまり、毛利の動きは罠かそれとも内憂ありか。英賀を攻めて毛利水軍の応答を見ることでそれを見極めようとしている。多少の兵を失ってもよいというわけだ。罠なら姫路を得て良しとする。毛利に弱みありなら、勢いに乗って踏み込む。
的確で冷徹な一手と言わざるを得ない。土岐宰相光秀、間違いなく名将である。もちろん隆景はそんな内心を示さないが。
動揺したのは若い跡継ぎだ。
「つまり此度のことで我が方の軍船の不足が宰相に漏れると」
「左様。それゆえにただ引くだけというわけにはいかぬ」
隆景は養嗣子の結論に満足した後、おもむろに軍配を上げた。船上で銅鑼がなる。
夢前川の枯れた芦原から一斉に歓声が上がった。伏兵として潜んでいた乃美宗勝の兵五百、槍の穂先をそろえて敵側面に押し寄せていく。一番乗りを目指し城門に直進していた中川勢二千の横腹をえぐる形だ。指揮官らしき馬上の武者が槍を振り回して兵に下知するも乱れは止まらない。
兵は勝ったと思った瞬間、命大事になるものだ。一方の乃美勢は七年前の雪辱に燃える。上陸直後の船酔いを突かれた以前とは異なり、今回は事前に潜んでいたため、万全である。
乃美勢の攻撃に中川勢がたまらず後退を始めた。先鋒が崩れたことで、土岐軍自体の攻撃が止まる。その間に乃美勢は河口から船に乗り込み撤収した。鮮やかな奇襲に毛利水軍がわく。
「さすがは乃美のおじい様」
母の一族である宗勝の武功を無邪気に喜ぶ元総。隆景は表情を緩めない。これで多少は糊塗できたであろう。だがそれでも撤退は撤退だ。光秀は毛利水軍が弱体であることは察したはずだ。室津や赤穂といった後方の港の様子も合わせて探ってくるだろう。
英賀が早く陥落したことで、京見山の陣地も厳しくなる。天下台への撤退は予定よりも早めざるを得ない。
光秀を引き出したはいいが、毛利がそのまま崩れる危機は間違いなく深まっているのだ。何しろ光秀の読み通り、瀬戸内の毛利水軍は山陰への助勢のため弱体化しているのだ。
とはいえそれがまた罠、とまでは如何に光秀でも読めないだろう。若狭から京を突くという元春の策は隆景にとってと同様に、光秀にとっても理外の戦だ。
そう考えれば帳尻は合ったか。隆景が珍しく自分を慰めるようなことを考えた時だった。撤収の指揮を執っていた井上春忠が険しい顔で近づいてくる。
「殿、引いてきた諸将に赤松広秀がおりません。桂殿の言うには、昨日京見山に向かうといって城を出たと」
「そうか」
よりによって赤松の離反。光秀の次の一手が隆景の脳裏に瞬時に浮かぶ。天下台での戦はより厳しいものになる。
兄はどこまで進んだか、京を一気に突く勢いでなければ間に合わない情勢だ。もし出来ないなら吉川軍は捨て殺しにするしかない。
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