第二十四話 毛利の勇略

 天正十二年九月。伯耆国八橋城。


 伯耆は現代の鳥取県の西半分に当たる国だ。その東部、日本海を望む平地に八橋やばせ城は立っている。尼子氏の頃から東伯耆の要衝として知られ、かつての秀吉の鳥取城攻めの最中にも毛利を裏切った南条氏との攻防の舞台となっている。


 そして今、八橋城は山陰方面軍の司令本部である。城の前の浜には多くの船がつけられ、出雲から運ばれてきた兵糧を下ろしている。まさに出撃準備の真っ最中という様子だ。


 私は吉川軍の様子に、安堵と疑問を感じながら城門をくぐった。


 …………


「ここから先は御屋形様のみにて、との父の意でございます」


 八橋城本丸にある城主居館の最奥の板戸の前、三十前の顔色の悪い男が私に言った。吉川元棟、元春の次男だ。本来の歴史では繁沢元氏として知られ、その子孫は長州藩の家老阿川毛利家として続く。次男でありながら長男元長の死後に家督を継がなかったのは、この通り病弱だからだ。


 私の知る限りでもだいたいこういう青い顔をしている。まあ本来の歴史では広家や私より長生きするんだけど。


「赤穂に向かう御屋形様の道を変えさせたにもかかわらず城門に出迎えもせず。その上人払いとは。いかにご宿老とて通りませぬぞ」


 隣で佐世元嘉が声を荒げた。口調は傲慢な側近そのものなのだが、彼の言い分は正当なものである。叔父であり国家の重鎮とはいえ当主に対する態度ではない。


「元嘉よい。駿河守にはよほどの存念あってのことでしょう」


 だが私は元嘉を押さえた。


 今はそのようなことを気にしている場合ではない。元春にその余裕がないのでこうなっているのではないかというのが私の最大の懸念だ。山陰の最前線、鳥取城が土岐の大軍の攻勢を受けている状況で元春が伯耆にとどまっているその理由。


 史実では吉川元春は天正十四年、秀吉の九州攻めで陣没する。歴史通りなら後二年寿命があることになる。だが本来の歴史ならすでに隠居している。九州攻めでの陣没が無理を押した結果と言われていることを考えてもすでに体調を崩していてもおかしくない。


 今元春を失えば、山陰方面軍全体に動揺が広がり、この戦争の敗北にも直結しかねない。鳥取だけでなく姫路城も土岐の圧倒的な物量戦に押されているのだ。


 私が部屋に入ると、億劫そうに脇息に手を掛けて座っている白い夜着の男が見えた。体を起こしていることに少しだけ安心する。だが今年の年賀で見た時よりも一回り小さくなっている。顔色も病弱な元棟じなんよりも悪い。背後に置かれた堂々たる鎧兜がむしろ痛々しいくらいだ。


「叔父上はかねてより隠居のことを言っておられました。此度のことは元長への家督継承のお話でしょうか」


 顔を上げた元春に私はそう切り出した。毛利当主が直接家督継承を承認することで、当主交代の混乱を最小限にするのが目的だと思ったのだ。


 だが元春は何を言っているのだ、という顔で私を見ると無言で絵図を広げた。


「土岐との戦。我に存念あり。御屋形様には出陣の許しと、この戦のためにお借りしたいものあり」


 元春の眼光が鋭くなり、やせた体に歴戦の猛将の迫力が宿る。私は思わず息をのみ、次の言葉を待った。


「すなわち、我が軍勢六千を向けるはこの地」


 元春が指さした場所を見て私は目を疑った。因幡からでも丹後、丹波を越えた日本海側の国、現代で言えば福井県西部にある若狭国なのだ。


 愕然とした。まだ気力が残っているように見えたが、まともに物を考えられないほどに衰弱しているのだ。そうでなければ吉川元春ともあろう名将が中入りなんて言い出すはずがない。


「叔父上、戦のことは元長に任せ、まずは養生に――」

「聞け。若狭こそ土岐の最大の弱み、その腸である」


 元春は私の制止を無視して言葉をつづける。こんな頭ごなしに怒鳴られたのは元就そふが生きていた時以来だ。


 病人を刺激しないために私はやむなく絵図を見る。


 若狭国は日本海側、京のある山城国の真上にある。若狭から京へは古くから海産物の流通があり、若狭最大の港である小浜からは鯖街道と呼ばれる街道が通っている。この鯖街道は近江の北国街道へもつながっている。


「……確かに土岐光秀の急所を両睨みですね」


 若狭は京と近江の裏側、いや裏口である。もしここを押さえれば土岐光秀の死命を制することすら可能かもしれない。だが実現可能性はないと言わざるを得ない。


「若狭守護武田元明は光秀に深く同心していると聞きますが……」


 私は恐る恐るそう言った。


 元明は代々若狭守護を務めた若狭武田家の嫡流だが、戦国の混乱の中でその力を失った。幼くして家督を継いだ後、隣国の朝倉氏により越前に抑留されていたのだ。朝倉氏が信長により滅んだことでようやく若狭にもどるも、若狭は丹羽長秀の領地となっていた。元明はかつての家臣と同列で、丹羽長秀与力に置かれた。


 それが不満だったのだろう。本能寺が起こるや元明はいち早く光秀に通じ、若狭守護としての地位を取り戻したのだ。今も自ら兵を率いて鳥取城攻めに参陣している。つまり光秀のおかげでかつての地位を取り戻した旧守護家という位置づけだ。


「武田元明の若狭支配は極めて脆弱であること山縣源右衛門の調べにて明らかなのだ」


 元春は山縣長茂の名前を出した。長茂は鳥取城の戦いで吉川経家に付き従い、その最後を後世に伝えた人物だ。だが今重要なのは山縣一門である方だ。山縣氏は安芸武田家の旧臣なのだ。


 毛利が安芸武田家を滅ぼした後、山縣一門の多くが毛利に属している。淡路岩屋にいる海兵隊の指揮官も山縣一族だ。武田旧臣を旧領から引き離す元就そふの意向もあって、吉川家に移ったものも多い。長茂もその一人だ。


 さて例によって極めてややこしいのだが、若狭武田氏は安芸武田氏から出た。安芸武田家の信栄が足利義教ばんにんきょうふにより若狭守護に任じられたのが始まりだ。安芸武田家は安芸の分郡守護に過ぎないので、若狭一国の守護になるのは栄達だ。しかも若狭は京に近い要地。


 信栄は安芸を一門に任せて、家臣をつれて若狭に移った。その中には山縣一族もいる。つまり山縣長茂は若狭武田家の山縣氏と同族である。これは数か国の守護を得た家にはよくある話だ。ちなみに甲斐武田家にも山縣氏はいて、さらに武田四天王の山縣昌景は安芸山縣氏の出身で甲斐に渡ったという説があるくらいだ。


 山縣長茂が一族の伝手を用いて若狭を調べた結果、守護に復帰した武田元明と旧臣の関係が極めて悪いことを突き止めたのだ。


 元明はずっと越前に留め置かれており、しかも若狭にもどった後は旧臣たちと同列に置かれていた、本能寺から二年で纏められるものじゃない。いや、守護の返り咲きなんてそもそも時代錯誤なのだ。


 しかも武田信秋が将軍足利義昭の命で若狭に下向したらしい。武田信秋は安芸武田家当主だった信実の子で、この信実は若狭武田家から安芸武田家に養子に入った。つまり安芸武田氏から出た若狭武田氏から安芸武田氏への養子だ。


 義昭が鞆まで付き従った忠臣信実の子である信秋を送り込んだことになる。言うまでもなく若狭での自分の影響力拡大のためだ。ちなみに足利義教が安芸武田氏の信栄に若狭守護を与えたのは、若狭も含めて三ヶ国の守護職を持っていた一色氏の力を弱めるためである。


 室町将軍はこんなことばかりやっているのだ。だから義教は暗殺されたし義昭は追放された。


「若狭のことは分かりました。ですが……」


 京と近江の裏口ともいえる若狭が一突きすれば大混乱になる。やっと理解できた。ただそれでも但馬丹後を越えて若狭を突くのはさすがに無茶が過ぎる。それを指摘しようとしたが、元春は私を制して次の絵図を出した。


「武田元明の居城は小浜港から指呼にある。御屋形様のあの兵、海兵隊を先鋒としてお借りしたい」


 若狭の後瀬山城は小浜港から一町、つまり百メートルの距離にある低い山城だ。まるで海兵隊に攻撃してくれと言わんばかりの立地だ。


 海から武田元明の居城を一気に制圧。海兵隊と吉川軍の合同なら戦術的には不可能ではない、いやおそらくやれる。


「小浜港と後瀬山城を手にしたとします。どうやって軍を維持するのですか」


 戦術的に短期間で若狭の中心を押さえたとする。だが維持は困難だ。第二次世界大戦で真珠湾奇襲攻撃後にハワイを占領しそれを維持するようなものだ。


「先年の鳥取城では若狭より兵糧買い付けに来た商人にしてやられた。それをひっくり返すのみ。瀬戸内の毛利水軍を山陰に廻航すれば可能である」

「丹後細川家には丹後水軍が……」

「すでに隠岐の奈佐水軍より若狭への案内の約束を取り付けている」


 元春が書状を出した。鳥取城の戦いで吉川経家と共に自刃した奈佐日本助の子からの起請文だ。海兵隊を先鋒としての吉川軍の若狭強襲上陸。続いて毛利水軍による海上補給路の確保。


 今の毛利の国力は三百万石。瀬戸内海だけでなく山陰の水軍も旗下にある。しかも最初に確保する小浜は日本海の天然の良港。吉川軍と海兵隊合わせて七千を維持することは…………あれ? もしかして不可能ではない。


 まさか、成り立つのかこの作戦。


「しかしあまりにも賭け」

「鳥取姫路の土岐攻勢に耐えていれば勝てるのか。毛利は天下を取るのではなかったのか」


 その言葉に私は詰まった。伊予で長宗我部に勝ち、豊前で大友に勝ったが、この戦争は土岐を破らなければ終わらないのだ。内線作戦+機動軍というのは基本的には守りの戦だ。しかも私はその戦略を光秀に崩され、つい先日までその糊塗におわれていた。


「御屋形様。この元春に畿内てんかの戦をお任せいただきたい」


 吉川元春が両手の拳を床についた。この部屋に入ってから初めての元春の家臣らしい態度といえる。だが主である私は猛将の戦意に完全に飲まれた。

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