閑話 尼崎軍議

 天正十二年九月。摂津国尼崎城。


 尼崎城はかつて大物だいもつ城と呼ばれていた。管領細川高国が同族である細川晴元に敗れ自刃させられた地だ。勝者となった晴元の軍事力を担ったのは三好元長。だが元長はその後主君晴元の策謀により死に追いやられた。そして晴元は元長の子三好長慶によってその地位を追われることになる。


 管領細川家が衰退し、三好家が畿内を牛耳る下克上だ。だが畿内を支配した三好も足利義昭を奉じた織田信長により打倒された。晴れて将軍となった義昭も信長に追放され、そしてその信長も……。


「姫路城の付城は五つまで出来しゅったい。これにて山側における毛利勢の動きは封ることに成功」

「鳥取城の城門への坑道は城方により潰されました。されど同時に掘り進めた第二道で城壁の一角を崩落させました。城方は二ノ丸へと引き下がり……」


 尼崎城本丸では土岐軍の軍議が行われていた。上座に向かって広げられた大絵図には水色桔梗ときと朱一文字三星もうりの駒が並ぶ。畿内から押し出した土岐の水色駒は、じわじわと朱の毛利駒を圧していく。


 絵図の左右に座るのは宿老である三沢茂朝と明智光忠の両人。両人はそれぞれ担当する播磨と因幡の報告をまとめた後、主君の表情を窺った。


 土岐光秀は折り目正しく結んだ白髪の髪の毛一本揺らさず、沈思黙考している。


 山陰山陽の戦局はおおむね光秀の予想通りに進んでいた。羽柴秀吉が毛利攻めにて用いた戦手立てを、畿内の財力と鉄砲を用いて実現する、これが光秀の基本戦略だ。


 やれば良いとわかっていることを着実に進めていくは容易。


 むろん瀬戸内海を制した毛利の力は秀吉の中国攻め時より強力。東播磨に属する明石城の対岸にある淡路岩屋城一つ落とせない。小早川隆景は姫路の穂井田元清、讃岐の乃美宗勝を手足のごとく使い、水軍を縦横に動かし、土岐軍の圧力に抗する。


 山陽道を兵力差で押そうとしても海から邪魔されては進軍を維持できない。光秀の戦略は大量の物を運ぶことを要求する。いかに陣夫を動員しようと船の力がなければ先細りになる。


 山陰も侮りがたい。吉川元春が根を生やしたように伯耆にとどまっている。風聞によれば元春は病とのこと。だが大将が病なら兵に必ずや動揺が伝わる。山陰の毛利軍を見るに、この風聞は信じるべきではない。


 もし因幡での三男の苦境を前に、元春が光秀の一手に備えて力を蓄えているのなら、それは忍耐を兼ね備えた猛将である。一手の大将としての力量は決して油断できぬ。


 毛利両川は確かに音に聞こえるだけのもの。だが今の世の戦は名将がいれば勝てるものではない。いや信長がそういう戦を始めたのだ。その戦の体現者であったのが秀吉、その秀吉の戦を光秀はより優れた形で行っている。


 信長の気まぐれのような命で東は甲斐から西は播磨まで駆けずりまわる、あるいは信長と義昭という二君の決してかみ合わぬ関係を修繕し続ける、それに比べればこの戦など理非が明らかなこと。


 織田信長は巷間で語られるように奇をてらうでも、人をないがしろにするでもない人間だった。伝統を重視し、外聞を極めて気にし、人の心を慮ろうとする人間だった。


 ただどこかずれていた。信長が外聞を気にし、他者を慮るつもりで行った行動の一つ一つが浅井長政を、荒木村重を、足利義昭を、そして光秀を激怒させるのである。


「宰相様」

「中国筋は手立てのまま。されど鎮西は遅滞」


 茂朝、光忠の視線に気が付き、光秀は短く言った。本来なら藤田行政が幹事として軍議をまとめるのだが、今は天王山城に置いている。


「土佐の若武者め。最初の勢いはよかったものの」

「問題はむしろ豊後大友。門司を囲むだけの意気地なさが時を逃した」


 茂朝が顔をしかめ吐き捨てるように言う、光忠がため息をついた。それを聞いた下座の若い武将が、膝を一歩進めた。


「確かに長宗我部、大友ともに毛利に後れを取っております。しかし佐賀関と佐田岬の両半島は大友水軍と土佐水軍により維持されております」


 落ち着いた声で現状を説明したのが高山右近。摂津商人やキリシタンの伝手を使って西方からの取次をまとめている。宿老相手にもひるまず、かといって我を張ることもない。光秀は右近を評価しており、いずれはより高い地位に引き上げることを考えている。


 西方情勢は予想外だ。広島を窺う勢いだった長宗我部信親。島津と龍造寺から解放され全力を毛利に向けられるようになった大友。当初は予定通り、いや想定以上に有利な状況が生じたのだ。


 だが逃げるように安芸にもどった毛利輝元は、長宗我部と大友を立て続けに破った。右近の言う通り長宗我部は伊予大洲城を保持、大友も門司城の包囲は続けているが、毛利の戦力を東西二分するだけの力はもはや期待できなくなっている。


 そして光秀の方も東海に油断ならぬ動きがある。今や五か国を制した徳川家康が関東の北条氏と和睦、婚姻関係を結んだのだ。さらに家康の叔父である水野忠重が旧領回復と称して尾張知多半島に手を伸ばしている。


 戦の全体を俯瞰すると、毛利輝元が播磨にもどってくる前に中国において優位を確立しておかなければらない。そのための一手は用意している。


 光秀は右近の向かいに座る男に目を向けた。


「某いまだ宰相様に忠義を示す機を得ず。いや実は妻に京土産の一つも買わねばならぬのだが、武功もなく大枚はたくもできず困っており申す」


 視線に気が付いた四十半ばの武将がおどけるように言った。槍の又左と呼ばれた荒武者が算盤をはじく仕草で場を笑わせる。


 柴田勝家を裏切った褒賞として能登守護とした前田利家。能登一国と加賀の半分を領する、大身外様と言うべき位置だ。一見人懐っこいが、その柔和な顔が時折能面のようになることを光秀は知っていた。


「能州殿には因幡を突いていただく」


 光秀の染みの浮いた腕が大絵図に向かう。播磨三木城の水色駒が因幡市場城に移される。市場城は鳥取城の南にあり、羽柴秀長が緒戦に奪った城だ。


「ご下知とあらば是非もなし。しかるに槍を振るうにはいささか狭地ですな」

「むろん陽動。途中から早野わさのへ進んでもらう」


 光秀の指が水色桔梗の駒を西へ動かす。


「なるほど。伯耆に向かい因幡の背後を断つもよし、美作に向かうもよし。まさに要路」


 利家は瞬時に光秀の意図を察した。


 毛利水軍がその力を発揮する瀬戸内海に面する山陽から山陰に攻めの重心を転ずるのはかつてより考えていた策だ。羽柴秀長に鳥取城の南の市場城を押さえさせたのはこの布石である。


「しかるに西播磨は毛利の領域。中入りが過ぎぬかと」

「我が本陣を三木城まで進める」


 光忠の懸念に、光秀は尼崎にあった己が桔梗駒を西進させることで答えた。


「なるほど。山陰の攻め手を厚くするなら、三木城は要の位置」

「何より宰相様播磨入りとなれば、毛利は因幡どころではなくなりますな」


 茂朝、光忠、利家が感嘆の声を上げる。土岐主力が山陽、つまり播磨である以上は小早川隆景も毛利輝元も播磨に注力せざるを得ない。仮に吉川元春が対処しようとしても押し切れる。


 そして美作に回り込めば、毛利の戦型を崩したも同然。光秀がそう思った時、突然板戸が開いた。


「宰相様。急ぎご注進したき儀が出来いたしました」


 藤田行政が入ってきた。天王山において京を押さえさせていた宿老は一通の書状を光秀に差し出した。伊勢貞興からのものだ。京の義昭のそばに置いていた重臣である。書状を読んだ光秀の表情が曇った。


「武田信秋が若狭にと……」


 光秀から書状を渡された光忠が苦々しい顔になる。


 武田信秋は鞆まで義昭に従った武田信実の子だ。父の信実は若狭守護武田家より安芸武田家に養子に入った者。即ちその子信秋も若狭武田家の血縁ということになる。


 一方、若狭武田家の現当主である元明は本能寺後にいち早く土岐家に与した。今も光忠の与力として因幡へ出兵している。つまり信秋は当主不在の若狭に向かったのだ。それも義昭の命と称してという。騒乱の種になりかねない所業だ。


 信秋だけならさしたることはない、若狭武田の血を引くとはいえ既に二代を経ていてその影響力などもはやない。


 だが書状には続いて京で比叡山残党と一向宗が諍いを起こしたことが記されていた。叡山復興は義昭の肝いりだ。光秀の居城である近江坂本城を掣肘する行為。光秀はそれに対して本願寺に力を貸している。


 二つの宗門の均衡にて問題に対処したのだ。むろん方便、西国が落ち着けば落としどころを探るつもりだった。だが、まさに戦の煮詰まるこの時に衝突とは。


 守護家の内紛や寺社の対立を煽ることで、存在を高めようとしている義昭の意図は明らかだ。あるいは背後から毛利に手を貸し、土岐と毛利を己が手で和睦などという夢想を描いているか。


 なるほど、この機にとはなかなか計る。かつては武田信玄の西上に呼応して失敗したが、鞆への流浪の経験により多少は才を磨いたか。


「申し訳ございませぬ。ここは……」

「一度京にもどらねばならぬ」


 光秀は冷静に答えた。かような苦労はかつての右府も経験した事。これしきの事で狼狽できない。


  恐縮する行政、茂朝と光忠が「あと一歩と言うときに」「あの悪公方め」と悔しがる。そんな三人を見て光秀はふと考えた。


  右府様には羽柴、柴田、滝川そして我がいたのに比べ……。






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2024年7月4日:

ここまで読んでいただきありがとうございます。

所用にて、すこし投稿をお休みさせてください。

次の投稿は来週土曜日の予定です。

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