第十九話 対大友軍議
天正十二年七月。長門国櫛崎城。
伊予で長宗我部信親を何とか退けてから四日、私は長門国の櫛崎城に入った。櫛崎城は長門の旧国府である長府にあり、関門海峡の東口を望む位置にある。ちなみに長門国の南端にある彦島は同様に関門海峡の西口を望む位置にある。
つまり長府、門司、彦島を保持すれば日本屈指の海の要衝である関門海峡を支配できる。だが今その要の位置にある門司城が大友の大軍に陸海で包囲されている。
門司城の包囲を解き、長府と彦島との海峡をまたいだ三角形の連絡線を回復する。これにより関門海峡は毛利の支配下にもどり、関門海峡が防御線として十全に機能するようになる。
門司城の解囲による対大友防衛線の回復、その重要な目的のために私はこの戦線の主要諸将を集めて軍議を開いた。
「そもそも内藤殿ら周防の衆が今少し早く駆け付ければ」
「門司城の守りは清水家の責であろう」
私の前で二人の若い武将が互いを非難している。二十二歳の清水宗之は宗治の長男。門司城に入っている父宗治の代理として櫛崎に残っている。
一方の内藤元盛は十八歳。私の母の実家内藤家の跡継ぎだ。ちなみに宍戸からの養子で、宍戸元続の弟だ。実家と養家がともに毛利と血縁関係があり、しかも内藤家は大内時代の長門守護代という名門。まさにサラブレットだ。
本来の歴史を知っている身としては実に冷や冷やする。
この元盛は佐野道可と名乗って大坂夏の陣で大坂城に入るという大チョンボをやらかしているのだ。これを佐野道可事件という。関ヶ原後に何とか二か国に落ち着いた毛利家を揺るがした大事件である。
まあ関ヶ原後に二か国に押し込められた私が、万が一を狙っての密命だったと言われているけど。つまりチョンボをかましたのは例によって私で、元盛はトカゲのしっぽきりされたのだ。その後の措置も含めて、私の胸くそエピソードの一つである。
ただ元盛がこの命令を断れなかったのは私から借金をしていたからという話がある。そして調べたところ、この若さですでに領内の商人から借財があるらしいことが分かっている。それも博打でこしらえたという。
戦国武将なんて人生そのものが命を張った博打なのに、なんで余暇にまで博打をするのか……。
それはともかくまだ家督を継いでいないのに、養父内藤隆春を差し置いてこの発言、毛利家の血縁を盾にして内藤家でもいろいろやってそうだ。
内藤家に話を戻すと、長門守護代だった嫡流は大内家に殉じて滅び、毛利に服属した内藤隆春の家が宗家となった。今の内藤家は周防に所領を持っていて、周防衆の代表みたいな位置にある。ぶっちゃけた話、長門で大内時代譲りの力を振るわせるわけにはいかないから、となりの周防に移してるわけだが。
宗之にしてみれば海の向こうで父を初め一族家臣が大軍に囲まれているのであり、元盛にしてみれば周防から駆け付けてやっているということになる。それにさらに長門vs周防、新参vs古参みたいな要素が絡んでいるのがまたややこしい。
本来なら長門と周防で力を合わせなければならない両者には、こう言ったとても込み入ったバックグラウンドがあるのだ。そしてそれは毛利本家が家臣を統制するための体制でもある。
つまりこれにいちいち腹を立てていては国家元首など務まらないということだ。
「御屋形様の御前ですぞ。ご両人ともそこまでになされては」
佐世元嘉の言葉でやっと二人は言い争いをやめた。ちなみに両人とも「この腰巾着が」という感情を佐世元嘉に向けている。……いやほんと、組織とはこういうものである。
「まず門司城の戦況について、説明してください」
私はいろいろな物を飲み込んで本題を開始した。
「大友水軍の主力は若林鎮興の率いる佐賀関の海賊。これは勝手知ったる相手ござるな。ただ此度はそのほかに黒船が三艘あり。これがなかなか難儀でござる」
発言したのは児玉就方だ。この方面の毛利水軍の長で本家奉行職、就英の父親でもある。もう七十を超えている老将だが、私の記憶では死の前年まで水軍武将として戦っていた。
「黒船と言うと河野水軍との戦いで大砲を用いたという船ですか」
「左様ですな。この黒船は周りに数層の関船を従えており。三郎兵衛尉殿」
就方はとなりの三角髭の男に話を譲った。村上三郎兵衛尉景親、能島村上武吉の次男で彦島の村上水軍を統括する。戦国武将には珍しく、必要なこと以外しゃべらない寡黙な男だ。
「来島通総の関船に見えました」
「それは稀有な組み合わせですね……」
大友水軍本体とは別に、大砲付き黒船という戦艦と来島村上の関船という巡洋艦で構成された特別艦隊がいるわけだ。就方、景親の両人の話を聞くとこの特別艦隊が海峡の狭さを利用して暴れることで、門司城に近づけなくなっているようだ。
特に関門海峡の最狭部である壇ノ浦を押さえられると、長府の就方と彦島の景親の水軍が分断される。
ちなみに黒船とは鉄を張った船ではなく、南蛮船のことを言う。竜骨を持った外洋航行能力を持つ船だ。しかも両舷に二門づつの大砲を持っている。
この時代の大砲なんて当たらない。木造帆船時代の戦列艦は百門以上の大砲を備えている艦も珍しくなかった。それだけ数がないとまともに当たらないということだ。
ただし関門海峡の狭さを考えると大砲は脅威だ。特に関船や安宅船と言った大型船は的になる可能性がある。また西洋船はラムアタック戦術がある。和船は竜骨がないので衝撃に弱く、ぶつかられると脆い。
しかも練達の来島通総が側面を守っている。門司城の海上封鎖を解く上で、もっとも注意せねばならない戦力かもしれない。要対策だな、私は頭の中にメモをした。
「では次に豊前は」
「はっ。父からの知らせによれば。門司城の向かいの東明寺城に田原紹忍が前衛大将、東には城井など豊前衆、西には立花の筑前衆。大友義統本陣はこれら三軍の後方に陣取っております」
答えたのは清水宗之だ。
西から筑前衆一万余、田原紹忍の五千、そして豊前衆が五千、さらに本陣に大友義統の五千。門司城からの知らせだけあって実に詳細だ。二万五千で蟻のはい出る隙間もない包囲だとわかる。緒戦で大友軍を悩ました海兵隊の渡海襲撃も、これだけびっしりと囲まれると手を出せなくなっている。
なるほど、陸海の状況はよくわかった。
……これ門司城の解囲って至難の業じゃないか。私が連れてきた九千に周防長門の二国の軍勢を合わせても二万ちょっと、門司城守兵と合わせて数的にはやっと互角だ。西の
四国では倍の戦力で負けかけたのが私だ。
関門海峡の制海権が取れてない状況で、立花道雪が最大兵力を持っている敵地に上陸なんてできるわけがない。海兵隊も一度やられているくらいだ。
しかし少しでも早く対大友の防衛を立て直さないと、主戦場である播磨が危うくなる。
で、私が分かっているようなことはここにいる歴戦の将たちは承知なので誰も何も言わない。気まずい沈黙が覆う。
「この小倉の地に軍を上げるはいかがか。敵の急所ですぞ」
それを破ったのは若い声。内藤元盛だ。その指は門司の南西にある小倉を指している。
私は思わずおっと思った。
小倉は位置的には彦島の南で門司城のある企救半島の首根っこだ。大軍を展開できる広さがあり、しかも四方に道が通じている。
彦島の村上景親の水軍を使ってここに軍を展開すれば大友軍は企救半島に閉じ込められた形になる。まさに首根っこ。そう言えば幕末の長州征伐でも長州軍はこの小倉を狙ったような……。
「小倉には立花道雪の嫡男宗茂が陣取っております。まだ二十歳に満たぬ若輩ながら多くの武勲を上げたなかなかの武者との評判」
児玉就英が苦々しげに言った。海兵隊が道雪相手に大組頭を失う損害を受けたのはここだという。道雪はその後東進して門司城東の現位置に進んだが、陣地はそのまま嫡男宗茂が守っているという。
「なるほど、筑前守護代の嫡男が置かれるとなれば守りは硬いでしょうね」
危ない、思わず賛成しそうになった。今この戦に負けかけたんじゃないか。
なかなかの武者なんてとんでもない。立花宗茂は将来の西国無双だ。絶対に手を出せない。っていうか、私が目を付けるのが分かっているように宗茂を小倉に置いている道雪が手ごわすぎる。
っていうか私と元盛の意見が一致する作戦なんて危なすぎるだろ。元盛のやつ、もしかして本来の歴史でもやる気満々で大坂城入りしたんじゃないだろうな。
「ここまで海と陸を固められてた上は敵の綻びを待つしかないかと。幸いというか大友も兵糧攻めの構え、門司城が一朝一夕ということはございませぬ」
諸将の沈黙の後、就英が言った。
「分かりました。戦奉行の言どおり、しばらくは敵情を探ります。皆も油断なく大友の動きに備えてください」
なんとも閉まらない形で軍議を終えた。だが仕方ない。まさか元盛のギャンブルに乗るわけにはいかない。
戦争は双方の事情が絡み合っている。自軍だけ見れば切実な事情があってこうするしかないと思っても、実は相手も切実だったりする。圧倒的な戦力差でもない限りにらみ合いが普通だ。その中で致命的なミスを犯した方が負ける。
九州のキリシタンネットワークの調査結果も確認しないといけない。
私は鎮守府のメンバーに残るように告げて、軍議を閉じた。
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