第十六話 伊予高木の戦い Ⅰ

天正十二年六月。伊予国堀江ヶ浜。


 砂浜に小早船が乗り上げるようにして止まった。私は波打ち際に降りる。足袋に海水がしみ込む感触よりも、地面に足が付く安心が勝る。当世具足は大鎧よりも軽いとはいえ海に落ちたらひとたまりもない。


 かつて厳島の戦いで毛利軍は風雨を冒して厳島上陸を成功させたというが、あの時は祖父と父、そして両川がそろって海を渡ったという。内海とはいえ今思うとなんと無謀なことを。


 浜に上がって振り返ると、瀬戸内海には関船が浮かび、浜まで幾艘もの小舟が行き来している。毛利軍一万の上陸作業は未だ半ばだ。三津浜のように大きな港ではないため、小舟で上陸作業をしなければならない。大軍になればなるほどこういったコストは軍隊行動を大きく制約する。


 第二次世界大戦で連合軍の反撃が始まった時、ドイツ軍は港湾施設を徹底的に破壊してから撤退したという事実はその証明だ。


 私が上陸したのは伊予国の堀江ヶ浜。道後平野の北端で、広島から海路六十キロ。呉からなら四十キロだ。攻略目標である港山城は南南西に四キロ、低い山一つ越えたところにある。


 ダイレクトに港山城を攻めないのは理由がある。対岸の大友水軍と港山の土佐水軍の挟み撃ちを警戒することが一つ。事前の偵察で港山城の守りが固いことが予想されるのが一つだ。物見の知らせでは城壁から多数の銃身が突き出しているという。白地城で散々苦しめられた狭間筒だろう。海という天然の水堀を擁する港山城では狭間筒の射程は白地以上に脅威になる。


 だが最大の理由は、ここに上陸されるのが長宗我部軍にとって一番いやだろうからだ。この堀江ヶ浜から道後平野の中央に向かって長方形の平地が通じている。左右は低い山だが最狭部でも一キロ半あり、大軍を進軍させるだけの広さだ。


 ここから平地を四キロ南下すると港山城と湯築城の中間である長戸に出ることが出来るのだ。


 長戸から東に進めば長宗我部軍が攻撃中の湯築城、西に進めば長宗我部の兵站拠点である港山城。つまり長戸に達すれば長宗我部軍を分断できる位置となる。いわゆる王手飛車取りだ。


 自軍にとって可能な中で、相手の一番いやな場所に駒を打つ。これが戦の基本だ。もちろん相手は私の打ち手に対応してくる。


 それを確認するために、私は上陸した諸将を集めて軍議を開いた。


 浜から少し離れた古寺に幔幕が張られる。集まったのは安芸、石見の諸将だ。


「御屋形様。長宗我部軍は五千、高木に陣を敷いております」


 宍戸元続が長宗我部軍の最新の動きを知らせる。四国担当の重臣である若き宍戸の新当主。今回も先陣を任せることになる。


 高木はこの堀江ヶ浜と毛利軍の短期的な進出目標である長戸の中間だ。


「五千ということは湯築城には抑えだけですね。港山城の守兵は」

「香川殿からの知らせでは旗指物の数から千ほどと。狭間から長い銃身が確認できております」


 長宗我部信親が伊予に入れた兵は一万。南伊予丸串の抑えや、占領した大洲の守りは西園寺と宇都宮の旧臣を当てているようだが、監督するために相応の兵がいる。これら後方確保に二千を当てたとして、残り八千。港山城の守りと湯築城の押さえに千、二千を当てれば残りは五千。


「長宗我部信親は決戦を選択した様でございますな」


 熊谷元直が言った。毛利軍の宿将とも言うべき熊谷信直は老齢でしかも先の戦で足に傷を負ったので、今回は最初から元直が熊谷軍を率いている。宍戸、熊谷という安芸衆主力が共に若い当主を頂くことは不安材料だが、いつまでも隠居組に頼るわけにはいかない。


 先ほど名前が出た川ノ内警固衆の香川、石見国衆の益田など歴戦の将もいるから、そこら辺は大丈夫だろう。それに万が一に備えて彼らも呼び寄せた。


 長宗我部軍が毛利軍に分断されることを避けるためには二つの手がある。一つは全軍で港山城に籠城することだ。一番の安全策だが、湯築城まで河野通直を追い込んだこれまでの軍事行動の意味が消失する。


 それが嫌なら南進する毛利軍を待ち構えて決戦を挑むしかない。高木はここから南へ抜ける平野の最狭部とはいえ幅は一キロ半ある。正面決戦が可能な地形だ。つまり毛利の兵力的優位が生きる戦場だ。


 つまり長宗我部の軍事行動は毛利に強いられたものだ。というか、そうするためにわざわざ堀江ヶ浜に上陸したのだ。毛利としては長宗我部軍の引き出しに成功した形だ。


 もちろん敵の鋭鋒にぶつかるのは如何に倍の兵力でも危険がある。平地と言ってもそのほとんどが田だからだ。本来の歴史の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討たれたのは、田にはまってのことという話もあった。


 だがこの配置がベストだ。港山城に籠られたら攻略にどれだけの時間がかかるかわからないし、それに河野軍が長宗我部の抑えを突破すれば勝ちが決定する。


「大友軍が伊予に上陸したという知らせはありませんね」

「ございません。港山には土佐水軍のみ」

「分かりました。軍を和気までゆっくりと南下させます。水軍衆は海から港山城を威圧してください」


 一キロ南下したところで、横に長く広がる長宗我部軍が見えた。西の海と東の湯築から狼煙が上がった。港山城沖に毛利水軍が到達。そして河野軍が湯築城の抑えの軍と交戦を開始した合図だ。


 長宗我部本軍は横陣を敷いている。微かな違和感。東西の状況を考えれば短期決戦を志向するはずだが……。


 …………


 毛利が足を止めて一刻が立った。両軍は五百メートルほどの距離を保ったまま互いに睨み合っている。双方鉄砲の一発も討っていない。確かに珍しいことではない。戦国時代の戦ではそんな簡単に決戦など起こらない。


 有名な川中島でも、計五回にわたる対陣で戦闘が発生したのは二回だけ。決戦と言える規模の戦いは第四次の一度だけだ。


 河野軍は未だ抑えの長宗我部軍と交戦中。今頃は港山城の沖でも毛利、長宗我部水軍が睨み合っているはずだ。そろそろ夕刻が近づく。今日はこのままか。私がそんなことを考えた時だった。


 南南西の山の向こうで歓声が上がった。


「港山城陥落の狼煙でございます」


 港山城が陥落? たったの一刻で?


「先陣宍戸隊、前進を開始しました」


 港山城が陥落したということは、戦闘の目的は達成されたということだ。港山城を失えば、長宗我部が道後平野に軍をとどめることは不可能だ。撤退するしかなくなる。


 セオリーとしては殿を残して本体が一目散に逃げるか、あるいは一当てしてから逃げるかだ。宍戸軍の動きは追撃戦で戦果を拡大するための当然の行動。


 先方から鉄砲の音が響き始めた。すぐにそれが剣撃や喊声に変る。あとは敵がどれだけ耐えるかで、毛利の戦果の大きさが左右されるだけ。というか、わざわざ港山城まで攻略しておいて、この消極性は……。


「御屋形様。敵陣に長宗我部信親の旗印無し。敵の主将は吉良と思われます」


 先陣の元続からの使い番の報告が届いた。総大将がいない? それも最初から??


 馬蹄の音が響いたのはその時だった。七つ酢漿草の旗が斜め後ろからこちらに迫ってくる。数は千近い。


 倍の戦力を持ちながらこの形にされてしまうとは、これは失態だ。

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