第十四話 西部戦線異様あり
天正十二年六月。安芸国広島城。
「御帰還いただき、貞俊安堵いたしました」
留守の責任者である福原貞俊が言葉通りの表情で私に言った。白地での戦傷を引きずる熊谷信直も同様に厳しい顔。四国担当の宍戸元続は青ざめている。
海路広島に戻った私は本丸大書院に留守組の重臣を集めて状況を確認する。帰還までの二日間で九州四国の情報が集まっていた。それは助かるが、想像以上に深刻、いや今も悪化し続けている。重臣たちの表情がまさにそれを物語っている。
「長宗我部信親。今や伊予を縦断する勢いでございます」
宍戸元続が四国情勢を報告する。元続の祖父隆家は河野家取次だし元続自身も南伊予への駐留経験があるので報告は極めてリアルだ。耳を塞ぎたいくらいに。
信親自ら率いる長宗我部軍一万は土佐から南伊予に侵攻した。土居清良の旧居城である大森城を大軍と鉄砲により一日で陥落させた。そしてそのまま陸路北上したのだ。丸串城の清良は土佐で養われていた西園寺公広の扇動に応えた西園寺旧臣の反清良派により封じ込められている。
北上する長宗我部軍が次に攻撃したのは大洲城だ。大洲城は丸串と湯築城の中間にある重要な城で、元は宇都宮という小大名の居城だった。十五年前、宇都宮豊綱が守護河野に反旗を翻して『毛利の伊予出兵』を招いた。その結果毛利軍により大洲城は落とされ宇都宮氏は滅んだのだ。
大洲城を落としたのは乃美宗勝だ。捕らえられた宇都宮豊綱は小早川領にある寺で幽閉となった。というか今も幽閉している。ところがこの豊綱の息子豊治が幽閉先から脱出して信親の下に駆け込んでいたのだ。
小早川家転封後に引継ぎがあいまいになっていた隙を突かれた。豊綱は老齢で病だったことから私も含め誰も重視していなかったのだ。これは毛利の失態である。
大洲城はこの宇都宮豊治が旧臣を内応させたことであっさり内側から陥落した。それを知らずに後詰のために南下した河野通直は、道後平野南の伊予川を渡ったところで信親の奇襲を受けた。渡河中に攻撃された河野軍は大崩れ、重臣の大野が戦死する大敗となった。
湯築城に撤退せざるを得なくなった河野通直を背に、信親は港山城を攻略した。これが現状だ。
西園寺と宇都宮という毛利に恨みを持つ旧領主二人を使って一気に軍をすすめた手腕、そしてその予想外の進軍速度から河野軍の渡河地点を正確に予想しての奇襲攻撃。大名として軍を率いるのは初めてのはずの長宗我部信親の戦術能力は恐ろしすぎる。
ただ。この快進撃を割り引いても本来なら無謀な軍事行動だ。河野家は破れたとはいえ湯築城に健在だし、土居清良も包囲されつつ丸串を保持している。伊予国衆が雪崩を打って長宗我部に服属していくということは起こっていない。
毛利、河野、土居で三方から攻めれば長宗我部軍は伊予で孤立、その伸び切った兵站線は破綻する。長宗我部家を毛利包囲網から脱落させるチャンスになりかねない中入りだ。ただしこれが単独なら。
信親にこの軍事行動をとらせたのは隣の九州情勢の変化だ。大友軍二万五千の豊後侵攻、門司城は陸上だけでなく大友水軍により海上封鎖されている。
ちなみに信親は対岸の豊後府内港を経由して港山城へ補給線を繋いでいる。陸路の快進撃はこれを前提としたものだ。大友水軍の西洋船はその大砲で河野水軍を退けたのも港山城の早期陥落の一因らしい。
そう西方情勢の想定外は大友が引き起こしたと言える。だがそれこそあり得ないはずだった。大友は北に毛利、西に龍造寺、南に島津を抱えた状態だった。島津歳久を打ち取った阿蘇の戦いのおかげで筑前や築後の国衆の離反を防いだが、それでも門司城に五千強を派遣したのは頑張ったという印象だったくらいだ。
私が赤穂で隆景相手に狼狽えたのはその為だ。幸いというかこの謎は解けた。龍造寺が総力を挙げて南肥後に侵攻して島津を攻撃したことが分かったのだ。
なるほど、確かに今は天正十二年、島津と龍造寺の戦争である『沖田畷の戦い』が起こった年だ。ただしこちらの歴史での島津対龍造寺は沖田畷ではなく『肥後八代』で起こった。龍造寺の先鋒は有馬晴信だという。
本来の歴史を知る私にとっては驚愕の事態だ。
有馬晴信は肥前国から南にぶら下がる耳たぶのような地、現代なら長崎県島原の領主だ。典型的な境目国衆として大友、龍造寺、島津と従属先を変えてきた独立性の強い小大名。
本来の歴史ではこの有馬晴信が龍造寺から島津に鞍替えしたことが『沖田畷の戦い』を引き起こした。この戦いで島津・有馬連合軍は龍造寺隆信を打ち取るという大勝利を得た。九州が島津一強状態になることが決まった戦いだ。
だがこちらでは有馬晴信が龍造寺先鋒として島津攻撃を扇動した結果、島津は南肥後での防戦に追い込まれている。八代は島津義弘の城なので、流石というか持ちこたえているようだが、本来の歴史よりも龍造寺優勢という事実は変わらない。
龍造寺が島津を攻撃したことで大友は側面と背後の脅威から同時に解放された。結果全力を毛利に向けることが出来たのだ。
龍造寺、大友、長宗我部と思惑も目標もばらばらのはずの三家が見事に連携して毛利にとって最悪の戦略的状況を作り出した。まさに悪夢だ。
当然単なる偶然ではない。長宗我部の伊予侵攻は大友の動きが前提、大友の門司城攻撃は龍造寺の動きが前提だ。すべて繋がっていなければならない。
だが同時に信じがたい。畿内の光秀が複雑怪奇な九州情勢をここまで完璧にコントロールできるのか?
百歩譲って長宗我部と大友が連携するのはいい。両家は最初から対毛利の軍事同盟関係だ。だが大友と龍造寺は対立関係だ。そもそも有馬をどうやって島津から龍造寺にひっくり返させた?
大友、龍造寺、島津と従属先を変えた経緯から分かるように有馬はその時強いものに付くという典型的な国衆の行動原理で動いている。ちなみに節操がないということは、逆に言えば主体性を保持しているということだ。
こんな外交戦略は机上の空論、いや陰謀論レベルの話じゃないか。ちなみに私は陰謀の存在は信じるが陰謀論は信じない。理由は簡単で、もし陰謀論レベルの闇の組織が本当に存在した場合、そもそも勝てるはずがないから私は降伏する。ディープステートとやらに尻尾を振って生きていく方を選ぶ。
すなわち光秀にこんな芸当が出来るならこの足で尼崎に向かって降伏を申し出る。
だが実際に毛利に不利なこの状況は生じている。光秀がすべてをコントロールしているという陰謀論を却下して、九州はある種の自律性を持って動いていると考えたらどうだ?
それでも大友が毛利を攻めるために有馬に働きかけて龍造寺に付かせて、島津を攻めさせるなんてことが可能とは思えない。両家のつながりはとっくに切れて。
…………有馬の領地は天草。というか有馬晴信は有名なキリシタン大名だよな。もし万が一、その縁が残っていたら? いやこれは流石に考えすぎじゃないか。
「九州ですが、大村純忠の動きは分かりますか」
私は念のために貞俊に聞いた。
「大村と言えば肥前国衆の、でございまするか。……島津からの知らせで八代の包囲に加わっているようです。有馬と共に軍船から大砲を打っているとのこと」
「大砲というのは、大友が河野水軍に撃ちかけた物と同じですか」
「そこまでは分かりませぬが」
絶対に当たってほしくなかった予想が当たった。
大村は有馬と同じ肥前の国衆で現代の長崎県の佐世保などの領主だ。龍造寺に従属しているが、やはり独立性が強い。有馬も大村も龍造寺とは同格意識を持っているのだ。その両家が龍造寺の島津攻めに積極的に協力している。
嫌な汗が背中を流れる。
大村純忠も有名なキリシタン大名なのだ。それも大友、有馬、大村の三家は二年前、天正遣欧少年使節を派遣した間柄だ。ちなみに少年使節という名前から宗教的情熱に燃える純真な少年が派遣されたような印象を受けるが、主要なメンバーは大友、有馬、大村の三家の血縁者がしっかり選ばれている。
この三大名がキリシタンネットワークとしてつながっているとしたら脅威だ。そういえば光秀の傘下にも高山右近という熱心なキリシタン大名がいる。
光秀が龍造寺、有馬、大村と言った九州の大名を駒のように動かすことは無理。だが九州で大友、有馬、大村のキリシタン大名ネットワークが存在していて、例えば高山右近がその取次的に動けば、今のようなことになる可能性はある。
それって、光秀との戦争どころじゃない危険な動きなのでは……。
「御屋形様。お顔の色が」
「あ、ああ。大事はありません。…………状況は分かりました」
これはあくまで予想。それも本来の歴史、世界史レベルを知っている私の仮説だ。もちろん、しっかり調べるが今は目の前のことが優先だ。
土岐との戦争の真っ最中である以上、いかに深刻な内在的脅威でも最優先にはできない。最優先は西方戦略の立て直しだ。それだけでも十分すぎるほどの難題だ。
「明日までに私の考えを纏めます。それぞれ担当の情勢を引き続き把握するように務めてください」
私はそういうと鎮守丸に向かった。一人で考える時間が必要だ。
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