第十話 中国覇者の軍
天正十二年五月。備中国。
馬に揺られ山陽道を進む。広島城を出て一週間、私は備中に入っていた。行軍距離にして120km弱。今日中に猿掛城に到着できるだろう。
猿掛城は二年前の備中高松城の戦いで私が本陣を置いていた城だ。あの時、私は突発的に前線の視察に向かった。あれは本来の歴史通りだったのだろうか、それとも記憶が戻る兆候か何かだったのか。確かなことはあれから歴史が大きく変わったのだということだけ。
「三村孫兵衛殿、兵千、着陣」
「熊谷玄蕃殿、兵三百……」
「口羽十郎兵衛……」
それは本軍に次々に合流してくる備中衆を見ただけで分かる。
備中は毛利が三村家を通じて間接支配していたが、いわゆる備中兵乱で三村家が反逆して滅んだ結果、直接支配に切り替わった。
三村孫兵衛は三村分家で本家を離れて毛利に付いたことで生き残った。熊谷玄蕃は備中に所領を与えられた安芸国衆熊谷家の分家。口羽十郎兵衛は譜代口羽家の分家だ。
征服国の敵対国衆の領地を没収、帰属が遅かった国衆は他国へ転封、空いた土地を本家や一門そして譜代家臣に戦功として宛がう。
祖父の代からこうやってどの国でも土着勢力に対し毛利が優勢になるようにバランスを取ってきた。さらに本国の有力国衆の分家を引きはがすことで毛利の支配力を高める。このやり方は分割相続という武士団の原理に沿っているので比較的やりやすいのだ。
毛利家も大江広元の四男季光の四男経光からの家系だ。
そうやって細分化した家臣たちを寄親寄子の関係に組織化する。広島を出た時は五千だった本軍が、備中に入った時は一万を超えた。石見衆が追いついてくれば一万五千に達するだろう。隆景が統率する山陽方面軍三万余と合わせれば四万五千の大軍だ。
二年前は私の本軍は貧弱で、前線から遠く離れた猿掛城に本陣を置かなければいけなかった。財力的にも兵站的にも限界で、使える兵は元春、隆景の両川が率いて備後で羽柴勢と対峙していた有様だ。
毛利国家の全力を挙げて実働兵力は二万程度。それも崩壊しそうなのを元春、隆景の両川が必死に維持している状況。奇跡でも起きない限り滅亡だった。
まあ奇跡は起きたわけだが。もちろん私が記憶を取り戻したことではなく、本能寺の変のことだ。
そしてその恩人の明智、いや土岐光秀と戦争というわけだ。中央の大勢力と地方の有力者の衝突。歴史の必然の流れだ。
連戦連勝の毛利軍の士気は高いし統制も効いている。何しろ家臣たちが遅参したり、軍役の兵数をごまかしたりしていない。これは驚くべきことなのだ。
何より重要なのが瀬戸内海の制海権を確保している点だ。
海上には川ノ内警固衆の軍船が広島、尾道などの廻船商人から供出された輸送船を護衛している。村上武吉は淡路港城に長男元吉、彦島に次男景親を置いている。伊予の河野水軍も対岸の大友へ圧力をかけることを承知している。
兵站線を確保すると同時に、切り札である鎮守府海兵隊を瀬戸内海沿岸どこでも数日で展開できる。陸上兵力では土岐軍に及ばないが、海上戦力では毛利が勝る。
だが想定外は当然ある。私が早々に播磨に出陣している理由だ。毛利が惣無事令を蹴ったことが伝わると待っていたように光秀は自ら出馬することを表明。すでに天王山城を越えて摂津の尼崎城まで出てきている。
既に動き始めていた三人の宿老だけでなく伊賀の筒井、北陸の前田といった後方の傘下大名の動員も聞こえてきた。十万を超える大動員が予想される。そこまでは覚悟していたが、光秀自身が大阪湾近くまで一気に出てくるのは予想外だった。
大軍は兵站維持が負担になる。光秀は京という大きな非農業人口を養わなければいけない。本来なら東方から播磨に届くべき食料を途中で京が食ってしまう構図だ。
国力差でじわじわと押し込んでいく消耗戦ではなく、一気に雌雄を決する短期決戦を志向した可能性が高い。
方面軍と機動軍を瀬戸内海の制海権を用いて連動させる内線作戦+機動戦。私の戦略は最初は守勢に徹する。敵の攻勢を受け止められなければいけない。光秀自身が出馬してきた以上、総大将である私が出なければ兵数的にも士気的にも播磨防衛が危ない。
逆に光秀自らの大軍を播磨でしっかり止めれば、最初の想定よりもさらに優位にこちらの戦略に引きずり込める。東方の徳川もしっかり動き出すはずだ。
私が東に向かうことで問題だったのが背後の九州情勢だ。門司城を囲む大友の兵力がじわじわと増えているのだ。
広島には福原貞俊、熊谷信直、宍戸隆家といったほぼ隠居組を残した。海兵隊は大組二つを淡路岩屋城に追加して、残り五百は呉において河野水軍と一緒に門司への後詰を担わせる配置にした。河野水軍に豊後水道で大友水軍を牽制させることで、豊前や関門海峡での大友水軍の行動を押さえる。そして海兵隊を門司城の後詰に動かすという算段だ。
これで周防衆が長門に向かえば長門と門司城を守ることはできるはずだ。
長宗我部家に未だ動きがないおかげで西方はある程度余裕がある。もちろん讃岐から阿波の白地跡や徳島城の動きは監視している。
とにかくまずは主敵である土岐の攻勢を止める。そして時期を見計らって長宗我部を潰す。この戦略に変更はない。
あともう一つ。海兵隊の門司後詰は新しい作戦行動の実戦演習だ。あれが上手くいくなら海兵隊の軍事行動はさらにスピードと幅を広げる。関門海峡の地形と大友軍の規模は練習台としてちょうどいい。
同日夜。安芸国草津城。
広島湾西岸から海に突き出した草津城は毛利直属水軍の大拠点だ。だが今船溜まりは寂しい。船の多くが東へ向かったために軍船はわずかだ。その空いた船留めに大小二艘が係留されていた。大船は『丸に上』の村上水軍の関船。もう一艘は『櫓と銃』の隊章を船腹に描いた小早船だ。
草津城本曲輪には瀬戸内に名をはせる海将が集まっていた。上座には毛利家戦奉行にして海兵隊総隊将である児玉就英。就英の左前でぶすっとしている老人は父で川ノ内警固衆の将である児玉就方。就方の向かいは村上武吉の次男で彦島代官の村上景親だ。
そして末席、というよりもはるか下座に一人ぽつんと座っているのは海兵隊の若い男だ。
「門司後詰の命が下った以上、海兵隊と水軍衆が心を一つにして励むべし」
「いちいち言わんでも分かっておるわ。戦奉行じゃっていって大上段に構えよって」
「…………」
息子就英に一言言わねば気に喰わない就方。自分には関係ないとばかりに沈黙を守る景親。そしてそんな大名級の侍大将の前で、裁きの場に引き出された下人のごとく縮こまっている村田余吉。
(何で儂がこんなところにおるんじゃ)
海兵隊組頭、もとい大組頭並になった余吉は心の中でぼやいた。止むを得ない事情で除隊をあきらめ大組頭並への昇進も受け入れたが、軍議に呼ばれるなど想定外だ。
「門司城を囲む大友の兵力は六千に増強されている。豊前衆のみならず、豊後の旗も見える。敵本陣の中津城の船溜まりには大友の関船が集結しつつある。中には南蛮船も二艘あると河野からの報告」
「儂の船が三十、彦島の村上が五十ってところかのう。河野の水軍衆が動かんと危うい話じゃな」
「壇ノ浦を押さえられれば、我ら彦島衆とそちら草津衆は分断される」
三人の武将は戦況を確認する。海戦の主力となる関船が寄港できる港は関門海峡では彦島、門司、そして櫛崎の三カ所。大友の軍船が増強され門司が閉塞されれば関門海峡は二分される。それを防ぐためには河野水軍による牽制が必要だ。
河野通直は「いまこそ毛利に馳走するとき」と号令しており、伊予港山城には二百に迫る軍船が集まりつつあるが、伊予統一を成したばかりのその動きは、三人にとってはいかにも遅い。
そして残り一人にとっては、そもそも何でこんなに時間がかかるのか理解できないでいる。
(とはいえ以前の士分教授で出された題よりも大友の数は半分じゃ)
余吉は課題の紙を手に握りしめながら必死で話についていこうとする。汗で墨が滲んで指の間から黒い滴りが落ちているくらい緊張しているのだ。
そしてついに上座の中央から就英が余吉を指名した。
「そこで水軍と海兵隊の呼吸を合わせる話。大組頭余吉。そなたの
「はっ、ははぁ。そ、そのわ、我らの――」
「おお、よく見るとあの時焔硝蔵に火を放ちおった男ではないか」
「えっ、あ、その折はまことにもって……」
「余吉。軍議の場でかような戯言に付き合う必要はない。早く策を述べよ」
「しょ、承知いたしました。その、ええっと、我らの小早船は大友の大船よりも早く素早く動けまする。されど危ないのが港にもどるとき……」
額から滝のような汗を流しながら、余吉は自分が提出した課題の答えを必死に語った。
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