閑話 天下人の茶碗

天正十二年三月。山城国京。


 宰相屋敷茶室、白雲庵。書院造の一室で長身の若い将がその器を手に取った。


 濃緑の液体が入った茶碗を両手で持ち上げ、その色合いを観察する。艶やかな黒地に星辰が散らばる夜天の星のごとき玄妙な模様。唐物曜変天目茶碗。


 一国に匹敵するといわれる名器を手にしながら、長宗我部信親は美を愛でる心とは真逆の心持であった。


 この器を出したは天下人の驕慢か、あるいは我が扱い軽からずとみるべきか。


 コホン。


「鄙の者にて無作法、申し訳ございません」


 隣に座る妻の実父、石谷頼辰の咳払い。信親は目の前の老人に無作法を詫びた。


「足利義政公も愛でた天下の名物。頼辰咎めるに及ばず」


 亭主席の老いた男は薄く笑った。信親は「恐れ入りまする」と言って茶を口にした。


 どろりとした茶の苦みを喉に通す。土岐光秀、年齢による衰えは見えぬが、その心底が測れぬ。


 …………


「此度の探題補任、宰相様の御引立てにてなりましたこと、改めて御礼を申し上げまする。土岐一門の末流に加えられた上は、何事もご宗家の下知を仰ぐ覚悟にて」


 茶碗が下げられた後、信親は改めて光秀に言った。目の前の男は妻の義父であり、宗家当主であり、長宗我部の主君であり、そして天下の差配者だ。


「ご尊父の幕府への忠義、宰相様は殊勝との思し召し。四国一円はもとより天下の政についても参与されたしとの御意でございますぞ」

「ありがたき幸せ。しからば土岐家の将としていかなる働ぎ口を頂けましょうや」


 信親は本題に切り込む。探題就任に対する将軍、管領代への拝謁は上洛の表向きの理由だ。来たるべき毛利との戦における長宗我部家の部署こそが一番の大事。毛利を破らねば探題職は虚名に過ぎない。


「長宗我部家は西を任せたいとのことでございます」

「伊予口、でございまするか」


 信親は思わず聞き返した。光秀は試すような冷たい目を向けるだけだ。


「伊予を取るは亡父の悲願。仇輝元の本拠に刃を突き付けるは本望でございます。されど当家は未だ白地の傷が癒えておらず。ご期待にそう働きを示せぬことを恐れまする」


 今の伊予は河野家が完全に把握している上に、毛利の後ろ盾もある。土岐と連携できない位置にある伊予を長宗我部単独で抜くのは至難だ。


「懸念無用。右近」


 光秀の短い言葉。戸が開いた。入ってきたのは三十くらいの精悍な顔つきの美丈夫だ。外光が男の胸元の十字の飾りを光らせる。


「高山右近でございます。四国探題様にはまずはご覧ください」


 摂津の武将は信親の前に一枚の起請文を置いた。大友義統を筆頭に三名の大名の名が並んでいる。内容を確認した信親はむしろ疑念を深めた。九州は畿内から遠く、その状況は三つ巴の混迷の中にある。幕府に頼るしかない大友はともかく、他の二家は……。


「鎮西は古来より幕府の威令に服さぬもの多く。昨今も島津、龍造寺、大友の相克の激しき形勢」

「ご案じめさるな。ここに記された同心は揺るぎのうございます」


 右近は透明な笑みを浮かべ、請け負うように胸の十字架を握った。起請文の最後にある神名が一柱『天主』のみであることに信親は初めて気が付いた。


「中国九州の模様を睨みてでよい、探題の才覚しだいに横槍を入れよ」

「長宗我部は宰相様の采配に従いまする」


 信親は光秀に平伏して受諾の意を表す。出陣の時は任せると言われれば拒む理由はなくなる。この軍略が本当に現出するのであれば、間違いなく毛利の死命を制するものだ。


 …………


 門前の騒めきが届く玉石の道。茶室を出た信親は妻の父と並んで歩いていた。


「紀伊からの玉薬のことは某が仕る。探題殿は四国で心置きなくお働きを」

「忝く。音信密にしたくおもいます。……それにしても大変な人出ですな」


 信親は門外を見た。多くの人間が列を作っている。公家、僧侶、そして武士。ここに来る前に見た将軍御所とは比べ物にならない。


「ここだけの話、京雀は管領代とはもはや誰も言わず。皆宰相様と呼んでおります」

「さもありなん」


 光秀が天下の差配者であることは疑いようもない。京の町に本能寺の変事の混乱はもはやなく、安泰そのものだ。たった二年で畿内近国を平定した軍略と合わせて父にも勝る名将であろう。


 気がかりがあるとしたら……。


「いかがなされた」

「いえ。見事な茶室であったゆえ名残り惜しゅうて。土佐にもどれば見られぬ雅ですので」


 気が付けば足を止めて白雲庵を振り返る信親。怪訝そうな頼辰に取りつくろった。


「亡父の仇を報じた暁には、京に大いに遊びたく。妻も父御に会えることを喜びましょう」

「ははは。娘にはまずは嫡子を上げてもらわねば。信親殿は細川忠興殿と並び十五朗様の重鎮となられるのですから」


 上機嫌の頼辰の隣で、信親は別のことを考えていた。


 あの茶碗。八代将軍足利義政から信長に渡ったと伝わる唐物の大名物。まさに天下人のもつべき品だ。だがその輝きが光秀の手の中にある様がどこかしっくりこないように……。


 内心で首を振った。元より己は長宗我部家当主。誰と結び、誰と戦うかは己が心一つ。伊予を取り毛利を破るは望むところだ。


 父元親より継いだは幕府への忠義でも毛利への恨みでもない。四国一統の志のみ。

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