閑話 正月模様
天正十二年一月。安芸国草津城。
「大叔父様。謹んで新年のお喜びを申し上げます。また叔父上様の戦奉行ご就任おめでとうございます」
「うむ。よく来てくれたぞ周。いや就英のことはめでたくなどないわ。倅に抜かれて隠居を考えたわい」
言葉とは裏腹に児玉就方は上機嫌で周の挨拶に応じた。だが好々爺の顔はすぐに引き締まる。
「草津まで足を延ばしてくれたということは元良の勘気は解けたようだな。呉まで僅かな供で押し寄せるとは無茶をする。元良でなくても肝が冷えるぞ。あまり心配をかけてはならぬ」
「そのことについては父からも強く叱られました」
周はびくっと体を震わせた。一族長老への年賀挨拶という理由で数か月ぶりの外出を許されたのだ。あの時のことを思い出すと、今でも頬が赤く染まる。あの場には叔父の就英が同席していた、周がどういう扱いを受けたかは当然伝わっているはずだ。
だが周はここに来なければならなかった。彼女の宿願を果たすためには頼ることが出来る人間は就方だけだ。
「まあよい。それで儂に折り入っての相談とは」
「はい。実は……」
…………
「確かに元良には聞かせられぬな。しかしいかなる心変わりじゃ」
周の話を聞いた就方は顎を手に乗せて困惑の表情を作った。
「父が受けたご恩を子としてお返ししたい一心でございます。下女の一人としてでもお仕えできればと」
「児玉家の娘が下女など。うーむ。しかし奥のこととなると何とも難しいぞ」
就方は顎をひねり、空いた左手の指で膝をトントンと打ちながら言う。
むろん周にはわかっている。奥はあくまで正室南の方が主人だ。
側室ですら主君の妻である前に正室の配下、女中などなおさらである。奥に人が入る許可を出すのは正室の権限なのだ。そして先日広島城に移った南の方の気性の激しさは周も知っている。
夫が周を見染めたという話を聞いた時は怒り狂ったという話だ。周が表向き何も言われないのは本家奉行職である児玉家を憚ってのことに過ぎない。
だが父に頼れぬ以上、同じく奉行職にある大叔父に縋るしか周には手がなかった。とにかくあの男の近くにあらねば何事も始まらない。
それでも希望はある。大叔父が迷っているのはうまく運べば児玉家に意味があるからだ。武家の男というものは、女という駒をいかに一族の安泰、繁栄の為に用いるかを考えているものだ。
しかも場合によれば毛利の家に対する最大の忠義となる。父の元良も、いや周自身すら主君に嫡子がいないことは不安なのだ。
「そうじゃな。奥にて一番偉い方に御頼りするしかなかろう」
「それは……南のお方様が私を受け入れてくださるとは到底……」
「南の方にあらずじゃ。御正室も御屋形様も頭が上がらぬ方が一人おられるであろう」
就方の出した名前に周ははっとした。就方は児玉家ゆかりの者で、その女性の近くに仕えるものの紹介を約束してくれた。「ありがとうございます。さっそくご挨拶に伺います」と周は就方に頭を下げた。
草津から広島にもどった周は本丸を見て思わず唇をかんだ。
決死の覚悟でその身を投げ捨てるつもりだった彼女に二言目には「広島の城だけが大事」と繰り返した男があそこにいる。一時はあれほど執着しておきながら、まるで何の興味もないようにふるまった。
(あれほどの恥辱、晴らさずにおくものですか)
まず大叔父の教えてくれた大方のご歓心を得なければならない。そういえば殿方の言葉に「将を射んとすれば即ち馬を射よ」というものがあるという。
これは女の
同日。広島城下町。村田余吉。
「正月で町の者も浮かれておる。喧嘩狼藉を油断なく見張るのじゃ。おい助佐、花街の方へ行ってどうする。別の組の担当じゃぞ」
酒と白粉の匂いに誘われるようにふらふらと進路を変えた部下に儂は注意した。浮かれておるのは町の衆だけではないようじゃ。
とはいえ伊予から阿波まで四国を一回り戦った後じゃ。見回りとなると気が抜けるのはよう分かる。あの戦と比べれば、儂らの襟元を見ただけで恐れる破落戸の相手など左程でもないからの。
じゃが広島番として給金をもらっていることを忘れさせぬのが頭の務め。それに万が一この城が攻められるようなことになれば守りに付くのは儂らじゃ。町のことは良く知っておかねばならぬ。
頭を掻く助佐が隊列にもどった。儂は先頭に立って町路を進みながらようやっと痛みがなくなった腕をさする。あと季節一つ、戦なんぞ起こらんでくれと願っているのは儂もじゃ。
…………
「明後日は呉で調練じゃ。酒を飲んで寝過ごしたなどと言い訳は聞かんからな」
下町の一角に置かれた交番で儂は言った。広島城番としての詰め所で、交代で番することから交番というらしい。将軍様がお付けになられた名前じゃ。
「分かっておる」「偶には櫓を漕がんと船のことも忘れてしまうからな」「全くよ。とはいえ調練の為には英気を養わねばならん」「そうじゃそうじゃ」「あの茶屋はどうじゃ。最近きれいどころが入ったのよ」
組の者が騒ぐ。やれやれ、本当にわかっておるのか。まあ刻限が終わったのじゃからよいか。偶には儂もと言おうと思うた時じゃ。「余吉。少々良いか」と大組頭山縣様から呼び止められてしもうた。
「実はこの度、淡路の岩屋城の支府の将を仰せつかってな」
「それはおめでとうございます」
そういえば隊将の就英様も大層な御出世と聞く。児玉の家来衆が「殿はもはやご家老様よ」と言っておった。
「うむ其方ら組頭の働きあってじゃ。じゃが一つ難題があってな。御屋形様の定められたことで、役が上がる者は後任を推挙せねばならぬのじゃ」
「さ、左様でございますか」
「うむ、それでじゃ。儂の後任は余吉と思おておるのじゃ」
儂は思わず襟に付いた竜の勲章を手で隠した。
「その儀はご容赦ください。某などに大組頭など到底務まりませぬ。某、百姓の出にて」
「いやいや、すでに二度も戦に出ておる。勲章を賜るほどの功も立てたではないか。なにやってみれば慣れるものよ。そうじゃ広島城番の間だけでもどうじゃ。給金も倍じゃぞ」
「城番の年季が明ければ離れるものが左様な給金を頂くは義理が立ちません。戦が始まる前に何十人もの兵を放って逃げたと言われれば立つ瀬がなくなります」
儂は必死に首を振る。山縣様に逆らうのは申し訳ないが、これは譲れぬ。
「困ったのう。いや分かった、無理にとは言えぬからな。ただじゃな、来月鎮守丸で行われる御教授には出てもらうぞ。御屋形様直々に大将の心得について御指南くださるのでな」
「某は組頭にて…………」
大将の心得とは不吉な言葉じゃ。大組頭のことを他の軍では足軽大将というのじゃ。
「いやこれは決まりなのじゃ。青竜章を授与されたものは参加するようにというな」
「……法度とあれば是非はございません。海兵隊の一員として務めを果たさせていただきます」
「うむ。ではしかと伝えたぞ。なに其方は文筆のことも達者故大丈夫よ。じゃからこそ……。いやとにかく頼むぞ」
そそくさと去っていく上役を見て儂はため息をついた。山縣様の下だけで組頭は十人もおる。出世を望むものなどいくらでもいるというに。
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