第三章 毛利包囲網

第一話 茶室

 天正十一年(1583年)十一月。安芸国広島城。


 広島城本丸の中で一番小さな建物で私は来客を待っていた。


 私のプライベートスペースである奥屋敷と政庁である中奥を区切る庭にぽつんと立つ建物は大きさだけなら小屋だ。中には裏に水屋が付属した四畳半の部屋一つだけがある。畳四枚を互いに直角に組み合わせ、中央に空いた半畳に囲炉裏を置いた小さな部屋。この時代の流行最先端であり、現代まで日本文化の精髄である茶室である。


 小さく低い入り口を薄い白髪頭がくぐった。腰をかがめるようにして入ってきた五十代半ばの男は油断なく四方に目を走らせた。中に私一人であること、そして自分と同じく無腰であることを確認した後、男は後ろに合図を送った。続いて入ってきた細面の五十男はいつもの謹厳な表情を崩さずに私の正面に座った。


 入り口で刀を預かられ狭い部屋に招き入れられる、戦国武将ならまっさきに暗殺を疑うシチュエーションにおける当然の警戒心がただでさえ狭い部屋の空気を引き締める。


「どういう趣向ですかな。御屋形様」

「讃岐平定でご苦労頂いた叔父上と乃美殿をもてなそうと思いまして。茶の湯では禅の教えに基づき主客に上下を付けぬものと聞いています。くつろいでください」


 湯気立つ釜の前で湯の具合を確認していた私は膝の向きを変えて来客に会釈したあと、茶をたて始めた。


 茶道はその精神性を禅の教えに求める。この場にいる三人には明確な身分差があり、私は主君で隆景は直臣、宗勝は陪臣だ。だが茶道においては亭主と客の関係となる。共に茶会を作り出す役割が違うに過ぎない。


 禅の言葉を借りれば『隻手音声』。右手と左手が打ち合わさって初めて拍手が生じる。拍手の音は右手から出たわけでも、左手から出たわけでもない。そういう精神だ。


 これは無礼講とは全く違う。無礼講とは上司と部下の区別を無視することで、上下をなくす発想だ。茶室においては亭主と客の区別を付けつつ、そこに価値の区別を認めない。


 利害も立場も異なる者が隔意なく話し合うための場として適しているからこそ、茶道は大名の間に流行したという側面がある。もちろんその話し合いには、互いの命や一族の命運がかかるのだが。


 立てた茶を一口飲んだ後、私は茶碗を隆景の前に置いた。隆景は飲み口を回転させて口を付けると、となりの宗勝の前に移した。宗勝は同じように口を付けた。


 一つの茶碗を一席で回し飲むのが茶道の作法。ただし亭主である私が真っ先に口を付けるのは完全なマナー違反だ。亭主は客をもてなす役であり当然飲むのは最後になる。なんで私が最初に飲むかと言えば、はっきり言えば毒見だ。


 これから持ち出す話題を考えれば、こう言った配慮が亭主が成すべき作法だと考えざるを得ない。家中最大の実力者である隆景と、毛利国家元首である私の関係は茶道関係なしに上下があいまいで危険な物なのだ。


 陶晴賢は主君大内義隆を弑逆したし、尼子晴久は叔父の国久を誅殺した。


 今更だが現在三百万石ちかい毛利家は安芸の一国衆、多く見積もっても二万石程度から発した。安芸国は東西を大内尼子という強国に囲まれ、多くの国衆が両家の間を右往左往する分裂状態にあった。国衆は小魚が群れをつくるように一揆を結ぶことで存立を計った。その中の一家が毛利だ。これが祖父元就の兄である興元の時代のこと。


 祖父元就の時代、毛利家は大内家により安芸国衆連合の代表として認められた。大内家の安芸国守護代に擬せられたのだ。尼子方の武田などとの戦いの中で徐々に勢力を拡大、吉川家や小早川家を取り込んだ祖父は、上位権力である大内家が陶晴賢の謀反で滅びたことで安芸国衆連合の盟主となった。そして安芸国衆連合軍率いて中国を征服したのだ。


 つまり毛利国家とは安芸の国衆連合が中国を征服することで形成されたと言える。周辺国は軍事的に屈服させたので有力国人の転封などの措置が出来たが、安芸の国衆は同盟参加者を元としているため、本領をがっつり保持している。


 本国であるにもかかわらず安芸における私の直轄領は総石高の十分の一程度であり、地付きの国衆に比べてもそこまで優越していない。


 安芸国衆の中で最大領主が小早川隆景だ。分家の竹原を継いだ隆景が、本家の沼田も統合したことで安芸と備後にまたがる本領だけで四万石、全体なら六万石を優に超える。第二位の吉川家が安芸国の領地が五千石程度、山陰の領地を合わせて四万石程度なのに比べても大きい。


 隆景は一門宿老として毛利国家の中枢を担うと同時に、独立性が高い安芸の最大領主でもある。さらに備後、備中、備前に対する指揮権を有する。現代で例えるなら本社副社長兼、最大子会社のオーナー社長であり、山陽のエリアマネージャーいう矛盾しきった存在だ。


 とはいえ隆景がいないと最悪家が滅ぶし、少なくとも広島築城や海兵隊の育成をやっている余裕はなくなる。というよりも多分、先の長宗我部との戦争で負けている。


 だがこのままの体制では土岐光秀との次の戦争は出来ないのもまた確かなのだ。その為に私は政治的に大きな決断を迫られている。そしてそのためにわざわざ出来立ての茶室に両名を呼んだのだ。



「備前国の様子はどうなっていますか」


 私は当たり障りのない話題から入った。


「幸い今年の物なりは良かった。宇喜多旧臣は大身は滅ぼした上に、讃岐が毛利領となったこともあって身動きが取れないであろう。何もなければこのまま安定しよう」


 それがどうしたという目ですらすらと答える。


「なるほど。やはり備前は豊かな国ですね。讃岐の様子はどうでしょうか。乃美殿」

「長宗我部により東讃岐の三好勢力は駆逐されておりました。その長宗我部の養子を受け入れた西讃岐の香川家も滅びました。こちらも現在の所は安心かと」


 乃美宗勝は神妙な声で答えた。宗勝は隆景の代理として讃岐に駐屯している。


「そろそろ本題に入ったらどうだ」

「余の儀に非ずです。此度の讃岐平定における叔父上と乃美殿への加増の話です」

「ほう。先ほどは禅の教えがどうのと言っていたが、まさしく主従の話ではないか」


 隆景はすっと目を細めて私の矛盾を突いた。懐から取り出した扇子を開いて口元を隠した。


「ただの加増ならこのような持って回った席は設けまい。察するに加増に名を変えた小早川家の国替え」


 完全にばれてる。まあこうなったら突っ切るしかない。


「あくまで内案ですが。安芸と備後にまたがる小早川領を本家に収公、代わりとして備前一国、蔵入地長船を除いて小早川家に宛行ます。乃美殿には讃岐十河城と三万石。もって此度の恩賞としたいと思っています」


 私は用意しておいた紙を出す。私の鎮守府における側近で、勘定方を扱う榎本元吉が計算した今回の転封の収支が記されている。


小早川家が安芸と備後に持っている所領が約四万石。

備前で宇喜多家と重臣を滅ぼし、開戦前に降伏しなかった国衆から削った領地が合計十二万石余。

今後は鉄砲産地として本家の蔵入りとする長船周辺の二万石を引く。


 つまり備前の十万石を与えて安芸備後の四万石を没収。結果として小早川家は六万石増で十二万石。もとの領地が六万石だから倍だ。備前の国衆は引き続き隆景の与力になるので、事実上の備前国主だ。宗勝においては五倍増になり、讃岐守護代格となる。


「これは大盤振る舞いよな」


 ちっともうれしくなさそうな顔で隆景は言った。宗勝も厳しい表情を崩さない。


「備前は京に近い豊かな地。また良港も多いので小早川水軍を養うに適した地であると思います。岡山城を居城とし、必要な港などの在地衆は讃岐に新領を与えるなどすれば、一国の支配がなるでしょう」


 私はいいことばかりを並べる。だが実際はそんな景気の良い話ではない。


 キーワードは『宛行う』という言葉だ。これまでの小早川領は毛利本家によって『安堵』されたもの。先祖代々の領地を、毛利家に認めさせたという意味だ。安堵されているからこそ毛利家に従っているのであって、毛利家がその義務を放棄したり力を失えば独立できる。


 国衆というのはその存立の基盤を自ら持っている半独立国だからだ。


 一方、備前領の『宛行』とは毛利本家が領地を与えるという意味になる。理屈上は私がその気になれば返せと言えることになる。


 毛利財閥に参加していた小早川株式会社のオーナー社長が会社を没収され、代わりに数倍規模の別の子会社の社長に任命されるに近い。


 さらに領地倍増と言っても実は倍ではないのだ。小早川家から本家が接収する四万石だが、この四万石という数字は小早川家が自己申告した石高だ。実際の石高は最低でも二割増し。おそらく五万石を優に超える。それに対して備前で与えられる十万石は宇喜多から奪った後で厳密に検地した石高だ。


 実は転封とは同石高なら、実質増税になる仕組みになっている。


 ちなみにこの増税幅は旧来の体制の戦国大名ほど甚だしくて、長宗我部は自己申告では土佐一国十万石だったが、山内一豊が入部したときは二十万石以上になっているし、島津家に至っては二十一万石のはずが太閤検地で六十万石弱に増えている。


 当然増税される側は大きな不満を持つが、それが実行できたのは太閤殿下の御命令、要するに虎の威を借りたからだ。もっとも島津に至ってはそれすらできなくて、検地は石田三成の部下にやってもらっている。


 ちなみにこの検地に大失敗して領地で一揆が起こり改易、切腹になったのが佐々成政だ。逆に転封を上手く利用したと思われるのが徳川家康。関東二百五十万石に転封になった際に、家臣には厳密に検知された領地を与えることにより、徳川家の直轄領や信頼する家臣の領地を劇的に増やしたはずだ。


 転封とは領地の再構成リストラクチャリングであり減給リストラでもあるのだ。新しい領地の管理体制を一から構築、引っ越し費用その他を考えればどこまで得かという話になる。


 一門宿老で聖域である安芸国衆の隆景にとってはなおさらだ。まあ、だからこそやらなければならないのだが。


「我らを父祖の地より引き離すからには、相応の理由があろうな」


 私を査定する目に変わった叔父にこの転封の大義を説く。








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2024年4月20日:

お待たせしました。第三章『毛利包囲網』開始です。

今後の公開予定ですが火、木、土の週三回投稿を考えています。

次の公開は4月23日(火)の予定です。

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