エピローグ 勲章授与
天正十一年十月。安芸国呉鎮守府。
「一期三番大組、八番組頭村田余吉前へ」
就英に名前を呼ばれた海兵がばねのように立ち上がった。私は傍らの佐世元嘉に勲章認定書を渡す。私の前に跪いた海兵。元嘉が認定書を読み上げる。
「村田余吉。この者、阿波徳島城の合戦において以下の功績を立てたことを認めるものなり。
一つ、焔硝蔵をいち早く見出し破壊したことで、長宗我部軍の玉薬を断つという作戦目標に貢献したこと。
一つ、敵軍の蓄えし鉄砲数十丁を破壊したこと。
一つ、自らの危険を顧みず負傷した朋輩を救出したこと。
これらの軍忠を称え功一級青竜章を授ける。
天正十一年十月二十八日。鎮守府朱印」
丁度永楽銭の大きさの竜をかたどった勲章と認定書が元嘉から余吉に渡される。
余吉は顔を上げると「ありがたき幸せ」と言って片手で受け取った。海兵隊にとって初めての勲章授与式、授与者十人の最後を飾る栄誉だ。ちなみに十人中、功一級はこの男だけだ。
勲章は海兵、海士が戦場において特出すべき功績を立てたことに対して与えられる。功一級から四級までの段階と青竜、朱雀、白虎、玄武の四つの種類がある。
『白虎』は勇敢を称える。目的の場所に一番乗りしたなどの功績について与えられる。『玄武』は忍耐を称える。厳しい状況で持ち場を死守したなどの守りの功績だ。『朱雀』は献身。負傷した僚友を助けたなどの場合。そして青竜はいわば思慮だ。作戦目的のために貢献したことが評価される。
これら四つは海兵隊員の体現すべき価値観を形にしたものと言える。どんな行動が評価されるのかはその組織を決める重大な要素だ。この基準だと仮に名のある将の首をとっても作戦目標に貢献しないと評価されない。まあ敵将の首なら大体貢献するけど。それでも白虎として他と同列の扱いだ。
普通の武士がブチ切れる判定基準だが、全員が鉄砲兵という海兵隊には適していると言える。
もちろん単なる栄誉ではなく、実が伴わなければ評価とは言えない。
四級は全員に与えられる出陣手当が二割増し、三級は五割増しになる。この二つは即物的で一時的なので数をばらまける。二級は除隊後に人一人食っていく一石程度の免税。一級は家族が食っていける三石の免税が与えられる。もちろん戦死した場合などは家族への見舞金に付加される。
二級以上が除隊後なのは要するにやめられては困る人材ということになる。いわば退職金のやり口だ。さらに四種は平等だが、実は青竜は昇進に直結させるつもりだ。
今回いきなり功一級青竜章、そして隊将児玉就英も大組頭の山縣も推薦している余吉は大組頭昇進が内定していると言っていい。もちろん広島番の間に士官教育を受けてもらわないといけない。
しかしせっかくの勲章なのに余吉の表情がすぐれないのはなぜだ。心なしか、隊にもどっていく背中が丸いし。彼らの感覚なら老後安泰だって喜ぶんじゃないのか? 周囲の者たちはうらやましげに余吉を見ているが。
片腕を押さえているから、負傷が痛むのかもしれない。石鹸と金創番、つまり戦傷の手当ての仕組みは作っていて、今回も戦傷後の死者は出ていないが、しっかり養生してもらわねばな。
恩典は毛利国家が存続していることが条件だ。滅んだら恩典も何もない。一応考慮して証明書は感状に似た形にして再士官に使えるようにしてある。
少なくとも表向き毛利家が滅亡する兆しは皆無だ。今回の長宗我部戦争は勝利という形でしっかり終戦を迎えた。
土岐光秀とは淡路国分の起請文を、長宗我部信親とは四国国分の起請文を交わした。東伊予は河野家だから、毛利の領土拡大としては讃岐十二万石、淡路で四万石の合計十六万石程度だ。
だが地政学的にはそれ以上の価値がある。
讃岐の獲得により淡路までの瀬戸内海の制海権は完全に近い形で抑えることが出来る。阿波が残ったとはいえ弱体化した長宗我部なら、伊予国一円支配を確立した河野家と讃岐の毛利方で封じ込め可能だ。伊予の安定は海を挟んだ豊後の大友への牽制圧力にも使える。
軍事的に言えば国土の戦略的縦深が増し安定したのだ。事実上の保護国である伊予を合わせれば毛利の国力は三百万石に達する。西国の最大勢力であり、毛利家の最盛期が現出したと言っていい。
そもそも海洋国家は、領土の広さではなく制海権こそが国力だ。古代のアテネから、今から十二年前のレパントの海戦でオスマン帝国を破ったヴェネチア海洋帝国、そして未来のイギリスやアメリカという海洋覇権国家まで通底する戦略だ。
今回の戦争での毛利国家目標はほぼ達成したと言っていい。
まあ
つまり仮想敵国の土岐は毛利の倍の六百万石ということだ。
この和睦は光秀が北陸を統治下に組み込み、長宗我部信親が家の掌握を終えれば破綻すると考えなければならない。持って一年、下手したら半年で崩れる。
私がやることは大きく分けて三つだ。毛利国家元首としての権限強化。鎮守府による軍事改革の進行。それらに比してこれから重大なのが外交だ。
土岐を東西から挟み込むための徳川家康との連携が一番重要だ。私は歴史知識から家康を一番警戒していたが、光秀の力を考えるとそんなことは言っていられない。家康の前に光秀に滅ぼされてはどうしようもない。
対大友のための島津との同盟強化も重要だ。毛利と大友は不倶戴天の敵の間柄だ。光秀は必ず大友を動かして毛利の後背を突かせようとする。
長宗我部戦争で大友は何もしてこなかったが、その理由は島津から届いた書状で分かった。肥後国阿蘇、つまり現在の熊本県北部で島津との戦をしたのだ。あそこら辺は実際の歴史でも両家の係争地だった。両軍数千人の中規模の戦だったらしい。
驚いたのは勝ったのが大友軍ということだ。それも島津の大将島津歳久を打ち取った。おまけに指揮を執ったのは大友宗麟ではなく息子の
島津四兄弟の三男歳久は地味だが多くの戦歴と戦勲のある良将だ。一方の大友義統は島津戦では府内から逃げ出し、朝鮮出兵では友軍を見捨てた罪で改易を食らった愚将。下手したら私でも勝てそうな相手だ。
むろん戦場は霧の中、何が起こるかはわからない。だが私が歴史を変えたことでキリスト教勢力とより大きく結びついたとか、そういう理由で強くなったなら大問題だ。九州のこともしっかり情報を集めなければいけない。
天正十一年もあと少し。本来の歴史通り、ただし半年くらい遅れて勝家が敗死し旧織田勢力が土岐光秀の元にまとまった。来年は本当なら小牧長久手の戦いの年だ。豊臣秀吉も織田信雄もいないから本来の形では絶対に起こらないが、中央を押さえた土岐光秀と、東海に加えて甲斐信濃を領国に加えた徳川家康がいる。
私の知っている歴史とはどんどんずれていく。しかも敵は想像以上に手ごわい相手ばかりだ。
だが毛利による海からの天下統一を志したのは私だ。退くわけにはいかない。
そもそも私ですら天下統一できるくらいの組織を作らないと、私の目的は達成できないのだ。
天正十一年十月。豊後国府内。
大友家が三百年以上の長きにわたって守護館を置いた地、豊後の中心が府内だ。南蛮貿易の一大拠点でもあり、豊後水道に面する港には西洋船とジャンク船が並ぶ。
その異国情緒あふれる港を見下ろす丘の上には、一際目を引く建物群がある。神学校、病院、そして教会。
神社仏閣を破却して得られた木材で建設された荘厳な教会。礼拝堂にはヨーロッパからインドのゴア、マレーのマラッカを経てもたらされた十字架が設置されていた。
異教の館に片足を引きづる男が入った。男は十字架の前にひざまずいている南蛮風の豪奢な衣装の男に近づいていく。
「コンスタンチーノ様。土岐との音信、高山右近殿を通じてなりました」
「おおシメオンよ。貴君の予想通り毛利は四国の戦を年内に終えた。阿蘇での島津との戦といい、貴殿を得られたのはまさにデウスの御導きであろう」
「某の才などさしたるものではございません。コンスタンチーノ様の信仰心の賜物でございましょう」
九州随一の名門大友家当主義統、洗礼名コンスタンチーノ。そして本来なら豊臣秀吉の天下統一を参謀として支えたはずの黒田孝高、洗礼名はシメオン。二人のキリシタンはステンドグラス下で神に祈りをささげた。
「シメオンよ。貴殿の智謀で毛利を豊前から追い出す策を授けておくれ」
「門司城は先日小西殿の船にて逃れてきた来島を用いるのがよろしいかと。某も中津からしかと指南いたしまする」
清浄な祈りを終えるや義統はすがるような目で孝高を見た。孝高は恭しい態度で進言した。
関門海峡に位置する門司城は毛利が九州に持つ唯一の城だ。
******* 後書 *******
2024年4月3日:
ここまで読んでいただきありがとうございます。おかげさまで第二章を完結させることが出来ました。
ブックマークや★評価、いいねなどの応援感謝です。コメント、レビューはとても励みになっています。また誤字脱字のご指摘には本当に助かっています。
第三章ですが『毛利包囲網(仮)』として現在構想中です、開始は4/20(土)の予定です。
それでは今後とも毛利輝元転生をよろしくお願いします。
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