第十五話 長宗我部戦争 互いの後背
天正十一年九月。阿波白地城。
「毛利軍、泥子砦へ向かっております」
「天神山砦から五十加勢させよ」
「その天神山ですが弾薬が残りわずかとのこと」
「今夜にも白地から入れると伝えよ」
白地城の主曲輪では支城からの後詰依頼の使者と、その使者に返答する戦奉行の声が交差していた。それらの声を聴きながら、長宗我部元親は戦場全体を頭脳に描いていた。
泥子砦は白地城から南西。毛利は南側からこの白地城へ回り込もうとしたのか、あるいは土佐との連絡を断とうと考えているのか。
どちらにしても無駄攻めだ。白地城と各支城は狭隘な地形を生かして配置しており、複数の間道で相互に繋がっている。敵の大軍を受け止めることを前提に作られているのだ。
最初の攻撃が雲辺寺山砦に向けられた時は毛利軍侮れぬと思った。北西にある雲辺寺山砦は讃岐の天霧城との連絡の要だ。その讃岐に攻め寄せた小早川軍があっと言う間に沿岸を押さえ、十河城まで陥落させた手際は想像以上だった。
元親の心胆を寒からしめた敵の攻勢は、しかし結局は思い描く戦場絵図を揺るがせはしなかった。多数の狭間筒による白地城そして天霧城の守りは鉄壁だ。単に大軍が馬鹿の一つ覚えのように攻撃すれば落ちるものではない。
むしろ大軍を山中に置くことに苦しむのは毛利だ。大坂で光秀に庇護されていた来島通総は旧領を奪取した。背後が気になって仕方がないはず。長引けば長引くだけこちらが有利になる。
多少は警戒していた名手ぞろいの鉄砲兵も出てこない。やはり西園寺公広の虚言であった。公広は南伊予攻撃に連れて行かせたが、久武親直の知らせでは旧臣への調略もはかばかしくないようだ。戦が終わったら出家させ寺にでも押し込めるか、あるいは……。
「毛利の屋形が戦下手とは真であったな。伊予のことは小早川隆景の差配か」
「殿。阿波より本日分の弾薬、定められた数量通り届きましてございまする。香宗我部様から書状が付されておりました」
焔硝蔵を管理する側近の非有が報告する。非有は谷忠澄の弟で真言宗の僧侶だ。計数に明るいため兄ともども重用している。元親はまず非有がまとめた焔硝蔵の記録を見る。
紀伊からの中継拠点である徳島城からの弾薬は四日あるいは五日ごとに切れ目なく運ばれてきている。最も信頼できる弟親泰の働きは期待通り。だがそれでも弾薬に余裕はあまりない。
伊予攻略のための一万五千の為に蓄えていた兵糧は十分だが、長宗我部家が従来備えていたよりも数倍の鉄砲が日々吐き出している弾丸と弾薬は莫大だ。土佐に来た南蛮船から鉛塊を仕入れて弾丸は何とかしたが、弾薬は余裕がない。しかもここから讃岐の天霧城に優先的に届けねばならない。
土岐光秀め、出し惜しみしおって。大方毛利とぶつけ合わせて共倒れでも構わぬとみているのだ。口では親類と言っても所詮は上方の者のやり口よ。
忌々し気に歪んだ元親の唇が弟からの書状を開いたとたんに緩んだ。次の荷で百丁の小筒と相応の弾薬届けられそうだという知らせだったのだ。それは元親が待ち望んでいたものだ。
「このままでは讃岐を捨てるとまで言った甲斐があったわ。親光、例の準備はどうなっておる」
元親は桑名親光に問うた。桑名家は久武と並ぶ長宗我部の三家老で、親光は三十代だが勇将として名を成している。将来信親を支える重臣として期待している者だ。
「はっ。馬路を止める算段整っております。これを」
親光は元親の前に絵図を差し出した。馬路の細い部分を木と岩でふさぐための準備、そして兵を伏せるべき場所が記されている。
山中に大軍を入れた毛利の弱点はこの細い補給路であり退路だ。そこを塞ぎ撤退に追い込む。そして百丁の鉄砲で奇襲をすれば……。
毛利本軍を敗走させたとなれば念願の四国一統だ。輝元の首を上げることでも出来れば中国の国の一つ二つ奪い取れるやもしれん。それは今後の上方との関係に大きな意味を持つ。
元親には光秀の思惑通りに毛利とつぶし合うつもりなどない。光秀が長宗我部を走狗として使うつもりなら、それを越えてやればいい。
天正十一年九月。伊予国法華津。
小早船五艘は一もかけることなく法華津の湊に付いた。心配じゃった訓練生の一艘も何とかついてきた。流石選抜された者たちじゃな。これは儂らもおちおちしておられんかもしれん。
とにかく疲れを取るが先じゃ。風待ちのため陸で休めるはありがたい。じゃが組の者たちを油断させるわけにはいかん。
この法華津は戦場にはなっておらんが、すぐ南の丸串城は長宗我部軍の攻撃を受けておる。ここの番兵の中にも手や足に布を巻いておる者もおる。後詰に出て傷を負ったのじゃろう。
「鎮守府の者ら。宍戸の心づくしじゃ」
上陸した儂らの前に立派な鎧の若い武将が来た。よく見ると最初に伊予に来たときに兵糧を運んだ宍戸の若様じゃ。そういえばここの番頭じゃったな。南国の陽に焼けたのかずいぶんと顔が黒くなっておる。
茶色い握り飯を積んだ盆が儂らの前に運ばれてきた。味噌がたっぷり塗られた握り飯じゃ。櫓をこいで疲れた体に染み渡る味じゃ。
「宍戸殿、馳走感謝いたす」
「児玉殿。これが務め故に気になされるな」
「いやいや、遠地での番役の苦労は某もよく知っておるつもり」
「なに。六十人とは言え、精鋭の鉄砲が入るなら、安いものよ」
隊将児玉様が宍戸の若様と話しを始めた。握り飯に大忙しの組の者を見ながら、儂は話に耳を傾ける。今回の戦立てはまだ明かされてはおらん。五艘の内四艘はここからさらに海の向こうに向かうということだけじゃ。
「そうそう所望されていた者は用意できています。この者を土佐の岡豊や阿波の海部の湊まで船を扱っておる廻船商人から借り上げた」
「案内を務めさせていただきまする、久兵衛にございまする」
鉢巻を頭に巻いた真っ黒の男が前に出た。おそらくここの船頭じゃろう。
「久兵衛。これが約束の銀だ」
「ありがとうございます。ですが頂戴する前に一つだけ言上がございます。なるべく沖を通りたいとのことですが…………」
「申してみよ。ここからの海は其方が頼りだ」
「では。この法華津から土佐の足摺岬までは天候が持てば何とでもなります。ですがそれを越えたが最後、引き返せぬものとお考えを。土佐沖の潮はここらとは力が違いますゆえ」
「少しでも航路を誤れば海のかなた」じゃと。恐ろしい話を聞いてしもうた。この戦が終わったら広島城番、三の組になれるというに無事に戻れるじゃろうか。
いや、必ず生きて帰らねばならん。呉から出る前に菫からもう一度会いたいと文をもらっておるのじゃ。
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