第十一話 ハルノート?
天正十一年八月。安芸国広島城。
「宮司殿。この書状、いささか合点がいかないところがあるのですが」
私は本丸御殿の小座敷で瀬戸内海を越えてきた使者に問うた。長曾我部元親の返書には、いささかどころではない要求が記されていた。
広島城本丸は公的な用途に使えるようになってきた。この小座敷は私の生活スペースである奥と年賀などが行われる大広間の間にある。重要だが公にしにくい相手、例えば潜在的敵国の使者と会うのに適した部屋というわけだ。
私の前でにこやかに笑っている狩衣の正装を纏った男がその使者だ。名前は谷忠澄。穏やかで感情を感じさせない表情はまさに神職という様で、煮ても焼いても食えそうにない。
ちなみに宗教者は一種の中立性を持つことから、外交の使者として用いられることが多い。毛利にも安国寺恵瓊がいた。将軍も僧門に入った親戚を全国の大名への使いに用いている。有名なのは足利義輝に重用された道増だ。
ちなみに全国の山伏の総元締めである聖護院門跡で、将軍の妻の実家で、五摂家近衛出身というこれ以上ないという権威をまとった道増ですら、戦国大名同士の戦争には大した影響力を持てなかった。
存命だった
ことが安全保障である以上、武力の後ろ盾がない権威には限界がある。国連事務総長の和平勧告で戦争が収まらないようなものだ。
谷忠澄は忠義、勇気、智謀を兼ね備えた男で本来の歴史でも外交交渉で活躍した長宗我部家の重臣だ。秀吉の四国征伐では数万の大軍に囲まれながら奮戦。元親に切腹を命じられるほどの怒りを浴びながら豊臣政権への降伏を説得し、長宗我部を滅亡から救った。九州戸次川の合戦で長宗我部軍が敗れた時は、島津陣へ元親の嫡男の遺骸を受け取りに行った。
そんな忠澄を派遣してきたということは、毛利との関係を真剣にとらえているのだと私は期待していた。だが受け取った元親の返書には「西園寺公広を
直接戦ってはいないとはいえ、実質負けた側の言うことではない。丸串城は既に土居清良に与えているし、法華津城の海兵隊基地としての整備も進めている。
飲めるはずがない要求だ。この時代の外交文章では「詳しくは使者が伝えます」が定型文なので、私は使者の忠澄に真意を問うているわけだ。
「はて、宇和郡は代々西園寺家の治めたる地。主元親は四国探題としてそれを尊重すべきとの考え。中国の毛利様が差配することこそ合点がいかぬところがあるかと」
「これは伊予守護河野通直様のご下知。長宗我部様が口を挟むのはそれこそ通りますまい」
宍戸隆家が言った。いわば河野家の代弁者として同席させている。ちなみに孫の元続はまだ南伊予に駐屯中だから、軍事的にも当事者だ。
「さて、河野家中では京の公方様より呉の将軍様に出仕した方が良い、などという巷説もあるよし」
忠澄は言ってのけた。確かに河野家は毛利の実質保護国だ。でも本当にそんな巷説が流れているとしたら、撒いたのは長宗我部だろうと言いたい。
「さらに宰相様からの知らせでは、朝廷で先右近衛大将西園寺実益様が御不快のご様子」
西園寺実益、伊予西園寺家の本家筋だ。親戚が領地を追われれば愉快じゃないだろな。でも長宗我部は清華家どころか、摂関一条家の領地を奪ってるじゃないか。一条家が返せと言ったら中村城を返すのか?
というか、話の本筋はそこではない。
毛利は伊予守護河野通直の要請の元、伊予守護に謀反した西園寺家を討ち、忠誠をつくした土居清良にその領地を与えた。こちらの手続きには瑕疵はない。
要求通りに西園寺公広を丸串に戻せば毛利、河野の権威は地に落ちる。武士にとって一番大事な領地の保証が無意味なものとなるのだ。もちろん長宗我部の後押しで南伊予にもどった西園寺公広は、長宗我部の尖兵となる。
「つまり西園寺の丸串復帰は管領代土岐殿の意と」
「さて宰相様の御深慮はともかく。主元親は宰相様より四国のことは探題にとのお言葉を頂いております」
はっきり言ってハルノート並みの要求だ。それも国力的には日本がアメリカに突き付けるハルノートだ。いや、現代で例えると
「つまり長宗我部殿は西園寺公広の丸串復帰がならねば、弓箭に訴える覚悟ということですね」
「左様な恐ろしいこととても我が口からは言えませぬ。ただ四国のことは四国の者が決めるが道理、主元親はそのように考えているということでございます」
念を押した私に、忠澄は穏やかな表情を全く変えずにそう答えた。私は隆家を見た。隆家は硬い表情で小さく頷いた。最初は過大な要求を突き付けてこちらの譲歩を勝ち取ろうとしたのかと思ったが、ハルノートどころか宣戦布告だ。
西園寺公広の旧領復帰という大義名分で戦をすると言いに来たのだ。
谷忠澄が帰った後、私は西日本の絵図を広げながら、先ほどの会見のことを考えた。
毛利は十二ヶ国、ざっと二百万石余だ。一方の長宗我部家は東伊予を含めても五十万石もない。さらに河野家が東伊予以外の三十万石をしっかり固めている。しかも毛利は動員体制を完全に解いていない。
毛利&河野vs長宗我部と考えれば元親に勝ち目はない。
実際元親は伊予侵攻を止め讃岐、阿波、土佐に次男、弟、長男を配して守りを固める体制になった。そこから一転して毛利家に宣戦布告を突き付けてくる理由がわからない。
長宗我部に味方するとしたら畿内の土岐と九州の大友だ。毛利の仇敵である大友は数年前の耳川の合戦で島津から受けた打撃から立ち直りつつある。だが毛利はそれに備えて島津と対大友同盟を結んでいる。
本来の歴史では今後島津は肥後の竜造寺を下し、九州の大部分を制する。大友が滅びなかったのは豊臣政権が介入したからだ。長宗我部にとって大友は頼りにならない。
土岐光秀は中央を握り毛利以上の国力を持つ。しかも長宗我部とは親戚関係だ。だが現在柴田と戦争中だ。しかも北近江に攻め込まれている。光秀にとって近江一国は、四国全島よりも何倍も重要だ。当面は西に兵を動かす余裕はない。柴田が健在の内に毛利を敵にしたら挟み撃ちになる。
実際、先ほどの会見でも光秀が長宗我部に付くとは言わなかった。だが、柴田がもし滅んだあとならどうなるか。長宗我部に四国全島をくれてやっても、中国十二ヶ国を領する毛利よりもはるかに御しやすい。
光秀が長宗我部と一緒に毛利に攻めてくる公算は十分ある。
むしろ毛利の立場からすれば、光秀が出てくる前に長宗我部を叩く好機か。讃岐を奪い取れば瀬戸内海が毛利の内海になる。前回の伊予防衛戦と違って讃岐を得られるなら、国衆に恩賞も出せる。東伊予の奪還のために河野家も喜んで兵を出す。
伊予と讃岐がこちら側となれば兵力だけで長宗我部と互角以上の体制を作れる。光秀が柴田を滅ぼしてこちらに来たときに長宗我部を島内に抑え込める状態にできる。
最終的に光秀と戦争になるのが避けられないと考えるなら、毛利の脇腹を突く長宗我部を各個撃破するチャンスだ。一層のこと長宗我部との戦争を使って、
伊予防衛から長宗我部との戦争に国家戦略を転換する決意を私は固めた。仮にも戦国大名だ、戦うべき時には戦わなければならない。
私は部屋を出て堅田元慶を呼んだ。
「叔父上に使者を頼む」
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