閑話 戦略破綻
天正十一年七月。阿波白地城。
三ヶ国の大軍を前に、四国探題長宗我部元親は出陣の号令を掛けようとしていた。
自身が率いる土佐衆に加え、弟香宗我部親泰の阿波衆、香川家に養子に入れた次男親和の讃岐衆、合わせて一万二千を超える。東伊予で合流ずる金子ら従属国衆を加えれば一万五千になるだろう。
毛利輝元が伊予に入ったと聞いた時は予想より早い動きに驚いたが、内応を約している河野家家臣の知らせで正体は知れた。兵数は四千に過ぎず、多くの中国国衆を揃えているが、それぞれの兵は百に満たないという。
野戦おいては個々の部隊の大きさが重要だ。毛利の後詰は籠城にしか使えない。そして輝元は西端の港山城に入ったまま動かない。瀬戸内海の小早川水軍も土佐、阿波、讃岐の水軍衆に積極的に仕掛けてこない。
伊予国衆の離反を防ごうと手持ちを投入したのだろう。つまり時間稼ぎだ。
毛利の後続が海を渡ってくる前に、東の主力に加え南の支軍で挟み撃ちにすることで伊予国衆を離反させ、丸裸にした湯築城を短期間で落とす。四国一統の戦略を変える必要はない。
久武親直は首尾よく西園寺公広を寝返らせた。もはや南伊予で抵抗するのは土居清良の大森城一つ。今頃は落ちているはずだ。
本能寺から一年を掛け積み重ねた我が経略は万全、その確信をもって元親は乗馬の鐙に足を掛けた。
城門から母衣武者が駆けこんできたのはその時だった。土佐中村城から昼夜を問わずに駆け付けた親直の知らせにより元親の足は鐙から離れた。
「丸串城が落ちたとはどういうことか親直。毛利軍は先日港山に入ったばかりぞ」
白地城の本丸。出陣を停止した元親は土佐中村城から報告のために駆け付けた久武親直を怒鳴りつけた。
「申し訳ありません。西園寺公広殿は何とか我が勢にて保護いたしました」
「公広などどうでもいいわ。なぜ毛利がこれほど早く南伊予に大軍を送れたのじゃと聞いておる。港山城の毛利本隊は動いておらぬぞ」
「……西園寺公広が言うには丸串を襲った毛利軍はわずか船四艘、二百数十と」
「なんだと。大物見に本城を落とされたというのか」
「丸串より逃げてきた西園寺兵が言うには、毛利勢はすべての兵が鉄砲を持っており、全員が名手であったと」
「毛利が雑賀衆でも連れてきたとでも言うつもりか。雑賀は土岐殿に従っておる。先の阿波の謀反鎮圧にも我が方に味方したぞ」
「おそらく己が不甲斐なさを糊塗しようとしたものと。某の指南が至らなかったこと伏してお詫び申し上げます」
「一条よりは骨があると思ったが所詮は公家上がりか」
脂汗を流しながら平伏する親直を見ても、怒りは収まらない。元親は拳をわななかせた。
「兄上、南予を土居清良が守となれば、伊予攻めは容易にはいきませぬぞ」
主君の怒りに静まり返った一門重臣の中で、香宗我部親泰が口を開いた。信頼する弟の言葉に元親はなんとか冷静さを取り戻した。
二万の兵力を動員して五千に満たぬ毛利の援軍に跳ね返されたとなれば長宗我部の威信は地に落ちる。内応を約束していた伊予国衆も何食わぬ顔で河野にもどる。
元親は暗澹たる気持ちになる。信長の横死から一年余、天が長宗我部に四国を与えたと信じて築き上げた軍略がこの手から零れ落ちていく。
その時、一人の近習が部屋に入ってきた。近習は重苦しい空気に身を固める。そして恐る恐ると言った体で来客を告げた。
「殿、京より石谷殿がお越しになりました」
その知らせに元親はばっと顔を上げた。
「石谷殿。土岐殿、いや宰相様から手合いを頂けぬか」
元親は土岐光秀からの使者である石谷頼辰に言った。頼辰は幕府奉行衆にして土岐家の重臣、そして元親の妻の義兄として長宗我部の取次を務める。独力での四国統一が不可能になった元親にとって、唯一の希望だ。
元親の言葉に頼辰は困った顔になる。
「難しいことをおっしゃられまするな。主光秀は柴田との戦の最中。北陸勢は侮れず佐久間盛政を先鋒に、小谷城まで押してきております。今西方に兵を出し毛利と事を構えるは……。それを承知で兵を上げたは長宗我部様でございましょう」
頼辰の正論に元親は顔をゆがめた。柴田を下したら光秀はどう態度を変えるかわからない。その前に己が独力で四国一統を目指したのは元親だ。
「だが、このままでは伊予は完全に中国毛利の手の内。瀬戸の海を止められては
元親は重ねて言った。
「無論主も瀬戸の海を毛利が勝手にすることを憂いていまするが……」
「紀州の雑賀と畠山だけでも遣わせていただければ、毛利に一泡も二泡も吹かせて見せる。柴田を下したのちに宰相様は中国に馬を進められよう。その時には必ずや御恩を返す覚悟じゃ」
頼辰は思案顔になった。元親はここぞとばかりに畳みかける。
「土岐から兵を出すはやはり困難。代わりにこの二つを差し上げるのはいかがか」
石谷頼辰は紙に筆を走らせた。差し出された紙を見て元親は息をのんだ。そこには毛利との戦に不可欠な物資と河野家の伊予支配を脅かす人物の名があった。
「荷はあくまで内々のもの。こちらが運ぶは阿波沖までとなりまする」
「分かっておる。親泰には受け取りのための準備を万端に整えさせる」
元親の四国一統の闘志は再び燃え上がった。我が四国に嘴を挟んできた鴫を狩ってくれる。
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