第八話 南伊予の仕置き
天正十一年七月。伊予湯築城。
「謀反の首謀者法華津前延を見事に打ち取るとは、流石は伊予にその人ありと聞こえる土居式部大輔殿。その顔を見れただけで伊予に渡った甲斐がありました」
丸串城の陥落より四日後、私は湯築城で今回の殊勲者と会っていた。長宗我部に寝返った西園寺家中にあって最後まで親河野の姿勢を崩さず、居城である岡本を落とされても大森城で籠城を続けた。海兵隊による丸串城陥落は彼の奮闘あってのものだ。
「過分なお言葉恐縮の極み。すべては鎮守府将軍様の神速の後詰あってのことでございまする」
土居清良が両拳を着いて頭を下げた。まだ三十半ばだが、頬に大きな刀傷がある風貌はまさに歴戦の猛者だ。流石は軍記物の主人公を張るだけのことはある。
土居清良の名を知る者は多くないだろうが、この男は並の武将ではない。江戸時代に記された『
しかも農政家としても有名で、現存する最古の農書の成立に関わり、死後は神社に神としてまつられているほど民に慕われた。さらに言えば毛利の援軍として中国各地の戦で活躍したなんて話もある。
もちろん清良記は軍記物、それも清良の子孫によって書かれた上に、江戸時代に大幅に改変された跡がある。私が調べた限り、大友の攻撃で若くして祖父や父を失い城を追われた後、軍功を立てて城への復帰を許されたこと。そして二年前の長宗我部の伊予侵攻時に重臣久武親信を打ち取ったことは事実だ。
ちなみに配下全てが鉄砲隊とか、毛利の援軍として中国各地を転戦したことは確認できない。そもそも後者が本当なら私と初対面なわけない。丸串城陥落後に清良とあった児玉就英の話では海兵隊が全員鉄砲を持っていることに驚愕していたらしいし。
それはともかく確認できただけでもその軍事的能力と内政能力は本物だ。伊予の安定のためにこれほどの武将を活用しない手はない。海兵隊の活躍で得た戦場での勝利を、毛利の国家目標である伊予防衛につなげる。
いわば勝ちを価値に変えるのが、国家元首である私の役目だ。
「通直殿」
私は隣に座る河野通直に発表を譲った。伊予守護はあくまで通直だ。
「土居清良の此度の忠義の誠、武勲ともに隠れなきもの。丸串城と西園寺旧領を与え、宇和郡を任せる。土居家は河野から分かれたと聞く。今後は一門として頼みにするぞ」
「はっ。ありがたき……。宇和郡全て……丸串も某に、賜ると」
清良は思わず顔を上げた。報償とは通常、命がけで尽くしてたったそれだけ、が相場なのだが清良の驚きは逆だろう。
清良は西園寺傘下の国衆から、南伊予の大半を占める宇和郡の旗頭にして河野家一門重臣に列することになる。旧西園寺国衆を纏めれば約八万石、二千の兵力を指揮する立場になる。河野宗家に次ぐ伊予国第二位、大名と言っていい地位だ。
「恐れながら。丸串城は鎮守府将軍様の御人数により陥落したものでござる。某が賜るは重賞にすぎまするが……」
清良は私の真意を窺うように言った。領地十倍という褒美に有頂天にならないのは流石だ。
基本的に城は落とした将が権利を持つ。しかも丸串は豊かな港だ。本来の歴史では宇和島と呼ばれ、江戸時代は伊達藩十万石の城として栄える。相場なら清良が打ち取った法華津前延の法華津城を与えられれば御の字と言ったところだろう。
「むろん私も同意のことです。丸串、岡本、大森の三城を清良に預けてこそ南の守りが成る、守護殿とそう相談しました」
「重恩、伏して感謝いたします。この命に代えても伊予の南を守って見せまする」
清良は拳に力を込めて、改めて平伏した。南伊予は豊後や土佐に挟まれる地だ。今回も長宗我部の標的になったし、過去には大友にも狙われた。いわば伊予の安定の要。
軍事、内政能力はもちろん、経歴から長宗我部や大友に与することが考え難い清良にゆだねることは、伊予全体の安定に資する。重賞ではあるが重責でもあるのだ。
河野通直はもちろん、平岡直房や大野という河野家重臣も清良の抜擢に納得しているのはその為だ。
「ただし丸串に変えて法華津城を鎮守府に預けて頂く。旧法華津領は清良殿に代官職を与えるゆえ、半済を法華津城の港整備及び兵糧等の蓄えを任せたい。引き受けてもらえるでしょうか」
「鎮守将軍様の精鋭のお力、此度骨身に染みましてございます。誓っておろそかには致しませぬ」
「土居清良を鎮守府軍監に任じます。今後ともよろしくお願いします」
朱印状を捧げ持ち平伏した清良に私は言った。
これで清良は河野家家臣であると同時に鎮守府の属官でもあることになる。長宗我部の最前線を任される清良にとってもメリットだ。
もちろん丸串を譲った私には思惑がある。海兵隊の海外基地としては丸串より法華津の方が優れているという判断だ。シーパワー国家は領土という面より、海上交通の要衝である点の支配を重視する。
法華津城は丸串に比べて小さいとはいえ、豊後水道に面した湾の奥にある港を有する。そして清良が管轄することになる丸串、岡本、大森という防衛ラインの内側にある。鎮守府海兵隊にとっては豊後、土佐を睨む絶好の中継点だ。
つまり同盟国に海兵隊の拠点を置くモデルケースだ。将来九州や四国に何かあった時により迅速な行動がとれる。
とりあえずこれで今回の南伊予の謀反の始末はついた。
いや、もう一人いたな。私は清良の後ろで控えている若い男を見た。清良が殊勲者としたらこの男はある意味で戦犯だ。
「元続。此度の大森城の後詰のことご苦労でした」
「和睦の儀、御屋形様の御骨折りを損ねたことお詫びのしようもなく」
出発前に毛利の脇柱と言ってのけた鼻っ柱は折れているようだ。小さな城で数倍の兵に囲まれる経験は宍戸家御曹司には強烈だっただろう。一歩間違えば吉川経家と同じ最後になっていた。
これで一応は責任はとった形だ。西園寺軍の追撃でも宍戸軍は少なからず働いている。今回の伊予出兵で最大の負担をしたのは宍戸家だ。
「元続は南伊予が落ち着くまで法華津城に置く。清良殿と音信を密にせよ。此度のことで清良殿の武勇は知ったであろう。むしろ指南を受ける心持で努めよ」
「か、かしこまりましてございます」
清良は今後主君の領地を治める。鎮守府軍監という誰も聞いたことがない肩書だけでは不十分だ。毛利一門であり河野通直との血縁関係がある元続はうってつけ。
清良は鎮守府の属官なので、実際には私の直属だ。だが対外的には元続が毛利国家における土居家取次とみられるから、面子が立つ。
「後は長宗我部の動きですね。小早川水軍からの知らせでは白地城の元親は動きを止めたようですが」
「直房の調べでは東伊予の国衆も城に閉じこもったままです。また道後周囲の国衆たちも態度を改めたよし」
私と通直は状況を確認し合った。
長宗我部元親の勝ち筋は、東と南から一挙に伊予を占拠すること。南の攻め口がつぶされたどころか清良により防衛が強化された。元親になびこうとしていた伊予の他の国衆も動きを止めた。
平岡直房曰く「鎮守府将軍様の武威に震え上がった」そうだ。これで、本来の歴史のように伊予が簡単に落ちることはない。
もし元親が伊予攻めを強行しても毛利の総動員まで伊予は耐える。戦略的に元親の勝ち目はなくなった。もちろん戦は何が起こるかわからないが、三ヶ国の主がそんなギャンブルはしないだろう。
元親には私から書状を送った。内容は「南伊予のことで四国探題殿にはご心配をかけたが、収まりましたのでご安心を」という友好的なものだ。
何しろ毛利は
海兵隊の一撃により長曾我部元親の四国統一戦略を、伊予の国内問題として処理することが出来た。これが今回の最大の成果だな。
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