第五話 軍議

天正十一年六月。安芸国呉鎮守府。


「土居清良の岡本城が西園寺公広の攻撃で陥落した? どういうことですか」


 急遽伊予から戻った隆家の報告に私は唖然とした。


 つい先日、土居清良と法華津前延の和睦を中人として取り持ったばかりだ。まさに誓詞の血も乾かぬうちに。いかに戦国の世でもそうない。


 というより西園寺家中の和睦破綻どころではない。西園寺家の当主である公広が法華津前延と共に土居清良の岡本城を攻め落としたのだ。もはや単なる家中の諍いではない。ましてや主君が家臣を討伐という話でもない。


 親河野代表である清良を当主公広が自ら攻撃したということは、西園寺の河野家に対する謀反だ。当然毛利への公然たる敵対である。


 西園寺家は伊予最大の国衆とはいえ八万石程度。河野ならともかく毛利に敵対など単独で出来ることではない。別の勢力に鞍替えしたということだ。南伊予は隣の豊前や土佐の影響を受ける地域だが、状況から考えると長宗我部だろう。


 だが、西園寺は土佐からの攻撃に何度もさらされてきた家だ。


 十五年前の毛利の伊予出兵は西園寺家の救援でもあった。南伊予で西園寺家と並び立つ宇都宮家が土佐の一条家と組み、河野側の西園寺家を攻撃したのだ。毛利の援軍もあって宇都宮氏は滅びた。


 皮肉にもこの戦で衰退した一条家に変わって土佐を制したのが長宗我部元親だ。その長宗我部が先年南伊予を攻撃したとき、西園寺家は件の土居清良と法華津前延の力で撃退した。


 それが一転して長宗我部に寝返った。それも毛利の面子を踏み潰す形で。


「孫めが失態をいたした。和睦の席で西園寺の指南をすると放言を」

「西園寺公広の面目をつぶしたか……」

「某から急ぎ詫びの文を出したのだが間に合わなかった。功をあせった孫を御せなかった。面目次第もない」


 隆家は私に頭を下げる。宍戸家は今回海を越えて二百を超える兵を出している。その成果を得ようとするのは理解できる。河野と西園寺の取次を兼ねれば宍戸家は伊予一国の取次と言っていい立場になる。元続はそれを狙ったのだろう。


 元続は中間地の八幡浜で留まっていたし、和睦成立まで進んでいたから私も油断した。まさか和睦成立のまさにその瞬間にやらかしたとは。今思えば海兵隊からの報告にそれらしい記述があった。


 この場合の『指南』とは大名の取次が傘下国衆を指揮することを言う。現代で言えば大企業の幹部が取引先の中小企業の社長に指示を与えるみたいな関係だ。国衆はあくまで独立した一家なので、命令ではなくという言い方をするのだ。


 毛利と西園寺の力関係ならではある。ただしあくまで向こうから願われたというを崩してはダメだ。


 西園寺は清華家という摂関に次ぐ高位公家が京から下向した名家。南伊予で長く勢力を保ってきた自負もある。二十歳の若造に家臣の前でそんなことを言われればそれこそ面目が保てない。


「しかしこれほど早い現形うらぎりとなると、以前より手が入っていたということですか」

「左様。調べでは法華津前延の城に長宗我部からの使いが何度も入っていたよう」


 法華津前延はとうに長宗我部に調略されていたのだ。そして主君である西園寺公広を長宗我部に鞍替えさせるために、親河野の土居清良の排除を狙っていた。杣争いはきっかけに過ぎなかったということだ。


 そもそも西園寺公広が法華津前延の土居清良攻撃を黙認していたのは、心は長宗我部に傾いていたというべきだろう。


「恥を忍んで申し上げる。毛利の面目を保つために西園寺公広に対し、断固たる対処を」


 隆家が苦渋の顔で言う。そう中人としての和睦を取り持った私の面目は丸つぶれになった。放置すれば伊予における毛利の威信が消失する。毛利の威信が消失すれば河野道直は伊予を保てない。


 統一公権力がないこの時代、殴られて殴り返さない人間は、いくら殴ってもいいと認識される。警察はいないのだ。いや私が警察の役割だ。前世でアメリカがかつて『世界の警察』と言われていたのは、これと全く同じ意味だ。


 私が駄目なら他の四国探題おまわりさんに皆頼る。


「岡本城を落とされた土居清良はどうしていますか」

「奥の大森城に逃れ籠城しております。此度の責として元続を後詰に向かわせております。西園寺家だけなら耐えられましょうが。土佐から長宗我部が来れば持ちこたえられぬかと」

「分かりました。伊予に兵を出すしかありませんね」


 平和維持活動失敗。事態は伊予国防衛戦に悪化エスカレーションだ。




 三日後、吉田郡山城に毛利国家首脳を私は集めた。毛利庶家筆頭で本家の宿老福原貞俊、山陽担当の小早川隆景、そして熊谷、天野といった安芸国衆の代表格が参加している。宍戸隆家は対処のため追加の兵を率いて伊予にもどっている。


 中国十二ヶ国で一番最後に毛利に服属した因幡に出張っている吉川元春はあいにく不在だ。もともと今回のことで山陰の国衆まで動員するのはきつい。畿内の土岐がおかしな動きをしないように、播磨の穂井田元清と共に東に備えてもらうのが一番いい。


「伊予出兵となれば安芸を中心に動員せねばなりませんが、これは苦労でございますぞ」

「然り。熊谷は広島に普請手伝いを出しておる。佐東銀山城の解体は勝手知ったる当家中心に行いましたからな」

「左様。我が天野の人数はいま普請現場で内堀を掘っております」


 福原が言うと熊谷、天野が同調した。両名は毛利傘下の安芸国衆の中でも早くから毛利に服属した近しいものだ。それでも不満を隠さない。


 この時代の軍事動員は大きな制約下にある。家臣はそれぞれの領地に自分の兵を抱えている。その大半は普段は自分の田を耕していて、動員がかかれば兵としてはせ参じる地侍だ。


 そして彼らを動員する費用は自己負担だ。武器も兵糧も自分で用意して持ってくる。それも含めた領地きゅうりょうだからだ。それは普請手伝いでも同様で食費などは毛利家ではなく、彼ら自身が負担している。


 その状況で海を越えて伊予まで兵を出せと言われたら堪らないのだ。


 そもそもこの兵制は一国内で争っていた時代のものだ。数ヶ国を支配する戦国大名にとって国境は遥か遠方になった。自然軍事負担は大きなものになり、疲弊して軍役が務められなくなる。最悪反乱がおきる。


 だからこそ戦場に近い土地のものを動員して少しでも負担を減らす。遠国に派遣せざるを得ない場合は輪番として、さらに兵糧を毛利家が援助するなどで負担を軽減する。


 それでも防衛戦争となれば彼らも我慢して協力する。最終的には自分達の領地に関わるからだ。だが今回は河野家への援軍である。国衆にとっては一番やる気が出ない戦だ。


 河野家が滅ぶことは毛利国家にとっては重大事だが、彼らの自領が直接危険にさらされているわけではない。しかも上手くいっても伊予は河野家のままだから加増が期待できるわけでもない。


 ただし毛利家にはそれに対して対処する方法があった。


「御屋形様。ここは広島築城を一度止め、手伝いの軽減と浮いた銀で国衆に動員を命じるべきかと」

「それは出来ません。広島築城は毛利国家の今後を決める大事」

「では御屋形様の鎮守府をあきらめなさるか」

「それも出来ない。やっと最初の部隊が形になったところだ」

「ではどうなされます。服属間もない備前美作の衆に主力を任せるわけにもいきますまい。長門は大友への警戒からそう多くは動かせませぬぞ。永禄の出兵とは敵の大きさが違いまする」


 本家宿老として鳴らしてきた福原の言葉は正しい。『毛利家の第二次てんしょう伊予出兵』は第一次えいろくとは規模が全く違う。第一次は土佐の第一勢力に過ぎない一条家だったが、今回は四国の半分以上を支配する長宗我部との戦いになる。


 万全を期すなら最低二万を動員、伊予に加えて讃岐も攻撃しなければならない。特に讃岐攻撃がまずい。河野との同盟関係を理由に伊予に援軍を派遣するだけならともかく、長宗我部領である讃岐を攻撃したらそれはもう毛利と長宗我部の戦争だ。


 毛利の立場では四国は現状維持でいいのだ。伊予は四国で最も豊かな国だ。河野家が伊予を保ってくれれば四国の四割はこちら側と計算できる。


 そもそも現状の国家体制で四国にまで直接支配を広げたら崩壊しかねない。それを何とかするための海兵隊と広島城だから、今回の戦でそれを止めたら国家戦略としては破綻だ。


 私の考えではこの戦争は河野家の伊予防衛戦にとどめるのが望ましい。


 だがそれはあくまでこちら側の都合。相手には相手の思惑がある。


「叔父上。長宗我部はいかなる戦立てで伊予を攻めようとすると考えますか」


 私は隆景に聞いた。山陽担当の隆景は四国にも詳しく、第一次伊予出兵でも大将を務めた。


「長宗我部元親は近年阿波の白地城を強化している。ここから東予国衆を従え東から。そして今回現形した西園寺を先鋒に南から。東と南の双方から湯築城に迫るだろう」

「長宗我部の主力は東と南、どちらでしょう」

「東しかあり得ぬ。東予の金子らは長宗我部に服属して数年を経ている。一方南予の西園寺は今しがたまで長宗我部に敵対していた。阿波の白地城から湯築城に進軍する軍が主力となる。元親自身が率いるなら少なくとも一万五千、毛利の兵がそろうまでに片を付けようとするであろう」


 隆景が断言した。隆景以外が断言したらむしろ疑うところだが、間違いないだろう。実際軍事的には他にあり得ない。


 長宗我部の目的は毛利が介入する前に伊予を制圧しきること。そうすれば海が防壁となる。毛利水軍は長宗我部水軍に勝るが、水軍は攻撃は出来ても占拠し続けることはできない。伊予という橋頭保を失ったら、四国に大軍を上陸させ維持する難易度は跳ね上がる。


 毛利の国力は長宗我部の三倍以上だが、この形を作られたら勝ちきることは難しくなる。時間がかかれば柴田を片付けた土岐光秀が介入してくる。長宗我部と土岐は縁戚関係だ。


 九州の情勢次第で大友も動くだろう。土岐、長宗我部、大友による毛利包囲網。こうなったら最悪の事態だ。というかそういう事態を防ぐために毛利は伊予が必要なのだ。


 隆景の分析なら東から長宗我部本隊の一万五千。南から五千くらいか。対して河野家が単独で用意できるのは五千を切るだろう。何しろ伊予の三割以上が敵方になっている。


 毛利が二万の兵を用意するには二ヶ月以上かかる。そのころには河野は湯築城一つに追い詰められている可能性が高い。いや下手したら陥落しているだろう。


 本来の歴史では長宗我部元親は秀吉の侵攻前に四国を統一していたというのが定説だ。毛利は河野救援に間に合っていない。おそらくだが先ほど隆景が述べたような戦略が決まったのだ。


 この戦争は初動で決まる。長宗我部が伊予を一気に攻略するか、毛利が河野を助けて橋頭保いよを確保できるか。初動で長宗我部に主導権を取られたら、最悪は毛利包囲網の完成。土岐が柴田にてこずったり、大友が島津を警戒して動かなかったとしても毛利は勝利のために国力のかなりを蕩尽しているだろう。


 だが長宗我部に対抗するならやはり二万は欲しい。しかし、その動員を待っていたら伊予は落ちかねない。解けないパズルだ。


 というかこういう時のために海兵隊だったんだ。だが海兵隊は未だ二百四十名の小部隊。長宗我部との戦に効果を発揮できる規模ではない。


 ……いや、待てよ。


 そもそも、私は最初から今回の件を伊予国内の紛争として収めたかったのではないか。そしてその目はまだ完全に潰えてはいない。


「まず私自身が伊予に渡ります。先の宇喜多との戦では出陣しなかったので動かねば示しがつきません」

「……結構でございます。国衆も多少の負担は我慢しましょう。ですがなおさら兵数がそろわねば」

「私が率いるのは安芸、周防、備後の衆とする。ただし軍役は普段の三分の一とします」

「それでは五千程度でございますぞ。国衆らが普請分も除けと言えば四千も集りませぬ」

「当面はそれで十分。毛利が後詰の姿勢をいち早く示さねば河野家は戦わずして崩れかねない」

「だが、その数では長宗我部元親はそれこそ一気呵成に事を決しようとするであろう」


 隆景が言った。この男がそういうならそうなる。河野通直と共に湯築城一つに追い詰められ、命と引き換えに二度と四国に手を出さないと約束させられて帰ってくる、あたりが相場か。最悪河野家と一緒に滅びる。


「むろん長宗我部の主力、東の動きを抑えるために小早川水軍、備前の新付の者たちに役目を果たしてもらいます。その間に私は……」


 私はこれから毛利軍が取る戦略を説明した。


 要するに元親の戦略を破綻させることが出来ればいいのだ。私の思惑通りに行けば長宗我部との戦争になる前に終わらせる。その為の海兵隊だ。

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