第四話 起請文
天正十三年五月。安芸国呉鎮守府。
「そうか。土居と法華津の矢止めが成ったか」
広島視察を終え呉に戻った私はほぼ同時に四国から戻った堅田元慶の報告に安堵した。
宍戸隆家は河野家本拠の湯築城に入り、孫の元続が率いた二百五十の兵が湯築城と戦場である岡本城の真ん中に位置する八幡浜付近の山城に駐屯、戦の停止を双方に勧告した。
あくまで双方に呼び掛けたわけだが、最初に拳を振り上げたのは法華津だ。攻撃をやめないと宍戸軍が土居の
毛利を敵に回すわけにはいかない法華津が戦闘をやめた。ここまでは筋書き通りだ。現代の定義なら毛利軍の介入により地域紛争を停戦に持ち込むことが出来た、ということになる。次はこの
「先に軍を動かしたのは前延ということだが」
「はっ、元続殿の調べでも間違いないと。ただ発端の村同士の争いで手を出したのは土居側の村です。そこを盾に取り法華津前延が強硬な姿勢を取っているとのことです」
双方に言い分ありか。実際には双方の村に言い分ありなのだろう。この時代は法ではなく人間関係が組織を作る。村の者と領主である清良や前延との関係は法ではなく人格的なものだ。領主としては村の者に「この殿さまは頼りにならん」と思われるのは恐ろしい。
この時代の武士が面子にとことんこだわるのは、頼りないと思われたら終わりだからだ。取次もある意味同じ原理で成立している。
そうだからこそ仲介は難しい。あからさまに土居をひいきすれば、仲介役として機能しない。何とか落としどころを見つけなければならない。
「湯築の隆家様は阿波国衆の反乱が終わりそうだと報告が」
「なるべく早く事を治めねばな。私に必要なことがあれば早急に伝えるように伝えてくれ」
細かい調整は現地にいる隆家に任せるしかない。隆家は戦経験も豊富だが、その婚姻関係から分かるように家と家との関係を周旋するのも上手い。
しかし西園寺公広は未だ病か。南伊予の国衆のまとめ役として土佐との防壁となってきたのだが、どうにも心もとない。まあ境目の国衆というのはそういうものだ。毛利も宇喜多にどれだけ苦労したか。
伊予八幡浜。村田余吉。
「頭。米俵は移し終わったぁ」
「よーし。受け取りがくるまで一休みじゃ」
大八車に乗せた俵の数を確認した儂はいった。皆が一斉に地面に座り込んで雑談を始める。如何に調練を積んでも船から米俵を下すのはきつい。とくに頭である儂は率先して動かにゃならん。
頭と言ってもちょっと給金の良い海兵じゃからな。菫には兵の頭じゃというてしもうたが。いや、嘘はついておらん、六人の組でも頭は頭じゃ。
大組頭になれば海士として知行取りになれるらしいが、戦に出た経験がないと昇進せん定めじゃ。実際、今の四人の大組頭は皆指南役じゃ。
頭と言っても鉄砲も刀も並みの儂では、戦にでもなったら出世より討ち死にしそうじゃ。今くらいが一番いいのかもしれん。
「わざわざ海を越えてやることは米運びとは、百姓やっとったときとあんまり変わらんのう」
「そうそう、米俵より鉄砲を持ちたいわ。先日儂が撃った猪を覚えておるじゃろ」
「待てい。その前に儂が鳥を仕留めておるのを忘れては困る」
組下たちが鉄砲調練の自慢話を始める。鉄砲があまり得意でない儂としては、入りにくい話題じゃ。調練場で的に当てるのはそんな変わらんのじゃが、山に入るととんと当たらん。
鉄砲頭の鈴木様のような神業はともかく、もうちょっと頑張らんと。
組下より下手なのに、鉄砲の整備について口うるさくせねばならんのはきついからのう。おかげで整備は誰よりもうまくなったが……。
「儂らはいつこの国で戦うかわからん。その時に海で迷ったとは言えんぞ。良くて放逐。逃げたと思われたら打ち首じゃ」
折を見計らい組下をたしなめる。「そりゃかなわん」「そうそううまい飯がくえんことなる」と皆が笑う。儂も笑う。まあ皆も儂同様、知らん国に来て興奮しておるんじゃ。
役目をきちんと果たして居る限り、目くじらを立てることではない。
ただし自分らの役目を、その裏まできちんと覚えておかねばならん。儂の役目は第一にそれじゃ。それに呉に帰ったら『報告書』というのを書かんといかん。
呉から漕ぎ出た儂らの小早船は瀬戸の海を渡り、海に突き出た長い剣のような半島を越えてこの湊にたどり着いた。鎮守府で渡された絵図の名前は八幡浜。四国は島と聞いておったが、普通に陸じゃ。
儂らの役目は兵糧運び。この伊予国で一番偉い河野というお大名様の御家来の西園寺という殿さまの、そのまたご家老二人が里山の境界をめぐって喧嘩しておる。海の向こうでも隣り合う村が仲が悪いのは変わらんようじゃ。
それで親類の縁で宍戸様という偉い大将が仲裁役として近くのお城に詰めておられる。儂らの役目はその宍戸様に米を届けること。組のものの言う通り兵糧運びじゃ。
もう一つ忘れてはいかんことが四国までの航路をしっかり覚えることじゃ。戦場ではないとはいえ、これも油断は出来ん。西には大友という大名がおり、ここらの海で一番強い水軍衆を抱えておるらしい。
儂らの小早船は早さが命じゃ。じゃがもし潮の具合を間違えば、大きな関船や安宅船に追いつかれる。そうしたら上から狙われて終わりじゃ。
さてそろそろ受け取りの宍戸の衆が来るはずじゃが。おおちょうど来た。んっ? なんかやたら立派な侍がおる。
「兵糧米ご苦労。久しいな山縣」
「これは宍戸様。自らお越しとは恐縮です」
大組頭の山縣様が立ち上がった。儂よりも二三歳上の若い侍じゃが。宍戸様というからにはここの大将じゃ。将軍様の御親類じゃという。儂は組のものを立たせた。
「その者たちが御屋形様の海兵とやらか。百姓を集めたと聞くが、なるほど小兵じゃ。まあ米俵を運ぶのは巧みであろう」
「宍戸様。我らは鎮守府将軍様直属の軍、兵どもも鎮守府の一員でございます。そのことはお忘れなきよう」
「分かっておる。とにかくそなたらは我らに兵糧を運べばよい。ことによれば土居清良に助勢せねばならぬかもしれんからな」
「若殿。我らはあくまで双方に睨みを利かせること。湯築の殿の御命令を忘れてはなりませぬぞ」
「分かっておる。ゆえにここにとどまっておるのではないか。だがせっかく伊予に来たのだ。西園寺のことも宍戸が担うとなれば、伊予一国すべて我が家の指南。吉川家、小早川家はともかく穂井田すら播磨半国の旗頭となっておる。我が宍戸家も後れを取ってはならん。御爺様もそう思っておられる」
「それはそうでございますが……」
宍戸様は隣の老人と話しながらいってしもうた。儂らのことは眼中にないという感じじゃったな。伊予一国を指南とは、流石に偉い侍は言うことが違う。若いのに御立派じゃな。
ただここに来る前に聞かされた戦立てと少々違う話をしておった気がするが……。
安芸国呉鎮守府。
「そうか法華津が和睦に応じると言ったか」
私は伊予から戻った隆家の報告にほっとした。宍戸軍を派遣して矢止めがなってから約半月。南伊予の地域紛争はようやく終戦に向かおうとしている。
「和睦の仲立ちを御屋形様に、と法華津が望んでおります」
「私自ら中人をやれと。守護の河野通直を差し置いてか」
「前延の言うには此度の和睦は毛利家のお骨折りでなるのであり、起請文は毛利家に出すのが筋と」
「それはそうですが。……伊予守護はあくまで河野。我らは手伝いの立場を崩してはまずいのでは」
河野家が和睦の保証人としては頼りないのは分からないではないが、河野家の面目を潰すとまずい。如何に毛利の後ろ盾が必要とはいえ、伊予守護を家臣扱いはできない。
「通直殿としては東伊予に集中するために一刻も早く南の争いは治めたいと。阿波の泊城がついに陥落。長宗我部への反乱はもう収まります」
阿波の泊城は鳴門海峡に面した海の要衝で、阿波水軍の大根拠地だ。長宗我部は土佐水軍と本体の海と陸からの同時攻撃で落としたらしい。あそこが落ちたなら反乱は終わりだ。
状況を考えれば通直の判断は冷静だ。力もないのに面子にだけこだわられるよりはいい。何より隆家が保証しているのだから大丈夫だろう。そこら辺の機微を誤る男ではない。
毛利としてもメリットはある。調停者とはその領域に影響力を持っている証だ。権力の一番の役割は秩序維持による無駄な争いを減らすこと。ソクラテスは「悪法は無法に勝る」といった。悪政より
独裁者を滅ぼしたら国が無秩序に陥った例は現代にも溢れかえっていた。独裁体制が長くそれを保てるのは無秩序の恐ろしさを人間がよく知っているからだ。
私の仲裁で和睦が成立するということは、毛利家が河野家を通じて伊予を実効支配しているという既成事実を意味する。それが長宗我部への牽制にもなるだろう。
「分かりました。通直殿が納得しているのなら問題ないでしょう。起請文の案文を早急に整えてください」
「ここに」
隆家が
何より重要なのは河野家と同根の大祝氏が宮司を務めることだ。
和平の起請文はここら辺もややこしい。どの神の名前をどの順番でというのが真面目に協議対象になる。この場合は厳島大明神が一番上にあることで和睦が毛利の保証でなされることが示され、大山祇神社祭神の名前により河野家が関与していることが示される。
起請文とは神に誓うという形式だ。双方の信仰する神が入っているのは当然だ。
ちなみに九州ではキリシタン大名がキリスト神に誓うみたいな起請文もあるらしい。そうなるとややこしいことになる。仮にもう一方がキリシタンでなければ、キリスト教徒的には誓いの文言に悪魔の名前が入っていることになる。
実際にはいろいろ融通を利かせているらしいが、一神教と多神教の関係のむつかしさを示す。
だからこそ大友の動向は要注意なのだ。数年前に大友が日向に侵攻したときは、進軍経路の神社仏閣を破壊したと聞く。その後島津にぼこぼこにされてくれて本当によかった。
西園寺家はその位置的に大友の影響を強く受ける。それを考えても早めに静めるに越したことはない。
広島。児玉元良屋敷。
「ではあの唐医は御屋形様のお側に仕えるものだと」
「はい。用人の待田に確認いたしました」
私は乳母から聞いた話に驚いた。父様は唐のお薬としか言っておられなかった。まさか御屋形様の薬師とは……。
「殿は同じ薬を求めるために手を尽くされておりますが。どうやら唐の国でもよほど珍しいものの様で……」
父様は広島の築城奉行。我が家には商人たちからも多くの付け届けがくる。大半は父様により手伝いを出す国衆などに配られるけど。一度唐の国の珍しい茶器を見せて頂いたことがある。
その父様が手に入れられぬほど貴重なお薬。確かにあれほどの薬効のお薬など聞いたことがない。
「つまり御屋形様にお頼みすればあのお薬が……」
「なりませぬぞ姫様。呉には決して近づいては成らぬと殿のきつい仰せ」
私の言葉に乳母は首を振った。
…………
「姫様。実は私の村の馴染みが呉で……御屋形様の兵として勤めているのです」
乳母が仕事に戻り、私が縁側で一人悩んでいると、侍女の菫がためらいがちに口を開いた。
「誠ですか」
「はい。その話では組頭という役もいただいていると」
組頭。十人くらいの足軽の長だったかしら。ただの兵ではないならあるいは……。
「よく教えてくれました。菫、その者に頼みたいことがあります」
父様のために私が出来る孝行を果たさねば。たとえこの身に替えても……。
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